初日に観劇し、その無神経さに絶望した作品、『長崎しぐれ坂』

 『天使の季節』とかと同じ駄作っぷりと無神経さなんだが、世の評判はチガウらしい。

 kineさんは、「生きにくい世の中だ」と、悲しげにつぶやく。

 うん。
 価値観はひとぞれぞれなので、『長崎…』が「佳作」だと思い、感動して泣いてくれてぜんぜんかまわないが、ただ、生きにくい世の中だとは思うよ。

 『長崎…』を「よい作品」だと評するのって、テレビドラマとかにもよくあるパターンなんだよね。
 恋愛ドラマで、ヒロインが恋に悩むあまり、会社に遅刻する。嫌味な上司が、ヒロインをねちねちと叱責する。
 ここでドラマは何故か、ヒロインを「善」、上司を「悪」として表現する。悩み傷ついているヒロインに、ひどい態度を取る上司を「思いやりのない、無神経な人」と描く。
 いやあの、なにに悩んでいようと、遅刻したのは事実だから! ルールを破ったのはヒロインだから! それを叱る上司はあたりまえのことをしているだけだから!
 ……とゆー「歪み」。
 価値観、世界観が、歪んでいるの。
 なのにそんなドラマが、高視聴率を取り、「ヒロインの切ない恋愛」に視聴者が号泣していたりする。

 たとえば、「がんばっている」ヒロイン。他人の迷惑おかまいなしで、スタンドプレイしまくったり、妙な人情を振りかざして、周囲の人をかき回す。
 だけどそれはすべてゆるされる。だって彼女は、「がんばっている」んだから。こんなに一生懸命な彼女を、悪く言うなんてどうかしてる。
 「一生懸命」は免罪符。オールマイティ・カード。そんな「歪み」。
 いやその、たしかにがんばってるし、寝る間も惜しんで働いてるのはわかる。でも、はっきり言って迷惑だから。がんばってるのは君の勝手であって、他人に迷惑かけていいわけじゃないから。
 なのに、そんなヒロインのがんばりに、視聴者は涙を流して感動する。

 たとえば、チーム全員で用意してきた企画の大切なお披露目シーンで、「やっぱりこのままじゃいけないわ。この企画には心がこもってないんです! いちばん大切なのは心よ!」とか言い出して、お披露目をぶちこわす。でも、それが正義、それが美談。
 そうよ、心のこもっていない儲け主義の企画なんて罪悪よ。「目が覚めたよ、やっぱり初心に戻って、誠実な企画を立てよう」とかゆー展開になる。
 いやあの、そりゃ正論カマして盛り上がってる君らは気持ちいいかもしれないけど、それに携わってきた多くの人たちの迷惑は考えないの? 自分たちさえ「正義」で「潔癖」なら、他人に迷惑かけてもいいの?
 とゆー「歪み」。
 なのにヒロインの心の美しさに、視聴者は涙を流して感動する。

 なーんて話をすると、「ひとは誰だって過ちを犯す。あなたはただの一度も失敗やミスをしないの? 誰にも迷惑をかけずに生きているの?」とか、よくわかんない切り返しをされたりする。
 あの、論点ずれてます。
 ヒロインが失敗することや、ひとに迷惑をかけることに対して「歪んでいる」と言ってるんじゃなくて、「一生懸命だから、失敗してもいい」「人情的に正しいことを言っているのだから、他人に迷惑をかけてもいい」という価値観を「歪んでいる」と言ってるの。
 「正義だから、なにをしてもいい」ってのが、わたしは生理的にダメ。

 たとえばついうっかりいねむり運転して交通事故を起こしちゃったして、「仕方ないんです、だって彼女はいつもこんなに一生懸命で」と言っても、通らないでしょ? 一生懸命だからって、事故を起こした事実は消えない。
 なのに多くのドラマでは、ヒロインを「正義」として描くために、「一生懸命に生きて、たまたま、仕方なくミスをしただけなのに、それを責める人がいたら、その人が悪」という描き方をする。
 交通事故とかリアルな問題に置き換えて考えたら、ものすげー気持ち悪い歪んだ価値観。
 かんばりすぎてうっかりミスをしてしまうことが悪いんじゃなくて、それを「正義」として描くことが、気持ち悪いの。

 植田作品の多くは、この歪んだ価値観が前面に出ている。
 主人公だけに都合がよく、彼の言動に合わせ、世界が歪んでいる。
 そして大抵、その歪んだ主人公は、美しげなことを言う。「愛」「正義」「人情」など、その概念自体は正しく美しいものだから、観客は誤魔化されてしまう。
 「愛」「正義」「人情」が人間として正しい概念だということは、みんな知ってるから。それを掲げている主人公を「正しい」と錯覚する。
 正しいことをしているのに、不幸になる主人公に涙してみたり、美しいシーンに感動したりする。
 いわば、「愛」とかの概念は「道具」なんだよね。だって登場人物はみんな、「愛」を掲げてはいるけど、客観的に見ればやっていることはまちがったことばかりなんだもの。どこが愛? それってただの、自己愛じゃあ? みたいな。

 まちがったことをしているのに、それが正しいことに変換されている世界観が、気持ち悪い。

 『長崎しぐれ坂』も、そりゃーもー、この気持ち悪さ全開で、遠い目をしてしまったよ。

 まちがったことを、「まちがっている」とわかって描いてくれれば、それで問題はないんだ。
 まちがっていることはわかっている、それでもなお、そうせずにはいられない人間の姿を描いてくれれば。

 しかし植爺の脳内世界では、「正義だから、なにをしてもいい」んだろーなー。
 正義の名の下に行うことは全部「正しい」から、まちがっていることなんて存在しないの。

 卯之助の腕の中で伊佐次が死んで、せつなく盛り上がってるからそれで全部OKなんだよなー。
 「愛」「友情」「人情」、そーゆー美しいものさえあれば、それだけで全部OKなんだよなー。

 ほんと、生理的にダメだ。

 そして、この歪んだ地平で展開される物語を「感動的な物語」と評する世間に、つらいものを感じるんだわ。

 
 もちろん、それが愛しくもある。
 「愛」「友情」「人情」、「努力」「夢」、そんな美しげなものを連呼してさえいれば、それだけで感動してしまう「人間」というものが。

 『長崎…』を観て泣いている人たちはきっと、いい人たちなんだろうなあ。
 純粋で、言葉の裏ととか考えたりしない、ふつうにいい人たちなんだろう。

 でも、わたしの周囲がそんな純粋な人ばかりだったら、つらかったろうなと思う。

 kineさんとふたりして、初日の幕間に絶望していた。
 この気持ち悪い芝居、大好きな星組で上演されて、これからどうしよう? これに通うのか? と、悲しんだ。

 でもさ、不幸中の幸いだったよね。
 お互い、この作品に絶望出来る者同士で。
 これで片方が感動して泣いてたら、なにも言えずに全部腹の中に押し込むしかなくて、ストレス溜まっただろう。
「タカラヅカらしくないから、ちょっと苦手かな」
 とか、さしさわりのないことを言って、お茶を濁しただろう。
 ヅカらしくなくたって、歪んだ地平でさえなけりゃ、そしておもしろければ、ぜんぜんアリだと思っているけど、そこを理由に挙げるしかないわな。

 そしてわたしが、ホモならなんでもヨシ!ぢゃなくて、よかったね(笑)。
 ホモは好きだが、野郎ふたりでもさぶでも許容範囲だが、歪んだ地平のうえで抱きあう野郎ふたりは、×なのよ。

 絶望を語れる相手がいて、よかったよね。


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