思い出したのではなく、ずっと。1@マラケシュ・紅の墓標
2005年8月25日 タカラヅカ 雨の夜だった。
足早に歩いていたはずの僕は、何故か立ち止まっていた。
すれちがった見知らぬ人を、追うように振り返っていた。
濡れた石畳は闇色の鏡。降り続く小さな雨粒が鏡をゆらし、世界は歪んで映る。
街灯の金色の光をにじませて、その人は闇色の鏡の上を歩いていた。
何故立ち止まってしまったのか。何故振り返ってしまったのか。−−答えはわかっている。
すれちがったその人の瞳が、潤んでいたからだ。
頬が濡れているのは雨粒だろうか、それとも。
年齢は僕より少し上か。頼りなげに肩を落として去っていく後ろ姿に、思わず声をかけていた。
「あの、すみません」
その人は振り返ってくれない。聞こえていないようだ。僕の声も、この世のなにも。
「あの」
僕は小走りにその人に追いつき、懸命に話しかけた。
その人が、僕を見た。身長は同じくらい。いや、僕の方が少し低いくらいかもしれない。
「すみません。傘を持っていなくて」
僕はその人の瞳を見つめて言った。
「え?」
僕を映した濡れた瞳が、虚をつかれたように瞬いた。
「すみません。僕も、傘を持っていないんです」
その人はしっとりと濡れていた。髪も、頬も、着ている服も。金色に浮かび上がって見えたのは、濡れているせいだろう。
雨の中で、傘を持たない僕たちは向かい合っていた。
「傘を持っていたら、あなたにさしあげることができたのに。口惜しいです」
はじめて会うその人は、不思議になつかしい気がした。何故今、僕は傘を持たないのだろう。傘があれば、このなつかしい人に差し掛けてあげられるのに。
この冷たいしずくから、世界から、守ってあげられるのに。
何故そんなことを思うのか、そもそも何故、こんな見知らぬ人を追いかけてわけのわからないことを口走っているのか。自分でもさっぱりわからない。
ただ、この人の潤んだ瞳を見ていると、黙って通り過ぎることができなかった。
「そうだ。せめて、これを」
思いついて、僕は自分の上着に手をかけた。僕はきちんとスーツを着込んでいるが、その人は薄手のシャツにベストを着ただけだった。シャツは雨の重さですっかり肌に貼り付き、華奢な肩の線を顕わにしている。
僕の服は、出入りの職人に仕立てさせた生地にも縫製にもこだわりぬいた品だ。少なくとも、その人の身につけている薄いシャツより雨に強いだろう。この服なら、傘のかわりになるだろうか。
上着を脱ぎかけた僕に、その人は薄い笑みを見せた。
溜息のような、寂しい笑顔だった。
やさしく首を振るのは、上着は要らないということか。そうだよな、突然呼び止めて、おかしなことを言って。迷惑がられて当然だ。
「傘は要らない。上着も。……そんなものより」
その人は、僕を見つめていた。静かでかなしい瞳だった。そこに映っている僕もまた、かなしい顔をしていた。
「そんなものより……抱きしめて」
その人の瞳に、涙が盛り上がり、こぼれて落ちた。
頬を転がり、抗いがたい力に引かれ、星粒のような光は地面に消えた。濡れた石畳に落ちて、雨とひとつになった。
僕もまた、抗いがたい力に引かれ、動いていた。
その人を、抱きしめていた。
その人の涙と雨粒がひとつになるように、僕とその人も溶けてひとつになればいいと思った。
誰でも良かったのだと思う。
その人にとって。
見知らぬ誰かの差し出す手を待っていただけだ。僕である必要はなかった。
僕はたぶん、傷ついたのだと思う。
僕は、その人を守りたかった。その人を傷つけているすべてから。
雨の日の傘のように。
でも僕には傘がなく、不器用に抱きしめることしかできなかった。
僕は、その人を救うことができなかった。
その人への想いがなんだったのかはわからない。
ただ、惹かれた。
雨の夜にすれちがった。その人の涙を見た。追いかけて、振り向かせて、そして。
そして、抱きしめた。
冷たい身体を暖めたくて、濡れた服の奥を探った。肌も唇も冷たくて、そのくせその奥にある舌や吐息は熱かった。魂も熱いのだろうか。それとも、傷ゆえに熱を持っているだけか。
僕はたぶん、傷ついたのだと思う。
その人を救えなかった自分に。
誰でもいいからとすがりついてきた、その絶望を癒すことのできない自分に。
その人は去ってしまった。
でたらめに飛び込んだ一夜限りの宿で目を覚ましたとき、すでにその人の姿は消えていた。
名前も聞かなかった。……聞かれなかった。
「すみません。傘を持っていなくて」
残された寝台の上で、膝を抱えてつぶやいた。
まだ雨が降り続いていた。朝だというのに、世界は暗かった。
僕の涙は黒い石畳ではなく、白いシーツの上に落ちた。涙はなににも混ざることなく、ただ染みとなって広がった。
それから僕は、雨の夜になると街を彷徨うようになった。
もう一度あの人に出会いたくて。
今度こそ、救いたくて。
僕が彼女に会ったのは、そんなときだ。
彼女もまた、雨の中を泣きながら歩いていた。
僕はあの人を救えなかった。
それでも。いや、それだからこそ。
同じように石畳に涙を落とす彼女を、放っておけなかった。
どうやったら彼女を救えるのかだけを考えた。
彼女は、僕の妻となった。
僕たちは祝福されて結ばれた。
今度こそ僕は、大切な人を救うことができたのだ。
そう思っていた。
それが僕の思い上がりではないかと気づいたのは、何年も経ってからだ。
いや、はじめから見ないふりをしていただけかもしれない。
彼女をあの人のように失ってしまうことがこわかった。
己れの無力さゆえに。
もう、顔を思い出すこともできないあの人。
頬の涙と雨、すがりついてきた細い腕……そんな断片だけが不意に甦り、僕を息苦しくさせる。
半端にもう少しだけ続く。
足早に歩いていたはずの僕は、何故か立ち止まっていた。
すれちがった見知らぬ人を、追うように振り返っていた。
濡れた石畳は闇色の鏡。降り続く小さな雨粒が鏡をゆらし、世界は歪んで映る。
街灯の金色の光をにじませて、その人は闇色の鏡の上を歩いていた。
何故立ち止まってしまったのか。何故振り返ってしまったのか。−−答えはわかっている。
すれちがったその人の瞳が、潤んでいたからだ。
頬が濡れているのは雨粒だろうか、それとも。
年齢は僕より少し上か。頼りなげに肩を落として去っていく後ろ姿に、思わず声をかけていた。
「あの、すみません」
その人は振り返ってくれない。聞こえていないようだ。僕の声も、この世のなにも。
「あの」
僕は小走りにその人に追いつき、懸命に話しかけた。
その人が、僕を見た。身長は同じくらい。いや、僕の方が少し低いくらいかもしれない。
「すみません。傘を持っていなくて」
僕はその人の瞳を見つめて言った。
「え?」
僕を映した濡れた瞳が、虚をつかれたように瞬いた。
「すみません。僕も、傘を持っていないんです」
その人はしっとりと濡れていた。髪も、頬も、着ている服も。金色に浮かび上がって見えたのは、濡れているせいだろう。
雨の中で、傘を持たない僕たちは向かい合っていた。
「傘を持っていたら、あなたにさしあげることができたのに。口惜しいです」
はじめて会うその人は、不思議になつかしい気がした。何故今、僕は傘を持たないのだろう。傘があれば、このなつかしい人に差し掛けてあげられるのに。
この冷たいしずくから、世界から、守ってあげられるのに。
何故そんなことを思うのか、そもそも何故、こんな見知らぬ人を追いかけてわけのわからないことを口走っているのか。自分でもさっぱりわからない。
ただ、この人の潤んだ瞳を見ていると、黙って通り過ぎることができなかった。
「そうだ。せめて、これを」
思いついて、僕は自分の上着に手をかけた。僕はきちんとスーツを着込んでいるが、その人は薄手のシャツにベストを着ただけだった。シャツは雨の重さですっかり肌に貼り付き、華奢な肩の線を顕わにしている。
僕の服は、出入りの職人に仕立てさせた生地にも縫製にもこだわりぬいた品だ。少なくとも、その人の身につけている薄いシャツより雨に強いだろう。この服なら、傘のかわりになるだろうか。
上着を脱ぎかけた僕に、その人は薄い笑みを見せた。
溜息のような、寂しい笑顔だった。
やさしく首を振るのは、上着は要らないということか。そうだよな、突然呼び止めて、おかしなことを言って。迷惑がられて当然だ。
「傘は要らない。上着も。……そんなものより」
その人は、僕を見つめていた。静かでかなしい瞳だった。そこに映っている僕もまた、かなしい顔をしていた。
「そんなものより……抱きしめて」
その人の瞳に、涙が盛り上がり、こぼれて落ちた。
頬を転がり、抗いがたい力に引かれ、星粒のような光は地面に消えた。濡れた石畳に落ちて、雨とひとつになった。
僕もまた、抗いがたい力に引かれ、動いていた。
その人を、抱きしめていた。
その人の涙と雨粒がひとつになるように、僕とその人も溶けてひとつになればいいと思った。
誰でも良かったのだと思う。
その人にとって。
見知らぬ誰かの差し出す手を待っていただけだ。僕である必要はなかった。
僕はたぶん、傷ついたのだと思う。
僕は、その人を守りたかった。その人を傷つけているすべてから。
雨の日の傘のように。
でも僕には傘がなく、不器用に抱きしめることしかできなかった。
僕は、その人を救うことができなかった。
その人への想いがなんだったのかはわからない。
ただ、惹かれた。
雨の夜にすれちがった。その人の涙を見た。追いかけて、振り向かせて、そして。
そして、抱きしめた。
冷たい身体を暖めたくて、濡れた服の奥を探った。肌も唇も冷たくて、そのくせその奥にある舌や吐息は熱かった。魂も熱いのだろうか。それとも、傷ゆえに熱を持っているだけか。
僕はたぶん、傷ついたのだと思う。
その人を救えなかった自分に。
誰でもいいからとすがりついてきた、その絶望を癒すことのできない自分に。
その人は去ってしまった。
でたらめに飛び込んだ一夜限りの宿で目を覚ましたとき、すでにその人の姿は消えていた。
名前も聞かなかった。……聞かれなかった。
「すみません。傘を持っていなくて」
残された寝台の上で、膝を抱えてつぶやいた。
まだ雨が降り続いていた。朝だというのに、世界は暗かった。
僕の涙は黒い石畳ではなく、白いシーツの上に落ちた。涙はなににも混ざることなく、ただ染みとなって広がった。
それから僕は、雨の夜になると街を彷徨うようになった。
もう一度あの人に出会いたくて。
今度こそ、救いたくて。
僕が彼女に会ったのは、そんなときだ。
彼女もまた、雨の中を泣きながら歩いていた。
僕はあの人を救えなかった。
それでも。いや、それだからこそ。
同じように石畳に涙を落とす彼女を、放っておけなかった。
どうやったら彼女を救えるのかだけを考えた。
彼女は、僕の妻となった。
僕たちは祝福されて結ばれた。
今度こそ僕は、大切な人を救うことができたのだ。
そう思っていた。
それが僕の思い上がりではないかと気づいたのは、何年も経ってからだ。
いや、はじめから見ないふりをしていただけかもしれない。
彼女をあの人のように失ってしまうことがこわかった。
己れの無力さゆえに。
もう、顔を思い出すこともできないあの人。
頬の涙と雨、すがりついてきた細い腕……そんな断片だけが不意に甦り、僕を息苦しくさせる。
半端にもう少しだけ続く。
コメント