素朴な疑問ですが、原作は読みました?@ベルサイユのばら−全国ツアー編−
2005年9月27日 タカラヅカ 星組全国ツアー『ベルサイユのばら』の話、その3。
想像を超えた大失敗作。
ひとはここまで潔い失敗もできるんだ、と感動すらおぼえる衝撃作。
細かい失敗は数えていたらきりがないほど満ちあふれているんだが、最大級の過ちは、「今宵一夜」と「バスティーユ」がないことだろう。
植爺作の『ベルばら』なんて、ひどいもんである。最初から。壊れきってる。
だけど、「作品」として「物語」として見たら笑止なほど壊れきっていても、1場面ごとには「エンタメ」として成立しているシーンがある。
それがオスカルとアンドレが愛を誓う「今宵一夜」のシーンであり、アンドレが戦死し、オスカルが民衆と共に戦い、勝利を見届けて死ぬ「バスティーユ」だ。
他のシーンなんかどーせつまらなかったり壊れていたり悪趣味だったりするだけだから、このふたつのシーンさえちゃんとやっておけば、言い訳になる。
どれほど「作品」として「物語」として成立していなくても、このふたつのシーンでどかんと盛り上げておけば、観客は騙せるんだ。
なのに、このダイジェスト版では、このふたつのシーンがない。
いちばん盛り上がるシーンが、存在しない。
はあ??
放っておいても観客を騙せるいちばんオイシイ場面をやらずに、なにをやっているんだ?というと。
メルシー伯がお説教し、フェルゼンが逆ギレするという、無用なだけでなく、はっきりとマイナスな場面。
絵的にも超地味。アクションも退屈。主人公は自己中でかっこわるい。やたらと長い。と、マイナスばかり。
あと、今回書き下ろされた貴婦人たちの場面。
フェルゼン派とオスカル派の貴婦人たちが「ざます・ざます♪」と歌い踊る。
……この場面自体は、悪くない。
主人公たちがどういう人物で、どういう立ち位置なのかをモブキャラに解説させるのは作劇技術としてアリだと思っている。
フェルゼン、オスカル共に貴婦人方のアイドルで親衛隊がいる、という設定を表現する意義は認めている。
今までの「失神しそう」「悶絶しそう」と金切り声とオヤジギャグで笑わせる貴婦人たちのシーンよりは、ミュージカルになっているぶんずっといい。
ただ、たった90分のダイジェスト版でやることか?
メルシー伯もそうだし、この貴婦人たちにしても、たった90分でなんでわざわざやらなきゃならないんだ。メルシー伯に至っては、百害あって一利ナシだから!
冒頭の「仮面舞踏会」のシーンで、フェルゼンとオスカルは「運命の出会い」をしている。
スポットライトをあびて、恋の歌を個々にデュエットしてしまうんだ。
このはじまり方では、ヒロインはオスカルだ。
実際オスカルは、貴族社会とフランスの現状を嘆き、自分の生き方を模索している。ついでに、アンドレといちゃつき(笑)、フェルゼンに恋して失恋したりもしている。
アントワネットが「政略結婚させられたあたしって可哀想。フェルゼンと別れなければならないあたしって可哀想。慰めて」しか今の段階で言ってないのに、オスカルは実にいろいろじたばたしている。
そうやって、オスカルの方をより多く描いておきながら。
フェルゼンがフランスをあとにした次のシーンでは。
「オスカルは、死にました」
フェルゼンの屋敷にやってきたジェローデルがいきなり報告。
ギャグ?
すちゃらかな音楽かけて、みんなでずっこけるとこ?
実際に、25日の客席からは笑いが起こっていたらしい。わたしゃ24日の2公演観ただけでギブアップ、翌日は観てないんだけどさ。
そりゃー、笑うよなあ。吉本だよなあ。吉本にも失礼かなあ。
オスカルの死が笑うとこになっちゃうあたり、失敗作の証明だよね。
いっそわかりやすくていいよなー、ここまですげー失敗って。
さて。ストーリー解説に戻ろう。
フェルゼンがアンドレに説教カマしたあと。
びんぼーくさい張りぼてのセットの前で、謎の下僕デュガゾンが「お嬢様」と呼びかける。
出てきたのはシモーヌ、なんとフェルゼンの姉だ。
姉? フェルゼンの姉?! え、えーと、フェルゼンが30代半ばだから、おねーちゃん40そこそこ? なのにお嬢様?! 結婚してないの? この時代の貴族の姫君が? んで、実家にいるの?!
この段階ですでにブローを喰らっている。植爺、台詞直そうよ。もともとは「妹」だったから、フェルゼンの家にいても変じゃなかったけど、姉は変だってば。ありえないってば。
デュガゾンはフェルゼンに来客があることを伝える。
フェルゼン家にやってきた客、ジェローデルがフランスの現状を報告した。革命のため、アントワネットの命が風前の灯火だと。
ここで、「オスカルは死にました」ね。
これに対するフェルゼンの反応が謎。ノックアウトをくらうほどに。
「可哀想に。どんなに苦しかったろう。まだ若いのに」
てなことを言う。
もしもし?
あなた、ひとの話ちゃんと聞いてました?
オスカルは、アントワネットを裏切って革命に参加し、戦死したんだってば。
死んだから可哀想なんじゃないの。
己の信念のために、生き方を貫いた結果なの。
オスカルを「可哀想」だと言っていいのは、そういう生き方を選ぶに至る彼女の苦悩や慟哭を思いやった場合のみ。
そりゃ、若くして志半ばで果てたのは可哀想だけど。
フェルゼンが言っているのは、「死んじゃったんだー、可哀想〜〜」ってだけでしょ?
まず、オスカルがフランス王家を裏切ったことに驚けよ。
そのうえで、オスカルの人格を信じ、彼女の選んだ生き方を認め、その死を悼め。
しかしフェルゼンはそんなこと、まったくわかっちゃいない。
「そーいや、前に飼っていた子犬、どーしてる?」
「あの犬は、死にました」
「可哀想に」
てな具合。あれほどアントワネットと王家に忠誠を誓っていた親友が、それらすべてを裏切って戦死したと聞いて、言うことが「まだ若いのに、可哀想」かよ。
勘弁してくれよ、植爺……。ほんとーに『ベルサイユのばら』の原作、読んだことあるのか??
ちなみに、フェルゼンとオスカルは同い年なんですがね。あ、ついでに、ルイ16世とアンドレも同い年ですよ。
わたしはべつに、原作マンセーしてるわけではありません。
原作は原作でしかなく、メディアミックスした以上、別物だと思っています。原作のコピーを作れと言っているのでないのです。
原作を無視した植爺オリジナルな部分が、ことごとく壊れている事実を、あげているだけですよ。
続く〜〜。
想像を超えた大失敗作。
ひとはここまで潔い失敗もできるんだ、と感動すらおぼえる衝撃作。
細かい失敗は数えていたらきりがないほど満ちあふれているんだが、最大級の過ちは、「今宵一夜」と「バスティーユ」がないことだろう。
植爺作の『ベルばら』なんて、ひどいもんである。最初から。壊れきってる。
だけど、「作品」として「物語」として見たら笑止なほど壊れきっていても、1場面ごとには「エンタメ」として成立しているシーンがある。
それがオスカルとアンドレが愛を誓う「今宵一夜」のシーンであり、アンドレが戦死し、オスカルが民衆と共に戦い、勝利を見届けて死ぬ「バスティーユ」だ。
他のシーンなんかどーせつまらなかったり壊れていたり悪趣味だったりするだけだから、このふたつのシーンさえちゃんとやっておけば、言い訳になる。
どれほど「作品」として「物語」として成立していなくても、このふたつのシーンでどかんと盛り上げておけば、観客は騙せるんだ。
なのに、このダイジェスト版では、このふたつのシーンがない。
いちばん盛り上がるシーンが、存在しない。
はあ??
放っておいても観客を騙せるいちばんオイシイ場面をやらずに、なにをやっているんだ?というと。
メルシー伯がお説教し、フェルゼンが逆ギレするという、無用なだけでなく、はっきりとマイナスな場面。
絵的にも超地味。アクションも退屈。主人公は自己中でかっこわるい。やたらと長い。と、マイナスばかり。
あと、今回書き下ろされた貴婦人たちの場面。
フェルゼン派とオスカル派の貴婦人たちが「ざます・ざます♪」と歌い踊る。
……この場面自体は、悪くない。
主人公たちがどういう人物で、どういう立ち位置なのかをモブキャラに解説させるのは作劇技術としてアリだと思っている。
フェルゼン、オスカル共に貴婦人方のアイドルで親衛隊がいる、という設定を表現する意義は認めている。
今までの「失神しそう」「悶絶しそう」と金切り声とオヤジギャグで笑わせる貴婦人たちのシーンよりは、ミュージカルになっているぶんずっといい。
ただ、たった90分のダイジェスト版でやることか?
メルシー伯もそうだし、この貴婦人たちにしても、たった90分でなんでわざわざやらなきゃならないんだ。メルシー伯に至っては、百害あって一利ナシだから!
冒頭の「仮面舞踏会」のシーンで、フェルゼンとオスカルは「運命の出会い」をしている。
スポットライトをあびて、恋の歌を個々にデュエットしてしまうんだ。
このはじまり方では、ヒロインはオスカルだ。
実際オスカルは、貴族社会とフランスの現状を嘆き、自分の生き方を模索している。ついでに、アンドレといちゃつき(笑)、フェルゼンに恋して失恋したりもしている。
アントワネットが「政略結婚させられたあたしって可哀想。フェルゼンと別れなければならないあたしって可哀想。慰めて」しか今の段階で言ってないのに、オスカルは実にいろいろじたばたしている。
そうやって、オスカルの方をより多く描いておきながら。
フェルゼンがフランスをあとにした次のシーンでは。
「オスカルは、死にました」
フェルゼンの屋敷にやってきたジェローデルがいきなり報告。
ギャグ?
すちゃらかな音楽かけて、みんなでずっこけるとこ?
実際に、25日の客席からは笑いが起こっていたらしい。わたしゃ24日の2公演観ただけでギブアップ、翌日は観てないんだけどさ。
そりゃー、笑うよなあ。吉本だよなあ。吉本にも失礼かなあ。
オスカルの死が笑うとこになっちゃうあたり、失敗作の証明だよね。
いっそわかりやすくていいよなー、ここまですげー失敗って。
さて。ストーリー解説に戻ろう。
フェルゼンがアンドレに説教カマしたあと。
びんぼーくさい張りぼてのセットの前で、謎の下僕デュガゾンが「お嬢様」と呼びかける。
出てきたのはシモーヌ、なんとフェルゼンの姉だ。
姉? フェルゼンの姉?! え、えーと、フェルゼンが30代半ばだから、おねーちゃん40そこそこ? なのにお嬢様?! 結婚してないの? この時代の貴族の姫君が? んで、実家にいるの?!
この段階ですでにブローを喰らっている。植爺、台詞直そうよ。もともとは「妹」だったから、フェルゼンの家にいても変じゃなかったけど、姉は変だってば。ありえないってば。
デュガゾンはフェルゼンに来客があることを伝える。
フェルゼン家にやってきた客、ジェローデルがフランスの現状を報告した。革命のため、アントワネットの命が風前の灯火だと。
ここで、「オスカルは死にました」ね。
これに対するフェルゼンの反応が謎。ノックアウトをくらうほどに。
「可哀想に。どんなに苦しかったろう。まだ若いのに」
てなことを言う。
もしもし?
あなた、ひとの話ちゃんと聞いてました?
オスカルは、アントワネットを裏切って革命に参加し、戦死したんだってば。
死んだから可哀想なんじゃないの。
己の信念のために、生き方を貫いた結果なの。
オスカルを「可哀想」だと言っていいのは、そういう生き方を選ぶに至る彼女の苦悩や慟哭を思いやった場合のみ。
そりゃ、若くして志半ばで果てたのは可哀想だけど。
フェルゼンが言っているのは、「死んじゃったんだー、可哀想〜〜」ってだけでしょ?
まず、オスカルがフランス王家を裏切ったことに驚けよ。
そのうえで、オスカルの人格を信じ、彼女の選んだ生き方を認め、その死を悼め。
しかしフェルゼンはそんなこと、まったくわかっちゃいない。
「そーいや、前に飼っていた子犬、どーしてる?」
「あの犬は、死にました」
「可哀想に」
てな具合。あれほどアントワネットと王家に忠誠を誓っていた親友が、それらすべてを裏切って戦死したと聞いて、言うことが「まだ若いのに、可哀想」かよ。
勘弁してくれよ、植爺……。ほんとーに『ベルサイユのばら』の原作、読んだことあるのか??
ちなみに、フェルゼンとオスカルは同い年なんですがね。あ、ついでに、ルイ16世とアンドレも同い年ですよ。
わたしはべつに、原作マンセーしてるわけではありません。
原作は原作でしかなく、メディアミックスした以上、別物だと思っています。原作のコピーを作れと言っているのでないのです。
原作を無視した植爺オリジナルな部分が、ことごとく壊れている事実を、あげているだけですよ。
続く〜〜。
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