アイシテルヨ。アイシテル。@I got music
2005年9月14日 タカラヅカ 自分でも、バカだなー、とは思うけど。
もうリュドヴィークはこの世のどこにもいないんだなと思うと、泣けて仕方なかった。
オサコン『I got music』の客席にて、歌うオサ様を見ながら。
舞台は一期一会のモノで、消えてしまうことがわかっている芸術。
『マラケシュ』の千秋楽の幕が下りたことで、わかっていたはずなのに、改めて、喪失感に泣いた。
春野寿美礼はそこにいるのに、もうリュドヴィークじゃない。彼はどこにもいない。もう会えない。
それが、こんなに痛いことだとは。
ところで、春野寿美礼は、いったいどーしちゃったんだろう?
博多からこっち、変じゃないですか、あの人。
わたしはミーハーなので、いろんな組のいろんなイベント公演の客席に紛れ込んでいたりする。贔屓組ONLYのファンじゃなく、宝塚歌劇そのものを愛している。
だもんで、組のカラーやムード、トップスターのタイプなど、ほぼ全組網羅で普段から身をもって感じているものがある(あくまでも、わたし個人の印象に過ぎないから、客観的なことではないけどさ)。
わたしが花組と春野寿美礼に持っていた印象と、現在の寿美礼ちゃんはえらくちがっておるんですが。
たとえば年末の『天の鼓』千秋楽なんか、「えっ、こんなに温度低いのにスタンディングするの??」とびっくりしたよ。
わたしの個人的感覚で行けば、スタオベしていいような「熱」が舞台にも客席にもなかったの。
それでもなんか淡々とファンは立ち上がり、オサちゃんもふつーにソレに応えている。
本公演より内輪で盛り上がりやすい小さなハコで、この温度と密度。あー、この組とトップはこんな感じなんだなー。コレはコレでアリでしょう。暑苦しけりゃいいってもんでもない。
……だったんだけど。
博多座楽の寿美礼ちゃんは、変だった。
なんかどっか壊れた?って感じに、テンションがメーターぶっちぎっていた。
クールなナルシストだったはずなのに。
テンパッちゃって、客席に向かって「好きダー!」とか叫んでました。
その博多の、コワレたままのノリでした。
春野寿美礼イン・コンサート『I got music』。
寿美礼サマ、変。
世界の中心で愛を叫ぶのはナルシストらしくてアリですが、世界に向かって愛を叫ぶのはNGですよ。そんなことしちゃうのはナルな寿美礼サマらしくありません。
客席も、変。
あんなに低温に見守る人たちだったのに。
一緒になってテンション上げて、きゃーきゃー叫んでるのって、どうよ。
「アイシテルヨー!」
「アイシテルー!」
なんて、舞台と客席で叫び合うのはどうなんですか。
そんなの、春野寿美礼とそのファンのしていいことぢゃないでしょー。
叫んできました、わたしも。寿美礼サマに向かって「アイシテルー!」と。
や、だって。
かわいいんだもん、オサ様。愛しいんだもん、寿美礼サマ。
以前わたしは、ジェンヌのタイプをジャンル分けしたことがある。(http://diarynote.jp/d/22804/20050401.html参照)
寿美礼ちゃんは、持ち味「太陽」−魂「苦悩」−温度「クール」だった。
名付けるなら、ナルシス系カリスマ・トップスター。彼自身は自分の内側しか見つめないけれど、それでもその魅力ゆえに周囲の目が釘付けになるタイプ。
彼の舞台はいつも、「愛」が見えなかった。
脚本上には「愛」が描かれているのに、彼が演じるとソレが見えない。
自分しか愛せない人なんだなあ。良くも悪くも。
そーゆーキャラはアリだと思う。
魅力だと思う。
現実に、そーゆー男にハマる女は後を絶たない。「やめなさいよ、あんな男。不幸になるだけよ」と言われるよーな男に、女は惚れちゃうわけだよ。
そんな寿美礼ちゃんの個性を、残酷に突いてきたのがオギーだ。
誰も愛せない男、リュドヴィーク。
オギー作品では、役者の魂の色がそのまま出るよね。たとえば、「赤」という色を持った人がいる。本人が「自分は水色だ」と思っていて「水色」として演じていても、オギー作品だと「赤」にしか見えない。台詞や役が「水色」でも、ちゃんと「赤」が出る。
オサがどんな意図で演じていたか知らないし興味もないが、リュドヴィークは「孤独」な男だった。愛したい、愛している、とあがきながらも、誰も愛することができない。誰の愛も受けることができない。それゆえに孤独な男。
残酷なあて書き。役作り云々よりも、魂の色そのものが意味を持つという。
リュドヴィークが魅力的だったのは、春野寿美礼が魅力的だからだ。
オサの持つあやうさやかなしさが、いろんな角度で光を浴びて、輝いていた。
その、リュドの魂を持つ男が。
半年間リュドを演じていた人が。
壊れた。
あれほど、誰も愛せなかった、自分しか見なかった人が、周囲を見回すようになった。
自分で瞼を閉じていたから暗闇だと思っていたのに、目を開けてみたら光があふれていた。……そんな感じ。
はじめて、世界に光があふれていることを知った。愛があふれていること、自分に手が差しのべられていることを知った。……そんな感じ。
博多座楽、何度も何度も、感謝の言葉を繰り返すオサちゃん。博多座スタッフや仲間たち、お客さんに。
はじめて知りました、気づきました、てな少年のように。
素直に。……てゆーか、かなり、幼く。つたなく。
この人、どーしちゃったんだろう?
世界には、自分ひとりぢゃないって、気づいちゃったの?
オサ様、やべーよ。
壊れている博多座楽を見て思った。
そして、今回のコンサート。
自分自身しか見ていなかったカリスマスターが、今、自分を取り巻く世界に視線を向けている。
自分だけのものだった力を、外側に解放しはじめている。
これは……これは、すごくないか?
わたしはオサちゃんのクールなところが好きだった。自己完結しているところや、他人を見ないところが好きだった。
でも、そんな人が「他人」に対して働きかけることを知ったら。
閉まっていた扉が、開く。
誰も愛せなかった人が、他人を愛し、世界を愛する。
今まで小さくまとまっていた分、激しく、急激に、発散される。
春野寿美礼から、オーラが見える。
外に向かって。世界に向かって。
持ち味「太陽」−魂「苦悩」−温度「クール」だったのが、最後の温度が「高温」になった。
他人を巻き込まずにはいられない「高温」。働きかけずにはいられない「高温」。
発散される力に、客席が反応する。
あんなに低温だったファンたちが、立ち上がる。声を出す。温度を上げ、叫び出す。
やべーよコレ。
3年もトップやって、今さら芸風変えるか?
変わってしまったことで脱落するファンもいるだろうよ。でも。
愛しても愛し返してくれなかった孤独な男が、今、愛に壊れている。
その姿は、破壊力MAXに素敵だ。
リュドヴィークは、どこにもいない。
ほんとうにもう、どこにもいないんだ。
今のオサなら、オギーはどんな役を彼に与えるだろう?
もうリュドヴィークはこの世のどこにもいないんだなと思うと、泣けて仕方なかった。
オサコン『I got music』の客席にて、歌うオサ様を見ながら。
舞台は一期一会のモノで、消えてしまうことがわかっている芸術。
『マラケシュ』の千秋楽の幕が下りたことで、わかっていたはずなのに、改めて、喪失感に泣いた。
春野寿美礼はそこにいるのに、もうリュドヴィークじゃない。彼はどこにもいない。もう会えない。
それが、こんなに痛いことだとは。
ところで、春野寿美礼は、いったいどーしちゃったんだろう?
博多からこっち、変じゃないですか、あの人。
わたしはミーハーなので、いろんな組のいろんなイベント公演の客席に紛れ込んでいたりする。贔屓組ONLYのファンじゃなく、宝塚歌劇そのものを愛している。
だもんで、組のカラーやムード、トップスターのタイプなど、ほぼ全組網羅で普段から身をもって感じているものがある(あくまでも、わたし個人の印象に過ぎないから、客観的なことではないけどさ)。
わたしが花組と春野寿美礼に持っていた印象と、現在の寿美礼ちゃんはえらくちがっておるんですが。
たとえば年末の『天の鼓』千秋楽なんか、「えっ、こんなに温度低いのにスタンディングするの??」とびっくりしたよ。
わたしの個人的感覚で行けば、スタオベしていいような「熱」が舞台にも客席にもなかったの。
それでもなんか淡々とファンは立ち上がり、オサちゃんもふつーにソレに応えている。
本公演より内輪で盛り上がりやすい小さなハコで、この温度と密度。あー、この組とトップはこんな感じなんだなー。コレはコレでアリでしょう。暑苦しけりゃいいってもんでもない。
……だったんだけど。
博多座楽の寿美礼ちゃんは、変だった。
なんかどっか壊れた?って感じに、テンションがメーターぶっちぎっていた。
クールなナルシストだったはずなのに。
テンパッちゃって、客席に向かって「好きダー!」とか叫んでました。
その博多の、コワレたままのノリでした。
春野寿美礼イン・コンサート『I got music』。
寿美礼サマ、変。
世界の中心で愛を叫ぶのはナルシストらしくてアリですが、世界に向かって愛を叫ぶのはNGですよ。そんなことしちゃうのはナルな寿美礼サマらしくありません。
客席も、変。
あんなに低温に見守る人たちだったのに。
一緒になってテンション上げて、きゃーきゃー叫んでるのって、どうよ。
「アイシテルヨー!」
「アイシテルー!」
なんて、舞台と客席で叫び合うのはどうなんですか。
そんなの、春野寿美礼とそのファンのしていいことぢゃないでしょー。
叫んできました、わたしも。寿美礼サマに向かって「アイシテルー!」と。
や、だって。
かわいいんだもん、オサ様。愛しいんだもん、寿美礼サマ。
以前わたしは、ジェンヌのタイプをジャンル分けしたことがある。(http://diarynote.jp/d/22804/20050401.html参照)
寿美礼ちゃんは、持ち味「太陽」−魂「苦悩」−温度「クール」だった。
名付けるなら、ナルシス系カリスマ・トップスター。彼自身は自分の内側しか見つめないけれど、それでもその魅力ゆえに周囲の目が釘付けになるタイプ。
彼の舞台はいつも、「愛」が見えなかった。
脚本上には「愛」が描かれているのに、彼が演じるとソレが見えない。
自分しか愛せない人なんだなあ。良くも悪くも。
そーゆーキャラはアリだと思う。
魅力だと思う。
現実に、そーゆー男にハマる女は後を絶たない。「やめなさいよ、あんな男。不幸になるだけよ」と言われるよーな男に、女は惚れちゃうわけだよ。
そんな寿美礼ちゃんの個性を、残酷に突いてきたのがオギーだ。
誰も愛せない男、リュドヴィーク。
オギー作品では、役者の魂の色がそのまま出るよね。たとえば、「赤」という色を持った人がいる。本人が「自分は水色だ」と思っていて「水色」として演じていても、オギー作品だと「赤」にしか見えない。台詞や役が「水色」でも、ちゃんと「赤」が出る。
オサがどんな意図で演じていたか知らないし興味もないが、リュドヴィークは「孤独」な男だった。愛したい、愛している、とあがきながらも、誰も愛することができない。誰の愛も受けることができない。それゆえに孤独な男。
残酷なあて書き。役作り云々よりも、魂の色そのものが意味を持つという。
リュドヴィークが魅力的だったのは、春野寿美礼が魅力的だからだ。
オサの持つあやうさやかなしさが、いろんな角度で光を浴びて、輝いていた。
その、リュドの魂を持つ男が。
半年間リュドを演じていた人が。
壊れた。
あれほど、誰も愛せなかった、自分しか見なかった人が、周囲を見回すようになった。
自分で瞼を閉じていたから暗闇だと思っていたのに、目を開けてみたら光があふれていた。……そんな感じ。
はじめて、世界に光があふれていることを知った。愛があふれていること、自分に手が差しのべられていることを知った。……そんな感じ。
博多座楽、何度も何度も、感謝の言葉を繰り返すオサちゃん。博多座スタッフや仲間たち、お客さんに。
はじめて知りました、気づきました、てな少年のように。
素直に。……てゆーか、かなり、幼く。つたなく。
この人、どーしちゃったんだろう?
世界には、自分ひとりぢゃないって、気づいちゃったの?
オサ様、やべーよ。
壊れている博多座楽を見て思った。
そして、今回のコンサート。
自分自身しか見ていなかったカリスマスターが、今、自分を取り巻く世界に視線を向けている。
自分だけのものだった力を、外側に解放しはじめている。
これは……これは、すごくないか?
わたしはオサちゃんのクールなところが好きだった。自己完結しているところや、他人を見ないところが好きだった。
でも、そんな人が「他人」に対して働きかけることを知ったら。
閉まっていた扉が、開く。
誰も愛せなかった人が、他人を愛し、世界を愛する。
今まで小さくまとまっていた分、激しく、急激に、発散される。
春野寿美礼から、オーラが見える。
外に向かって。世界に向かって。
持ち味「太陽」−魂「苦悩」−温度「クール」だったのが、最後の温度が「高温」になった。
他人を巻き込まずにはいられない「高温」。働きかけずにはいられない「高温」。
発散される力に、客席が反応する。
あんなに低温だったファンたちが、立ち上がる。声を出す。温度を上げ、叫び出す。
やべーよコレ。
3年もトップやって、今さら芸風変えるか?
変わってしまったことで脱落するファンもいるだろうよ。でも。
愛しても愛し返してくれなかった孤独な男が、今、愛に壊れている。
その姿は、破壊力MAXに素敵だ。
リュドヴィークは、どこにもいない。
ほんとうにもう、どこにもいないんだ。
今のオサなら、オギーはどんな役を彼に与えるだろう?
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