ビューティフル・ドリーマー。@I got music
2005年9月21日 タカラヅカ タカラヅカの魅力ってなんだろう。
たくさんあるけれど、そのなかのひとつに、永遠の「学園祭前夜」ってのがあると思う。
押井守の代表作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』に象徴的に取り上げられている、このモチーフ。
学園祭当日より、その準備に奔走しているときの方が、たのしいんだよね。
仲間たちと一緒になって、笑って騒いでケンカして、ひとつの目的と時間を共有し、「青春」という花畑にいる。
学園祭を成功させたからといって、お金が儲かるわけでなし、受験に有利になるでなし、べつになんの利潤もないんだけど。
それでもモラトリアムの学生たちは、全身全霊をあげて「なんの得にもならないこと」に時間と労力を費やす。
いや、得にならないからこそ、無意味だからこそ、一途に。
いつか、終わってしまう祭り。
現実が残酷な口を開けて待っている、その間際での夢。
「今がいちばんいい時だよね。このまま時が止まってしまえばいいのに」
そんなせつないのぞみの、一瞬のきらめき。
「学園祭前夜」−−誰もが失ってしまった、宝物。
タカラヅカって、そーゆーとこだなあ、と。
彼女たちがプロの舞台人であり、歌劇団が企業であり利潤追求を第一にしていることとかとは、まったく別にね。
宝塚は夢を見せる劇団です、とかよく言うけど。
その「夢」っていうのは、なにも舞台の上だけのことじゃないと思うの。女が演じる虚構の美青年が、ありえないドラマティックでロマンティックな恋愛模様をデコラティヴに歌い踊るから「夢」なわけじゃない。
タカラジェンヌが見せる「役」以外の顔もまた、「夢」だと思うんだ。
春野寿美礼コンサート『I got music』東京千秋楽。
舞台上で、春野寿美礼はボロボロ泣いていた。
共演者たちひとりひとりにメッセージをのべ、礼を言い、オーケストラや指揮者、スタッフにまで、ひとつひとつ礼を言っては泣いていた。
ふつーの商売なら、ありえないから。
デパートの店員が、客に尻を向けて「この企画が成功したのは、盛り立ててくれたスタッフのおかげです、ありがとう」と泣き出したら、客は怒るだろう。
そんなことは、閉店後にやれ。客は商品を買いに来ただけだ。店側の都合なんか関係ない。
てなもん。
んな役者のプライベートを、金を取ったステージでやるな。客に尻を向けて仲間を持ち上げるな。内輪受けも甚だしい。カンチガイも甚だしい。
だけどソレが、タカラヅカ。
そんな「内輪受け」な姿を見せてしまうことも、舞台のうち。
わたしたちが欲しいのは、ただの「商品」じゃないから。
「夢」だから。
ひととひとがつながりあって、感謝して、努力して、心のいちばんきれいな部分で、ある意味幼くてつたない部分で、ありったけの力をふりしぼる、そーゆーところも含めて「夢」だから。
寿美礼ちゃんが泣きながら仲間に感謝する姿に、観客ももらい泣きして拍手するから。
タカラヅカの魅力のひとつは、永遠の「学園祭前夜」であること。
プロだから、お金をもらっているのだから、ということとは別に、学園祭のために必死になる学生たちのような真摯さで、舞台に臨むタカラジェンヌの姿をも、理解し、愛でる。
わたしたちがもう失ってしまったものを、持ち続ける彼女たちに、遠い羨望と切なさを抱きながら。
大阪・梅芸の千秋楽が押しに押したから、東京・人見でのラストステージも、そりゃー押すだろうなとは思っていたけど。60分は確実に延びてたよね。DVDの収録時間がどうなるのか、気になるところだ(笑)。
それまでも、純粋に寿美礼ちゃんの歌声だけで泣けたりはしていたんだけど、この人見楽では、歌声だけでなくその「学園祭前夜」な彼らのきらめきが見えて、さらに涙腺を直撃した。
1部のスネアドラム、個人に続きメンバー全員での演奏を成功させたあと、感極まったように寿美礼ちゃんが、隣のまっつとみわっちの肩を抱く姿。
真ん中のオサちゃんからはじまって、メンバーが次々と隣の人の肩を抱き寄せ、全員でのスクラムに。
ショーストップは、何回あっただろうね。
拍手が爆発するかのよーに響き渡り、ホールをふるわせる。
彼らの一体感と達成感、努力と情熱、信頼と感動に、観客も反応する。
だってさあ、観ているわたしたちも、応援してるんだもんな。舞台から「与えられている」だけでなく、もっと能動的に、観客も舞台上の彼らに感情移入して「関与している」んだもの。
彼らの発するモノへの反応も大きいよ。
2部のMCでは、『H2$』の小道具本が、メンバーたちからの手作りアルバムになっていた。ほら、学生がよくやる「卒業サイン帳」みたいなノリで。
うれしがって中身をカメラにさらそうとするオサに、メンバーたちから悲鳴が上がっていた。
オサちゃん個人への、ほんっとーに個人的なメッセージ・アルバムなんだね。だから、客に見せられたら恥ずかしくて悲鳴あげちゃうよーなプライベートなモノを、舞台に持ち込むなよ(笑)とは思うんだけど。
それがヅカクオリティ。彼らのそーゆー公私混同したアマチュア感が愛しい。
そのアルバムには、ケガで休演したきらりちゃんからのメッセージもあるんだって。
そうか、そうだよな。きらりちゃんだって仲間だ。このすばらしい舞台を創り上げた一員だ。
そう思えること、そしてきらりちゃんのことを、ちゃんとマイクで話すオサにも、うれしくて涙が出る。
ふつーに生きていて、いったいどれくらいあるだろうね、仲間を抱きしめてよろこびの涙を流すことって。
一方的に抱きしめるのではなく抱かれるのではなく、抱きあい、肩を叩き合うのって。
それほどの昂揚を、感動を、味わえることって、どれくらいあるのかなあ?
そこに行くためにはまず、自分を含めた仲間たち全員がとことんまで追いつめられ、ギリギリのところで踏ん張って、戦わなきゃな。戦い抜かなきゃな。
そこまで行って、それを超えてこその、涙なんだよな。
だからこその、よろこびなんだよな。
それを味わえる彼らに、拍手を。
感動の涙を流す彼らを見て、感動できるわたしたちに、拍手を。
ヒトはこんなに愛しいイキモノだ。
鳴りやまない拍手に、春野寿美礼は言う。
「満足だよ。次に進むよ」
そうか、次か。
わたしなんかが逆立ちしても得られないモノを手にしておいて、それは彼にとってひとつのステップでしかなくて、さらに次があるものなんだ。
なんて贅沢なんだろう。
なんて……特別な人なんだろう。
春野寿美礼。
感嘆の思いで、刮目する。
このひとを知りたい。このひとを見届けたい。
心から。
わたしは春野寿美礼にはなれないけれど、春野寿美礼を愛する人にはなれる。
だから、わたしはわたしでいいんだ。
わたしはわたしのまま、この人についていこう。
そう思った。
たくさんあるけれど、そのなかのひとつに、永遠の「学園祭前夜」ってのがあると思う。
押井守の代表作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』に象徴的に取り上げられている、このモチーフ。
学園祭当日より、その準備に奔走しているときの方が、たのしいんだよね。
仲間たちと一緒になって、笑って騒いでケンカして、ひとつの目的と時間を共有し、「青春」という花畑にいる。
学園祭を成功させたからといって、お金が儲かるわけでなし、受験に有利になるでなし、べつになんの利潤もないんだけど。
それでもモラトリアムの学生たちは、全身全霊をあげて「なんの得にもならないこと」に時間と労力を費やす。
いや、得にならないからこそ、無意味だからこそ、一途に。
いつか、終わってしまう祭り。
現実が残酷な口を開けて待っている、その間際での夢。
「今がいちばんいい時だよね。このまま時が止まってしまえばいいのに」
そんなせつないのぞみの、一瞬のきらめき。
「学園祭前夜」−−誰もが失ってしまった、宝物。
タカラヅカって、そーゆーとこだなあ、と。
彼女たちがプロの舞台人であり、歌劇団が企業であり利潤追求を第一にしていることとかとは、まったく別にね。
宝塚は夢を見せる劇団です、とかよく言うけど。
その「夢」っていうのは、なにも舞台の上だけのことじゃないと思うの。女が演じる虚構の美青年が、ありえないドラマティックでロマンティックな恋愛模様をデコラティヴに歌い踊るから「夢」なわけじゃない。
タカラジェンヌが見せる「役」以外の顔もまた、「夢」だと思うんだ。
春野寿美礼コンサート『I got music』東京千秋楽。
舞台上で、春野寿美礼はボロボロ泣いていた。
共演者たちひとりひとりにメッセージをのべ、礼を言い、オーケストラや指揮者、スタッフにまで、ひとつひとつ礼を言っては泣いていた。
ふつーの商売なら、ありえないから。
デパートの店員が、客に尻を向けて「この企画が成功したのは、盛り立ててくれたスタッフのおかげです、ありがとう」と泣き出したら、客は怒るだろう。
そんなことは、閉店後にやれ。客は商品を買いに来ただけだ。店側の都合なんか関係ない。
てなもん。
んな役者のプライベートを、金を取ったステージでやるな。客に尻を向けて仲間を持ち上げるな。内輪受けも甚だしい。カンチガイも甚だしい。
だけどソレが、タカラヅカ。
そんな「内輪受け」な姿を見せてしまうことも、舞台のうち。
わたしたちが欲しいのは、ただの「商品」じゃないから。
「夢」だから。
ひととひとがつながりあって、感謝して、努力して、心のいちばんきれいな部分で、ある意味幼くてつたない部分で、ありったけの力をふりしぼる、そーゆーところも含めて「夢」だから。
寿美礼ちゃんが泣きながら仲間に感謝する姿に、観客ももらい泣きして拍手するから。
タカラヅカの魅力のひとつは、永遠の「学園祭前夜」であること。
プロだから、お金をもらっているのだから、ということとは別に、学園祭のために必死になる学生たちのような真摯さで、舞台に臨むタカラジェンヌの姿をも、理解し、愛でる。
わたしたちがもう失ってしまったものを、持ち続ける彼女たちに、遠い羨望と切なさを抱きながら。
大阪・梅芸の千秋楽が押しに押したから、東京・人見でのラストステージも、そりゃー押すだろうなとは思っていたけど。60分は確実に延びてたよね。DVDの収録時間がどうなるのか、気になるところだ(笑)。
それまでも、純粋に寿美礼ちゃんの歌声だけで泣けたりはしていたんだけど、この人見楽では、歌声だけでなくその「学園祭前夜」な彼らのきらめきが見えて、さらに涙腺を直撃した。
1部のスネアドラム、個人に続きメンバー全員での演奏を成功させたあと、感極まったように寿美礼ちゃんが、隣のまっつとみわっちの肩を抱く姿。
真ん中のオサちゃんからはじまって、メンバーが次々と隣の人の肩を抱き寄せ、全員でのスクラムに。
ショーストップは、何回あっただろうね。
拍手が爆発するかのよーに響き渡り、ホールをふるわせる。
彼らの一体感と達成感、努力と情熱、信頼と感動に、観客も反応する。
だってさあ、観ているわたしたちも、応援してるんだもんな。舞台から「与えられている」だけでなく、もっと能動的に、観客も舞台上の彼らに感情移入して「関与している」んだもの。
彼らの発するモノへの反応も大きいよ。
2部のMCでは、『H2$』の小道具本が、メンバーたちからの手作りアルバムになっていた。ほら、学生がよくやる「卒業サイン帳」みたいなノリで。
うれしがって中身をカメラにさらそうとするオサに、メンバーたちから悲鳴が上がっていた。
オサちゃん個人への、ほんっとーに個人的なメッセージ・アルバムなんだね。だから、客に見せられたら恥ずかしくて悲鳴あげちゃうよーなプライベートなモノを、舞台に持ち込むなよ(笑)とは思うんだけど。
それがヅカクオリティ。彼らのそーゆー公私混同したアマチュア感が愛しい。
そのアルバムには、ケガで休演したきらりちゃんからのメッセージもあるんだって。
そうか、そうだよな。きらりちゃんだって仲間だ。このすばらしい舞台を創り上げた一員だ。
そう思えること、そしてきらりちゃんのことを、ちゃんとマイクで話すオサにも、うれしくて涙が出る。
ふつーに生きていて、いったいどれくらいあるだろうね、仲間を抱きしめてよろこびの涙を流すことって。
一方的に抱きしめるのではなく抱かれるのではなく、抱きあい、肩を叩き合うのって。
それほどの昂揚を、感動を、味わえることって、どれくらいあるのかなあ?
そこに行くためにはまず、自分を含めた仲間たち全員がとことんまで追いつめられ、ギリギリのところで踏ん張って、戦わなきゃな。戦い抜かなきゃな。
そこまで行って、それを超えてこその、涙なんだよな。
だからこその、よろこびなんだよな。
それを味わえる彼らに、拍手を。
感動の涙を流す彼らを見て、感動できるわたしたちに、拍手を。
ヒトはこんなに愛しいイキモノだ。
鳴りやまない拍手に、春野寿美礼は言う。
「満足だよ。次に進むよ」
そうか、次か。
わたしなんかが逆立ちしても得られないモノを手にしておいて、それは彼にとってひとつのステップでしかなくて、さらに次があるものなんだ。
なんて贅沢なんだろう。
なんて……特別な人なんだろう。
春野寿美礼。
感嘆の思いで、刮目する。
このひとを知りたい。このひとを見届けたい。
心から。
わたしは春野寿美礼にはなれないけれど、春野寿美礼を愛する人にはなれる。
だから、わたしはわたしでいいんだ。
わたしはわたしのまま、この人についていこう。
そう思った。
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