エラーで消えてしまった日記の書き直し。
 2度目なんで、簡潔にいきます。

 『さすらいの果てに』なんですが、わたしはいろいろ記憶ちがいをしているよーなんですわ。
 壮くんVer.と、キムVer.は、わたしが思っていた以上に変更がある。
 だから、わたしがよりすんなりと作品に入り込めたのは、その変更の力があったということかもしれない。

 なにしろ、壮くんVer.を観たときいちばん気になった台詞「せっかく追い詰めたのに!」が、キムVer.で「せっかく突きとめたのに!」に変わっていたのに、気づいてないのよ、わたし!

 どれほど、思いこみだけで、嘘の日記書いてるかわかりそーなものねー。とほほ。

 
 この事実によって、気づいたことがあるの。

 どうやらわたしは、台詞の変更も気づかないくらい、夢中で音月桂を見ていたらしい、ということ。

 わたしはどうも、音月桂という役者が相当好きであるらしい。

 ……や、もちろん、ずっと好きだったさ。顔も声も、そしてあの毒も温度も好きだよ。それこそ、花の道沿いのプレハブ仮設店舗『パスタ』の2階でプリクラシールを見たときからずっと好きだよ(って、いつの話だ……)。←注・震災で倒壊したゆえの臨時店舗『パスタ』は、シール貼り放題だった。いろんな場所に千社札とシールが貼ってあったのだ。FC制作のシールやプリクラを探して眺めるのがたのしかった。わたしとキムくんの最初の出会いは、『パスタ』のシールだ。

 好きは好きだったけど。
 それは、ジェンヌとして好きだって意味だった。

 気づいたのは、「役者」として、好きであるということ。

 音月桂が「主役」として「真ん中」に立ち、本気で演じてみせたとき、わたしは魅了される。
 『スサノオ』新人公演がそうだった。
 わたしに勇気と根性があれば、スタオベしたいくらいの勢いで、感動した。
 ……『さすらいの果てに』も、スタオベOKだったよ、あたしゃ。先に壮くんVer.観てるから、作品がどれだけ駄作か知ってるんだもん。それを「とりあえず、商業作品レベルまで力技で持っていく」ことに、めちゃくちゃ感動した。

 演技ってのは、「感性」による部分が大きい。
 「正解」や「点数」が存在しないものだからだ。
 ある人には「この人、すっげー演技うまいっ」と感じられる演技が、ある人には「引っ込め下手くそ!」と感じられてしまうことが、いくらでもある。

 だからキムくんが演技巧者かどうかを論じるつもりはない。同じ役を演じた壮くんを引き合いに出すつもりもない。

 ただわたしは、音月桂という役者と、とても波長が合う。
 彼の演技には、引き込まれるんだ。

 はじめて気づいた。
 わたしは、音月桂という「役者」を、相当好きらしい。

 それこそ、いちばんこだわっていたはずの台詞の変更にも気づかないくらい。

 
 あー、その。
 ここで自分的にかーなーりおどろいているのはさ。

 タカラジェンヌ・キムくんとしてはべつに、とりたててときめいたことがないからなんだわ……。
 好きは好きだけど、「雪組では誰が好き?」と聞かれて10人挙げる中に入っているレベルの好き、とゆーか。確実にハマコよりあとから名前が出そうだとか、下手したら、まちかめぐるよりあとかもしんないとか……。
 や、10人じゃないな。5人の中には入るな。かっしー、コムちゃん、ハマコ、キム……おし、4番目だ(今、あわてて数えた)。
 次から水しぇんが雪組カウントに入るから、5番目だな……。

 なのにたぶんわたし、他の誰より、音月桂が好きなのかもしれない。
 つったら、おどろくよ。
 ヲトメハートなしで、真ん中から目が離せなくなった人なんていないもん。

 ケロとか水しぇんとか寿美礼ちゃんとかは、ヲトメハートで目が離れない人だもん。
 ドキドキしちゃう人だもん。

 音月桂は、それとはまったく別。
 「役者」として、好きなんだ。

 自分的に、この発見はびっくりだ。

 
 いつか音月桂に、「ヲトメ」としてときめくことがあれば、すこーんと恋に落ちそうな気がする。


コメント

緑野こあら
緑野こあら
2006年8月15日2:15




自己レス。
ほんとは、お笑い台詞の「せっかく追い詰めたのに!」は、変わってませんでした。観劇後に、kineさんと確認しあった。
変わってないのに、それを変だと思わせない芝居をしてくれたの、キムくん。
が、この記事では「変わっていた」「変わっていたことに気づかなかった」ことにしています。
まあ、突っ込まないでくれ。いろいろあったんだ(笑)。

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