緑の光になって彼を見送る。@宙組千秋楽
2005年9月19日 タカラヅカ 宙組大劇場千秋楽に行った。
ガイチのサヨナラショーのある公演だ。
わたしは今回の宙組公演、芝居の『炎にくちづけを』は大好きだし、これで退団するガイチに「よかったね、やりがいのある役とすばらしい作品で」と思う。
しかし、同時上演のショー『ネオ・ヴォヤージュ』に関しては不満しかない。
単純に、つまらないレベルの低い作品だということが大きい。出演者云々じゃなく、作品的にね。
それに加え、劇団への不審がぬぐいされないことが、作品への感情移入を著しく下げている。
つまり、ガイチの扱いについてだ。
『ネオ・ヴォヤージュ』には、ガイチが中心となるシーンがひとつもなかった。
新専科として劇団を盛り立ててきた人が惜しくも退団する場合、劇団はそれなりの花道を用意してきた。
彼らが出演する最後のショーでは、多少の差こそあれ、ひとつ以上の「主役」シーンがあった。
若手を引きつれて踊るもよし、新進美形男役を女にして絡むもよし。なにかしら要となるシーンがあり、劇団もファンもその人の「男役」としての最後の魅力を堪能する。
別れが悲しいこと、その才能と存在が惜しいこと。それを、「演出」するのが常だと思っていた。
……現実がどうかは知らないよ? 惜しまれているのかそうでないのか、愛されているのかちがうのかなんて、ほんとうのことはわからないのだから、どーでもいー。
問題は、そーゆー「演出」をする大いなるアマチュア感、身内感覚のあたたかさのある劇団として、今まで売ってきたのだということ。
それが、『ネオ・ヴォヤージュ』には欠けていた。
「タカラヅカ」という概念を無視したよーな作りのショーだった。
それが、わたしには落ち着きが悪かった。
不満だった。
それでも、「サヨナラショーがあるんだから」と納得しようとした。
きっと、あたたかい「タカラヅカ」な世界が、サヨナラショーで見られるんだわ、と。
樹里ちゃんのサヨナラショーも檀ちゃんのサヨナラショーも運良く見ることが出来たけど、どちらもとてもあたたかい「タカラヅカ」らしさに充ちたものだったし。
きっと、ガイチもそうだわ。
と、思っていたので。
実際に目にしたガイチのサヨナラショーは、思っていたものとちがいすぎて、心の整理が着かなくなった。
同じ舞台を作ってきた仲間たちと共に、その功績をたたえる演出、別れを惜しむ演出で見送られるのだと思っていた。
ところが、舞台に立つのはほぼガイチひとりで、誰も彼に絡まなかった。着替えの間にあひともたち下級生4人が1曲歌ったのと、同時退団の若者ふたりがガイチのバックで1曲踊ったのみ。
曲も馴染みの少ないもので、わたしがわかったのは2曲だけ。わたし、わりとガイチの舞台観てたんだけどなー。最後のコンサート以外は主演バウとか全部ナマで観てるんだけど……それでもわかんないや……。
その昔、タカネくんのサヨナラショー以来のびっくり感だわ。や、タカネくんのサヨナラショーはあまりに短くてびっくりしたんだけど。
サヨナラショーがどういったしがらみで作られるモノなのか知らないし、どーゆー舞台裏があるにせよ重要なのは客に見せる「演出」であると思っている。
だからわたしは、最後までガイチがみんなに愛されてちやほやされているシーンがないのが、不満だった。
ガイチ本人が「ワンマンショー」を望んだのかもしれないし、劇団が「ひとりで勝手にやれ。組子を使うことは許さん」と言ったのかもしれない。
ほんとうのとこなんて知らないけど。
わたしが演出できる立場なら、別のショーを作ったよ。
たかこやお花様、同期のまりえったや下級生たちにいっぱいちやほやされて、「お別れなんてかなしいよーっ。でもずっと好きだよーっ」と思っていることが目に見えるショーにした。
お稽古は大変だろうけど、そこはプロ根性で乗り越えてもらって。
ああ「タカラヅカ」っていいところだなあ、と思わせる演出にしたよ。
そうすることで、そんなあたたかい舞台の中心に立つガイチの魅力も表現できるだろうし。
『ネオ・ヴォヤージュ』で脇役扱いだったガイチが、誰とも絡まずたったひとりでサヨナラショーをしている姿が、とても淋しかったんだ。
わたし個人の、勝手な思いこみだけど。
千秋楽のペンライトは、本体も光も緑色だった。
そうか、白じゃなくて緑か。ガイチの色なんだ。
心を込めてペンライトを振った。
緑の光が劇場中に揺れていた。
最後のパレード、ガイチの車はミニマムなオープンカーだった。
ガイチは何度も何度も感謝の言葉を繰り返して去っていった。
わたしのこのブログ、最初の公演感想はガイチの『愛・舞・魅』だったんだよ? あのころは検索避けに、正式タイトル書いてないけど。
青い風船を抱きしめながら、ガイチの豊かな歌声を聴いた。記念品のシャープペンも大事にとってあるよ。
ガイチの新しい旅が、しあわせなものでありますように。
ガイチのサヨナラショーのある公演だ。
わたしは今回の宙組公演、芝居の『炎にくちづけを』は大好きだし、これで退団するガイチに「よかったね、やりがいのある役とすばらしい作品で」と思う。
しかし、同時上演のショー『ネオ・ヴォヤージュ』に関しては不満しかない。
単純に、つまらないレベルの低い作品だということが大きい。出演者云々じゃなく、作品的にね。
それに加え、劇団への不審がぬぐいされないことが、作品への感情移入を著しく下げている。
つまり、ガイチの扱いについてだ。
『ネオ・ヴォヤージュ』には、ガイチが中心となるシーンがひとつもなかった。
新専科として劇団を盛り立ててきた人が惜しくも退団する場合、劇団はそれなりの花道を用意してきた。
彼らが出演する最後のショーでは、多少の差こそあれ、ひとつ以上の「主役」シーンがあった。
若手を引きつれて踊るもよし、新進美形男役を女にして絡むもよし。なにかしら要となるシーンがあり、劇団もファンもその人の「男役」としての最後の魅力を堪能する。
別れが悲しいこと、その才能と存在が惜しいこと。それを、「演出」するのが常だと思っていた。
……現実がどうかは知らないよ? 惜しまれているのかそうでないのか、愛されているのかちがうのかなんて、ほんとうのことはわからないのだから、どーでもいー。
問題は、そーゆー「演出」をする大いなるアマチュア感、身内感覚のあたたかさのある劇団として、今まで売ってきたのだということ。
それが、『ネオ・ヴォヤージュ』には欠けていた。
「タカラヅカ」という概念を無視したよーな作りのショーだった。
それが、わたしには落ち着きが悪かった。
不満だった。
それでも、「サヨナラショーがあるんだから」と納得しようとした。
きっと、あたたかい「タカラヅカ」な世界が、サヨナラショーで見られるんだわ、と。
樹里ちゃんのサヨナラショーも檀ちゃんのサヨナラショーも運良く見ることが出来たけど、どちらもとてもあたたかい「タカラヅカ」らしさに充ちたものだったし。
きっと、ガイチもそうだわ。
と、思っていたので。
実際に目にしたガイチのサヨナラショーは、思っていたものとちがいすぎて、心の整理が着かなくなった。
同じ舞台を作ってきた仲間たちと共に、その功績をたたえる演出、別れを惜しむ演出で見送られるのだと思っていた。
ところが、舞台に立つのはほぼガイチひとりで、誰も彼に絡まなかった。着替えの間にあひともたち下級生4人が1曲歌ったのと、同時退団の若者ふたりがガイチのバックで1曲踊ったのみ。
曲も馴染みの少ないもので、わたしがわかったのは2曲だけ。わたし、わりとガイチの舞台観てたんだけどなー。最後のコンサート以外は主演バウとか全部ナマで観てるんだけど……それでもわかんないや……。
その昔、タカネくんのサヨナラショー以来のびっくり感だわ。や、タカネくんのサヨナラショーはあまりに短くてびっくりしたんだけど。
サヨナラショーがどういったしがらみで作られるモノなのか知らないし、どーゆー舞台裏があるにせよ重要なのは客に見せる「演出」であると思っている。
だからわたしは、最後までガイチがみんなに愛されてちやほやされているシーンがないのが、不満だった。
ガイチ本人が「ワンマンショー」を望んだのかもしれないし、劇団が「ひとりで勝手にやれ。組子を使うことは許さん」と言ったのかもしれない。
ほんとうのとこなんて知らないけど。
わたしが演出できる立場なら、別のショーを作ったよ。
たかこやお花様、同期のまりえったや下級生たちにいっぱいちやほやされて、「お別れなんてかなしいよーっ。でもずっと好きだよーっ」と思っていることが目に見えるショーにした。
お稽古は大変だろうけど、そこはプロ根性で乗り越えてもらって。
ああ「タカラヅカ」っていいところだなあ、と思わせる演出にしたよ。
そうすることで、そんなあたたかい舞台の中心に立つガイチの魅力も表現できるだろうし。
『ネオ・ヴォヤージュ』で脇役扱いだったガイチが、誰とも絡まずたったひとりでサヨナラショーをしている姿が、とても淋しかったんだ。
わたし個人の、勝手な思いこみだけど。
千秋楽のペンライトは、本体も光も緑色だった。
そうか、白じゃなくて緑か。ガイチの色なんだ。
心を込めてペンライトを振った。
緑の光が劇場中に揺れていた。
最後のパレード、ガイチの車はミニマムなオープンカーだった。
ガイチは何度も何度も感謝の言葉を繰り返して去っていった。
わたしのこのブログ、最初の公演感想はガイチの『愛・舞・魅』だったんだよ? あのころは検索避けに、正式タイトル書いてないけど。
青い風船を抱きしめながら、ガイチの豊かな歌声を聴いた。記念品のシャープペンも大事にとってあるよ。
ガイチの新しい旅が、しあわせなものでありますように。
コメント