彼は「世界」に殺される。@長崎しぐれ坂
2005年6月21日 タカラヅカ「結局星組、何回観たの?」
と、kineさんに聞いた。「『長崎』、大嫌い!」と憤慨しながらも、ブログを読む限り休みのたびにムラへ通っているよーな?
「1回はショーだけだから、芝居は新公を合わせて7回ですね」
それって毎週観てる計算だよねえ。すごいねえ。さすが星担だねえ。作品大嫌いなのに、そんなに通ってるなんて。
……ん?
自分の観劇回数を、数えてみる。
「……新公を含めて、6回……」
「変わらないじゃないですか」
嘘。
kineさんにはかないません! というつもりで振った話題だったのに。
いつの間にそんなに観ていたんだ? あんな芝居を。てか、その間宙バウには何気に足を運んでいたし、東宝遠征もしていたし……kineさんをどうこう言えないくらい、精力的にヅカファンしているよーな。
まあなんにせよ、あんな芝居……わたし的大駄作、不愉快作認定の『長崎しぐれ坂』ですが。
5回目の本公演、千秋楽を観て、わたしは達観に至りました。
「大丈夫、乗り越えたわ」
幕間に、ガッツポーズ。
人間は想像する生き物、苦難を乗り越えようと努力する生き物。
わたしはあの不愉快作品を、「ムカつくーっ、むきーっ!」と思わずに観る術を身につけた。
よーするに、伊佐次@トドを主役と思って観ればいいんだ。
もちろんそれには、トドへの好意が必要。
トドを「見るだけが鳥肌が立つ」くらい嫌いだったら、無理な話。
トド様を好きなら、まー、なんとかなるよ、あの芝居。
つらいのは、ワタルを好きだった場合。わたしも、自分の好きな人が卯之助やってたら……そしてあの役作りだったら、つらいまま終わっていたと思う。が、がんばれkineさん。
わたしは所詮トドファンなんだなと思う。
はじめから、トドを中心に見ていた。
だからこそ伊佐次の自己中ぶり、無神経ぶりに激怒していた。
しかしまあ、あの自己中ぶりはヅカ作品には「よくあること」で、脳内補正可能な範囲だった。
つらいのは、その横にいるのが卯之助だということ。
卯之助は、ヅカ作品の範疇にないのよ、壊れ方が。
卯之助はずはり「気持ち悪い人」だ。粘着ストーカーで、ストーキングを「相手のため」とか脳内変換している男。卑屈でにへらにへらしてその場その場で辻褄の合わないことばかり言い、偽善者で無神経。
自己中男の伊佐次の横にいるのが、この気持ち悪い卯之助だということが、コンボ決まって不愉快爆発だった。
だから、卯之助を「見ない」「気にしない」ことにして、伊佐次だけを見ることにした。
そうしたら、なんとか見られるのよ、この芝居。
トド様の演技は、どんどん「かわいらしく」なっている。
初日にムカついてしょーがなかった「無神経男」ぶりが、「かわいらしさ」で緩和されている。
あー、ワガママで自己中、でもかわいらしさで場の中心になっちゃう「お嬢様」の物語なんだ、コレ。
伊佐次がまちがっていることは、周囲の誰だって知っている。
でも、あえて言及しないのよ。
「ああ、お嬢がまたなんか、ワガママぶっこいてるよ。しょーがないなあ、もう」
てな、なだめ笑いでつきあっている。そーゆー物語だと思って見れば、大丈夫、乗り越えられるの!
お嬢はバカだし周囲なんかなにも見えてないけど、彼自身はいつも真剣だから。
自分のことでいっぱいいっぱいで、他人の痛みも気持ちも理解できないけど、それでもいつも一途だから。
周囲の人たちは大人だから、伊佐次の「自分の悩みに真剣に悩んで壁にぶつかっている」ところを、あたたかく愛してくれているのだろー。
ほら、中学生が自分の痛みや悩みだけを至上のものとし、他人のことなんかまったく理解せずにワガママぶっこいても、大人はソレ許すでしょ? あー、かわいいなあ、そんなふーに自分だけしか見ることのできない時代って、誰にでもあるんだよ。がんばって悩みな。
社会経験積んで大人になると、自分のだけの至上の悩み!だと思っていたことが、「誰だってふつーに持っている、ふつーの悩み」だったことがわかったり、周囲のことも顧みないと浮き上がって生活できなくなったりするわけだ。
他人の顔色見て、泣きたいときも笑ってみせたり、言いたくもない「大人な台詞」を言ってみたりするもんなんだ。
バカなままではいられないんだ。
それを知っているから、若い子が自分のことしか理解できずにバカをやっていても、微笑ましく思えたりする。
いつか君も、大人になるのさ。ならないと生きていけないのさ。と。
伊佐次は「子どものまま」だから、周囲の「大人たち」はあたたかく見守っている。尊重している。
大人になってしまった自分たちには、二度と手に入らない物を持ち続ける伊佐次を、愛している。
子どものまま、自分のおもちゃ箱を抱きしめたままの伊佐次には、「大人になることが前提の世界」は生きにくい。
彼はいずれ、「世界」に殺される。
そうされることで、報いを受ける。
その予感があるからこそなお、周囲の大人たちは彼に優しい。
と。
ここまで脳内変換して、わたしは乗り越えました、この物語を。
トドロキを好きで、彼の創り上げた「伊佐次」というキャラを「かわいい」と思える人間でなきゃできない力技。
所詮トドファンなので、伊佐次の表情とか好きだしね。
幼い、せつない顔をしているの。あちこちで。
伊佐次は、ヅカの範疇、下手くそな物語によくあるタイプのバカ主役だから、こーやって脳内補正可能なんだけど。
卯之さんてば……。
このキャラ、どーしたもんかねえ。
「卑怯な偽善者」を主役にする植爺の感覚がわからんわ。「わがまま」と「卑怯」はまったくチガウものなのよ。わがままは許せる範囲の欠点だが、卑怯ってのは感情移入したくない欠点だよ。
植爺が人間としてかなりヤバイと思うのは、このふたつの区別がついていないことにもあると思う。
トドを中心に、彼のみを主役として見るなら、ふつーに見ることが出来る『長崎しぐれ坂』。
でもさ、せっかくだから、卯之助の話もしてみよう。
卯之助というキャラ造形の失敗ぶりは、とても興味深いから。
以下別欄で!
と、kineさんに聞いた。「『長崎』、大嫌い!」と憤慨しながらも、ブログを読む限り休みのたびにムラへ通っているよーな?
「1回はショーだけだから、芝居は新公を合わせて7回ですね」
それって毎週観てる計算だよねえ。すごいねえ。さすが星担だねえ。作品大嫌いなのに、そんなに通ってるなんて。
……ん?
自分の観劇回数を、数えてみる。
「……新公を含めて、6回……」
「変わらないじゃないですか」
嘘。
kineさんにはかないません! というつもりで振った話題だったのに。
いつの間にそんなに観ていたんだ? あんな芝居を。てか、その間宙バウには何気に足を運んでいたし、東宝遠征もしていたし……kineさんをどうこう言えないくらい、精力的にヅカファンしているよーな。
まあなんにせよ、あんな芝居……わたし的大駄作、不愉快作認定の『長崎しぐれ坂』ですが。
5回目の本公演、千秋楽を観て、わたしは達観に至りました。
「大丈夫、乗り越えたわ」
幕間に、ガッツポーズ。
人間は想像する生き物、苦難を乗り越えようと努力する生き物。
わたしはあの不愉快作品を、「ムカつくーっ、むきーっ!」と思わずに観る術を身につけた。
よーするに、伊佐次@トドを主役と思って観ればいいんだ。
もちろんそれには、トドへの好意が必要。
トドを「見るだけが鳥肌が立つ」くらい嫌いだったら、無理な話。
トド様を好きなら、まー、なんとかなるよ、あの芝居。
つらいのは、ワタルを好きだった場合。わたしも、自分の好きな人が卯之助やってたら……そしてあの役作りだったら、つらいまま終わっていたと思う。が、がんばれkineさん。
わたしは所詮トドファンなんだなと思う。
はじめから、トドを中心に見ていた。
だからこそ伊佐次の自己中ぶり、無神経ぶりに激怒していた。
しかしまあ、あの自己中ぶりはヅカ作品には「よくあること」で、脳内補正可能な範囲だった。
つらいのは、その横にいるのが卯之助だということ。
卯之助は、ヅカ作品の範疇にないのよ、壊れ方が。
卯之助はずはり「気持ち悪い人」だ。粘着ストーカーで、ストーキングを「相手のため」とか脳内変換している男。卑屈でにへらにへらしてその場その場で辻褄の合わないことばかり言い、偽善者で無神経。
自己中男の伊佐次の横にいるのが、この気持ち悪い卯之助だということが、コンボ決まって不愉快爆発だった。
だから、卯之助を「見ない」「気にしない」ことにして、伊佐次だけを見ることにした。
そうしたら、なんとか見られるのよ、この芝居。
トド様の演技は、どんどん「かわいらしく」なっている。
初日にムカついてしょーがなかった「無神経男」ぶりが、「かわいらしさ」で緩和されている。
あー、ワガママで自己中、でもかわいらしさで場の中心になっちゃう「お嬢様」の物語なんだ、コレ。
伊佐次がまちがっていることは、周囲の誰だって知っている。
でも、あえて言及しないのよ。
「ああ、お嬢がまたなんか、ワガママぶっこいてるよ。しょーがないなあ、もう」
てな、なだめ笑いでつきあっている。そーゆー物語だと思って見れば、大丈夫、乗り越えられるの!
お嬢はバカだし周囲なんかなにも見えてないけど、彼自身はいつも真剣だから。
自分のことでいっぱいいっぱいで、他人の痛みも気持ちも理解できないけど、それでもいつも一途だから。
周囲の人たちは大人だから、伊佐次の「自分の悩みに真剣に悩んで壁にぶつかっている」ところを、あたたかく愛してくれているのだろー。
ほら、中学生が自分の痛みや悩みだけを至上のものとし、他人のことなんかまったく理解せずにワガママぶっこいても、大人はソレ許すでしょ? あー、かわいいなあ、そんなふーに自分だけしか見ることのできない時代って、誰にでもあるんだよ。がんばって悩みな。
社会経験積んで大人になると、自分のだけの至上の悩み!だと思っていたことが、「誰だってふつーに持っている、ふつーの悩み」だったことがわかったり、周囲のことも顧みないと浮き上がって生活できなくなったりするわけだ。
他人の顔色見て、泣きたいときも笑ってみせたり、言いたくもない「大人な台詞」を言ってみたりするもんなんだ。
バカなままではいられないんだ。
それを知っているから、若い子が自分のことしか理解できずにバカをやっていても、微笑ましく思えたりする。
いつか君も、大人になるのさ。ならないと生きていけないのさ。と。
伊佐次は「子どものまま」だから、周囲の「大人たち」はあたたかく見守っている。尊重している。
大人になってしまった自分たちには、二度と手に入らない物を持ち続ける伊佐次を、愛している。
子どものまま、自分のおもちゃ箱を抱きしめたままの伊佐次には、「大人になることが前提の世界」は生きにくい。
彼はいずれ、「世界」に殺される。
そうされることで、報いを受ける。
その予感があるからこそなお、周囲の大人たちは彼に優しい。
と。
ここまで脳内変換して、わたしは乗り越えました、この物語を。
トドロキを好きで、彼の創り上げた「伊佐次」というキャラを「かわいい」と思える人間でなきゃできない力技。
所詮トドファンなので、伊佐次の表情とか好きだしね。
幼い、せつない顔をしているの。あちこちで。
伊佐次は、ヅカの範疇、下手くそな物語によくあるタイプのバカ主役だから、こーやって脳内補正可能なんだけど。
卯之さんてば……。
このキャラ、どーしたもんかねえ。
「卑怯な偽善者」を主役にする植爺の感覚がわからんわ。「わがまま」と「卑怯」はまったくチガウものなのよ。わがままは許せる範囲の欠点だが、卑怯ってのは感情移入したくない欠点だよ。
植爺が人間としてかなりヤバイと思うのは、このふたつの区別がついていないことにもあると思う。
トドを中心に、彼のみを主役として見るなら、ふつーに見ることが出来る『長崎しぐれ坂』。
でもさ、せっかくだから、卯之助の話もしてみよう。
卯之助というキャラ造形の失敗ぶりは、とても興味深いから。
以下別欄で!
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