変わらない世界にこそ、光を。@炎にくちづけを
2005年9月19日 タカラヅカ 宙組公演『炎にくちづけを』の話のつづき。
ストーリーが進み、立場が変わるのに、キャラクタの人格がブレない。
これは物語の基本だが、守られている作品は少ない。ストーリーの展開に合わせて別人格になるのがよくあること、ありすぎることだからだ。
物語は前半と後半で大きく変化する。
前半でヒーローとして描かれていたマンリーコが、後半はとことん落ちぶれる。囚人服に白髪。自信家で強引だったのに、己の無力を嘆くのみだ。
だが、彼の基本人格はべつにブレてないんだよね。
彼は自分で行動する男だけれど、物語の中では「巻き込まれ型主人公」として度重なる受難に立場が変わっていく。どんどん落ちぶれていくわけだけど、卑屈になることもなく責任転嫁もしない。彼が基本として持っていた「強さ」はそのままだ。
演じているたかちゃんの持ち味も加わって、「繊細さ」が大きく現れているだけのこと。
処刑を前にして取り乱すことなく母を労り、愛するレオノーラの無事を祈る。「強い」ヒーローだからできること。
そして、レオノーラ。最初恋に恋するバカ姫風に登場した彼女は、ここで生き様の集大成を見せる。
恋に恋したわけじゃない。彼女がマンリーコを愛したのは必然だった。
彼女の属する社会の「正義」と、彼女自身の「正義」は相容れなかった。だから彼女は、別の社会倫理を持つマンリーコを愛した。
だから彼女は、その愛のために死を選んだ。
そこまでの決意でレオノーラはルーナ伯爵と取引し、マンリーコを逃がそうとしたのに。
マンリーコはレオノーラを疑った。
彼女が自分たちの愛を売り渡したのだと。
ここでマンリーコは、ヒーローからただの男になる。人格の変化ではなくて、基本自信家で強引だった彼の、マイナス面が発露する。
でもそれも、無理はない。レオノーラの愛だけが、ふたりの愛だけが、絶望の底にいる彼の支えだったのだから。
その前の場面で高らかに、金色の光をあびて愛を歌ってた直後だからこそ。
マンリーコの怒りは正しいし、それにさらされるレオノーラの悲しみも正しい。
レオノーラは死に、マンリーコは最後の希望だった愛すら失って、処刑の朝を迎える。
ルーナ伯爵側の者たち、兵士や修道女・女官たちが合唱する「20年前」に、生き残ったジプシー女たちの歌が加わる。
「20年経っても 200年経っても 2000年経っても 何も変わりはしなかった!」
対比されているのは、キリスト教とたちとジプシー。
弱い者と強い者。
弱いのはキリスト教徒たち。
他者を受け入れる度量を持たず、刃を向けることでしか自分を守れない。
パリアの強さを、誰もが持つことができればいい。自分とはあきらかに「チガウ」ものにも脅威を感じず、受け入れる強さ。
互いのちがいを認め、尊重し合う強さ。
だけどひとは、パリアにはなれなくて。
わかりやすい強固なものにしがみついて、弱い「個」を転嫁し思い上がる。
わたしは悪くない。わたしは悪くない。
悪いのはわたし以外の誰か。わたし以外のなにか。
だってわたしはひとりじゃない。みんなみんな、そう言っている。わたしはみんなのなかのひとり。だから、今言っているこの意見だって、わたしの責任じゃない。みんなと同じことを言っているだけなのだから。
弱いものたちが、「正義」を歌う。高らかに。
「正義」の名のもとに、「悪」を虐殺する。
繰り返される過ち。
何故、ひとはこんなに弱い。
弱いことにさえ気づかず、他人を貶め、勝ち誇っていられるのか。
キムシンテーマの大合唱。
感情の爆発、今まで積み重ねられてきた「感情」「心の筋」を正しく発散させるシーン。
弱い者、まちがっている者が、彼らにとっての「正しさ」で華開く。
それを刺す「強いけれど力を持たない者」であるジプシーたちの絶唱。
そこへ重なる、マンリーコの歌声。
基本自信家で強引な「ヒーロー」だった彼は、過ちを犯した。たったひとつの愛を疑った。いや、そもそもまちがわない人間なんかいない。誰だって、まちがいばかりだ。
野心に燃える若者だった彼が、思い至らなかっただけで。
彼を打ちのめしていったひとつひとつの出来事が、彼をひとつずつ押し上げていった。
最後の歌へと。
「許しを」……そう歌うところへと。
自分の犯した罪、自分とわかりあえたものわかりあえないもの、すべてのものの罪に、許しを。
物語の「筋」と、キャラクタの「筋」が正しく機能し、カタルシスを作る。
そしてこの物語はそもそも、20年前にあった凄惨な出来事の「復讐」として仕組まれたことだった。
母親を焼き殺されたアズチューナは、復讐のために赤ん坊だったマンリーコを焼き殺そうとして、誤って自分の息子を殺してしまった。
妄執は愛と狂気をつづら折り、わたしのたちのなかにあるはずのものが、わたしたちの手の届かないところまで行ってしまったやるせなさですべてを炎と為す。
アズチューナはマンリーコを愛していただろう。それでも、この結末は変えられなかったのだろう。
繰り返される過ち。
何故、ひとはこんなに弱い。
ひとの心の弱さと醜さが、たたみかけるこの激しく美しい物語で。
最後に、光が差す。
「許しを」と歌うマンリーコすら、妄執の果ての駒にすぎなかった救いのない現実の前に。
光が差す。
白い翼と、輝く美しさのマンリーコ。
「ジーザスが嫌いじゃない」と他者を認めるジプシーのテーマが流れ、「あなたが生きている それだけが我が望み」と無償の愛を歌うマンリーコの恋歌が流れる。
寛容と、愛。
人間の持つ、持っているはずの、うつくしいものが、奏でられる。
そして、幕が下りる。
そーやって、この物語は終わる。
なんというストレートな力を持った物語なのか。
ダイレクトに五感と精神に訴えかける物語。
キムシンの演出技術はどんどん上がっていってるよね。美しく正しい作劇。そのうえ、「うるさい作風」も健在とくれば、こりゃー目立つわ(笑)。
わたしはこの『炎にくちづけを』が大好き。
あるがままに心を揺さぶられ、大泣きしている。
すげー作品に出会えたなー。初日の衝撃は忘れられないよ。こんな物語をつづれる人間になりたいと思う。や、言いたいこともいろいろあるけど(笑)。
そしてわたし、やっぱりたかちゃん好き〜〜。
マンリーコ素敵。恋歌のところなんか、ライトだけの問題じゃなく、輝いてるよね、彼。
それから、お花様好き〜〜。
レオノーラ大好き。あの美しさ、けなげさ、高貴さ。毅然と立つ姿に魂がふるえる。
このふたりの「美しさ」が、どれほどわたしを救ってくれるか。癒してくれるか。
出会えて良かったと、素直に思う。
『炎にくちづけを』、一部の人には拒絶反応が出るだろーけど、この「力」のある物語はすばらしい。キムシンには是非、このままの芸風で突き進んで欲しい。
来年の「ジュリアス・シーザー」が心からたのしみだ。
……キムシン作品は大好きだけど、キムシン自身とは友だちになれそうにない、つきあえそうにない、といつもしみじみ思うんだけどね(笑)。
ストーリーが進み、立場が変わるのに、キャラクタの人格がブレない。
これは物語の基本だが、守られている作品は少ない。ストーリーの展開に合わせて別人格になるのがよくあること、ありすぎることだからだ。
物語は前半と後半で大きく変化する。
前半でヒーローとして描かれていたマンリーコが、後半はとことん落ちぶれる。囚人服に白髪。自信家で強引だったのに、己の無力を嘆くのみだ。
だが、彼の基本人格はべつにブレてないんだよね。
彼は自分で行動する男だけれど、物語の中では「巻き込まれ型主人公」として度重なる受難に立場が変わっていく。どんどん落ちぶれていくわけだけど、卑屈になることもなく責任転嫁もしない。彼が基本として持っていた「強さ」はそのままだ。
演じているたかちゃんの持ち味も加わって、「繊細さ」が大きく現れているだけのこと。
処刑を前にして取り乱すことなく母を労り、愛するレオノーラの無事を祈る。「強い」ヒーローだからできること。
そして、レオノーラ。最初恋に恋するバカ姫風に登場した彼女は、ここで生き様の集大成を見せる。
恋に恋したわけじゃない。彼女がマンリーコを愛したのは必然だった。
彼女の属する社会の「正義」と、彼女自身の「正義」は相容れなかった。だから彼女は、別の社会倫理を持つマンリーコを愛した。
だから彼女は、その愛のために死を選んだ。
そこまでの決意でレオノーラはルーナ伯爵と取引し、マンリーコを逃がそうとしたのに。
マンリーコはレオノーラを疑った。
彼女が自分たちの愛を売り渡したのだと。
ここでマンリーコは、ヒーローからただの男になる。人格の変化ではなくて、基本自信家で強引だった彼の、マイナス面が発露する。
でもそれも、無理はない。レオノーラの愛だけが、ふたりの愛だけが、絶望の底にいる彼の支えだったのだから。
その前の場面で高らかに、金色の光をあびて愛を歌ってた直後だからこそ。
マンリーコの怒りは正しいし、それにさらされるレオノーラの悲しみも正しい。
レオノーラは死に、マンリーコは最後の希望だった愛すら失って、処刑の朝を迎える。
ルーナ伯爵側の者たち、兵士や修道女・女官たちが合唱する「20年前」に、生き残ったジプシー女たちの歌が加わる。
「20年経っても 200年経っても 2000年経っても 何も変わりはしなかった!」
対比されているのは、キリスト教とたちとジプシー。
弱い者と強い者。
弱いのはキリスト教徒たち。
他者を受け入れる度量を持たず、刃を向けることでしか自分を守れない。
パリアの強さを、誰もが持つことができればいい。自分とはあきらかに「チガウ」ものにも脅威を感じず、受け入れる強さ。
互いのちがいを認め、尊重し合う強さ。
だけどひとは、パリアにはなれなくて。
わかりやすい強固なものにしがみついて、弱い「個」を転嫁し思い上がる。
わたしは悪くない。わたしは悪くない。
悪いのはわたし以外の誰か。わたし以外のなにか。
だってわたしはひとりじゃない。みんなみんな、そう言っている。わたしはみんなのなかのひとり。だから、今言っているこの意見だって、わたしの責任じゃない。みんなと同じことを言っているだけなのだから。
弱いものたちが、「正義」を歌う。高らかに。
「正義」の名のもとに、「悪」を虐殺する。
繰り返される過ち。
何故、ひとはこんなに弱い。
弱いことにさえ気づかず、他人を貶め、勝ち誇っていられるのか。
キムシンテーマの大合唱。
感情の爆発、今まで積み重ねられてきた「感情」「心の筋」を正しく発散させるシーン。
弱い者、まちがっている者が、彼らにとっての「正しさ」で華開く。
それを刺す「強いけれど力を持たない者」であるジプシーたちの絶唱。
そこへ重なる、マンリーコの歌声。
基本自信家で強引な「ヒーロー」だった彼は、過ちを犯した。たったひとつの愛を疑った。いや、そもそもまちがわない人間なんかいない。誰だって、まちがいばかりだ。
野心に燃える若者だった彼が、思い至らなかっただけで。
彼を打ちのめしていったひとつひとつの出来事が、彼をひとつずつ押し上げていった。
最後の歌へと。
「許しを」……そう歌うところへと。
自分の犯した罪、自分とわかりあえたものわかりあえないもの、すべてのものの罪に、許しを。
物語の「筋」と、キャラクタの「筋」が正しく機能し、カタルシスを作る。
そしてこの物語はそもそも、20年前にあった凄惨な出来事の「復讐」として仕組まれたことだった。
母親を焼き殺されたアズチューナは、復讐のために赤ん坊だったマンリーコを焼き殺そうとして、誤って自分の息子を殺してしまった。
妄執は愛と狂気をつづら折り、わたしのたちのなかにあるはずのものが、わたしたちの手の届かないところまで行ってしまったやるせなさですべてを炎と為す。
アズチューナはマンリーコを愛していただろう。それでも、この結末は変えられなかったのだろう。
繰り返される過ち。
何故、ひとはこんなに弱い。
ひとの心の弱さと醜さが、たたみかけるこの激しく美しい物語で。
最後に、光が差す。
「許しを」と歌うマンリーコすら、妄執の果ての駒にすぎなかった救いのない現実の前に。
光が差す。
白い翼と、輝く美しさのマンリーコ。
「ジーザスが嫌いじゃない」と他者を認めるジプシーのテーマが流れ、「あなたが生きている それだけが我が望み」と無償の愛を歌うマンリーコの恋歌が流れる。
寛容と、愛。
人間の持つ、持っているはずの、うつくしいものが、奏でられる。
そして、幕が下りる。
そーやって、この物語は終わる。
なんというストレートな力を持った物語なのか。
ダイレクトに五感と精神に訴えかける物語。
キムシンの演出技術はどんどん上がっていってるよね。美しく正しい作劇。そのうえ、「うるさい作風」も健在とくれば、こりゃー目立つわ(笑)。
わたしはこの『炎にくちづけを』が大好き。
あるがままに心を揺さぶられ、大泣きしている。
すげー作品に出会えたなー。初日の衝撃は忘れられないよ。こんな物語をつづれる人間になりたいと思う。や、言いたいこともいろいろあるけど(笑)。
そしてわたし、やっぱりたかちゃん好き〜〜。
マンリーコ素敵。恋歌のところなんか、ライトだけの問題じゃなく、輝いてるよね、彼。
それから、お花様好き〜〜。
レオノーラ大好き。あの美しさ、けなげさ、高貴さ。毅然と立つ姿に魂がふるえる。
このふたりの「美しさ」が、どれほどわたしを救ってくれるか。癒してくれるか。
出会えて良かったと、素直に思う。
『炎にくちづけを』、一部の人には拒絶反応が出るだろーけど、この「力」のある物語はすばらしい。キムシンには是非、このままの芸風で突き進んで欲しい。
来年の「ジュリアス・シーザー」が心からたのしみだ。
……キムシン作品は大好きだけど、キムシン自身とは友だちになれそうにない、つきあえそうにない、といつもしみじみ思うんだけどね(笑)。
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