螺旋階段のイヴ。@マラケシュ・紅の墓標
2005年5月10日 タカラヅカ 花組大劇場公演千秋楽。樹里ちゃんのサヨナラショーのある日。
芝居が終わったあと、チェリさんはわたしのベソかき顔を見て、言った。
「また泣いたんですか? 樹里ちゃんのことで?」
んで、わたし。
「いや」
めっちゃ素で、力強く否定していた。
あまりにナチュラルに否定しきってしまったんで、あわてたよ。まるで樹里ちゃんの退団を嘆いてないみたいじゃないか。それはあまりに外聞が悪かろう……というか、周囲に樹里ちゃんファンがいたら傷つくんじゃないかとか、小心者のわたしは咄嗟にいろいろ(笑)。
樹里ちゃんとの別れはかなしいよ。もうあのかわいい色男と会えないのかと思うと泣けてくるよ。
でも、そのときは、みんな忘れてた。
これが退団公演だとか、さよならだとか。
ごめん、わたしほんとに忘れてたんだ。
ただ、『マラケシュ・紅の墓標』を、夢中になって観ていたの。
この物語と、お別れなんだと思うと、ことさら思い知らされたんだ。どれほど好きだったか。
この答えのない、投げっぱなしの美しい絶望に身を浸らせ、じわじわと身体が沈んでいくのをたのしんでいた。
手足が沈み、身体が沈み、もうじき顔も沈んでしまう。そうしたら、息ができなくなるね。しんじゃうのかな? それもすてきね。
そんな感覚。
わたし的に、この物語のいちばんの見どころは、回想シーンのパリの、螺旋階段だと思う。
螺旋階段には、歪んだ人たちが立つ。
「夢幻のように、パリの夜に羽ばたく白鳥」であり、「野良犬のように、パリの片隅に落ちているしあわせを探す」レヴュー・スター、イヴェット。
「すばらしいわオリガ」と歌う、過去の栄光と価値観だけに凝り固まった亡命貴族、ナターリャ。
そして。
渇望と絶望を胸に抱いた青年、リュドヴィーク。
オリガと金の薔薇の物語が展開されている間、リュドヴィークはひとり、螺旋階段にいる。
放心したようにうずくまっていたり、なにかはかないものを見つめて喉をそらしていたりする。
その姿は、あまりに幼く、また痛々しい。
螺旋階段のリュドヴィーク。それが、この「物語」なんじゃないだろうか。
事件が起こり、それによって人々の運命が変わっても。
時が流れ、大人、と呼ばれる年齢になっても。
世慣れて、他人に自分に嘘をつくことに慣れても、あきらめることや誤魔化すことに慣れても。
リュドヴィークは、変わっていない。
螺旋階段でうずくまっていた青年。
彼の魂は、あのときのまま。
だからこそこの物語は、彼を中心に回る。
そして、ヒロインのイヴェット。螺旋階段のイヴ。
リュドヴィークとはおそらく、光と影、1枚の羽の裏と表。
彼女の絶望と渇望が、リュドヴィークの物語に絡み、回りはじめる。
イヴェットは、変わっていない。
螺旋階段で荒廃の瞳で歌っていた女。
彼女の魂は、あのときのまま。
リュドヴィークと出会い、彼の物語に絡んで回るだけに任せ、彼女の物語はそこで静止する。
オギーは同じモチーフというか、「イメージ」を繰り返し使う人だけど、「螺旋階段」と「イヴ」は、リンクしている気がする。
『螺旋のオルフェ』の舞台がパリであり、一発の銃声と引き金、過去だけを見つめ続ける「イヴ」、「螺旋階段」は確信犯だろう。
イヴェットは、「もうひとりのイヴ」であり、『マラケシュ』は「もうひとつの『螺旋のオルフェ』」だろう。
イヴェットをパリに残し、その罪を背負って逃げたリュドヴィーク。
イヴ・ブランシェを主役にもう一度物語を書き、彼をふたつのキャラクタに分けたら、イヴェットとリュドヴィークになる。
……なんてな(笑)。
なんせよ、パリのシーンの美しさと痛さは、すばらしいです。
このシーンのために、この物語があるんだなあ。ここに絡まないから、レオンはやっぱりいなくてもいいキャラクタだったんだなあ。もしくは、もっと出番も重さも少ない扱いでいいキャラクタだったんだよなあ。でも樹里ちゃんのために膨らませたから、このわかりにくい物語は、さらにドツボったんだよなあ。
樹里ちゃんが退団でなければ、ギュンター的位置の役(あて書き基本だから、役者が変われば役も変わるはず。だから、その位置に来る役)でもよかったろうになあ。
それでも今のレオンが好きだし、今の『マラケシュ』が好きだから、ぜんぜんかまわないんだけど。
個人的に、配役というかキャラというか演技というか、失敗してるのはギュンターとオリガだけだと思うし。
『マラケシュ・紅の墓標』。
この物語と別れることがかなしくてせつなくて、たまらなかった。
東宝がある? 博多がある?
そんなの、別物になるに決まってるじゃん。
ショーの『ドルチェ・ヴィータ!』でさえ、ムラと東宝では別物だったのに。ムラの『ドルチェ・ヴィータ!』が好きだったわたしは、東宝は不思議なものを見る思いだったよ。同じなのに、同じじゃないから。
進化してるとか、回を重ねるごとに役者がよくなっているとか、そーゆー問題じゃなくて。
「今」を愛していたら、未来なんていらなくなるんだよ。
未来はいずれ、「今」になるとしてもね。
螺旋階段のイヴに会いたい。
リュドヴィークとイヴェット。
あの、傷だらけの美しい人たちに、会いたいよ。
芝居が終わったあと、チェリさんはわたしのベソかき顔を見て、言った。
「また泣いたんですか? 樹里ちゃんのことで?」
んで、わたし。
「いや」
めっちゃ素で、力強く否定していた。
あまりにナチュラルに否定しきってしまったんで、あわてたよ。まるで樹里ちゃんの退団を嘆いてないみたいじゃないか。それはあまりに外聞が悪かろう……というか、周囲に樹里ちゃんファンがいたら傷つくんじゃないかとか、小心者のわたしは咄嗟にいろいろ(笑)。
樹里ちゃんとの別れはかなしいよ。もうあのかわいい色男と会えないのかと思うと泣けてくるよ。
でも、そのときは、みんな忘れてた。
これが退団公演だとか、さよならだとか。
ごめん、わたしほんとに忘れてたんだ。
ただ、『マラケシュ・紅の墓標』を、夢中になって観ていたの。
この物語と、お別れなんだと思うと、ことさら思い知らされたんだ。どれほど好きだったか。
この答えのない、投げっぱなしの美しい絶望に身を浸らせ、じわじわと身体が沈んでいくのをたのしんでいた。
手足が沈み、身体が沈み、もうじき顔も沈んでしまう。そうしたら、息ができなくなるね。しんじゃうのかな? それもすてきね。
そんな感覚。
わたし的に、この物語のいちばんの見どころは、回想シーンのパリの、螺旋階段だと思う。
螺旋階段には、歪んだ人たちが立つ。
「夢幻のように、パリの夜に羽ばたく白鳥」であり、「野良犬のように、パリの片隅に落ちているしあわせを探す」レヴュー・スター、イヴェット。
「すばらしいわオリガ」と歌う、過去の栄光と価値観だけに凝り固まった亡命貴族、ナターリャ。
そして。
渇望と絶望を胸に抱いた青年、リュドヴィーク。
オリガと金の薔薇の物語が展開されている間、リュドヴィークはひとり、螺旋階段にいる。
放心したようにうずくまっていたり、なにかはかないものを見つめて喉をそらしていたりする。
その姿は、あまりに幼く、また痛々しい。
螺旋階段のリュドヴィーク。それが、この「物語」なんじゃないだろうか。
事件が起こり、それによって人々の運命が変わっても。
時が流れ、大人、と呼ばれる年齢になっても。
世慣れて、他人に自分に嘘をつくことに慣れても、あきらめることや誤魔化すことに慣れても。
リュドヴィークは、変わっていない。
螺旋階段でうずくまっていた青年。
彼の魂は、あのときのまま。
だからこそこの物語は、彼を中心に回る。
そして、ヒロインのイヴェット。螺旋階段のイヴ。
リュドヴィークとはおそらく、光と影、1枚の羽の裏と表。
彼女の絶望と渇望が、リュドヴィークの物語に絡み、回りはじめる。
イヴェットは、変わっていない。
螺旋階段で荒廃の瞳で歌っていた女。
彼女の魂は、あのときのまま。
リュドヴィークと出会い、彼の物語に絡んで回るだけに任せ、彼女の物語はそこで静止する。
オギーは同じモチーフというか、「イメージ」を繰り返し使う人だけど、「螺旋階段」と「イヴ」は、リンクしている気がする。
『螺旋のオルフェ』の舞台がパリであり、一発の銃声と引き金、過去だけを見つめ続ける「イヴ」、「螺旋階段」は確信犯だろう。
イヴェットは、「もうひとりのイヴ」であり、『マラケシュ』は「もうひとつの『螺旋のオルフェ』」だろう。
イヴェットをパリに残し、その罪を背負って逃げたリュドヴィーク。
イヴ・ブランシェを主役にもう一度物語を書き、彼をふたつのキャラクタに分けたら、イヴェットとリュドヴィークになる。
……なんてな(笑)。
なんせよ、パリのシーンの美しさと痛さは、すばらしいです。
このシーンのために、この物語があるんだなあ。ここに絡まないから、レオンはやっぱりいなくてもいいキャラクタだったんだなあ。もしくは、もっと出番も重さも少ない扱いでいいキャラクタだったんだよなあ。でも樹里ちゃんのために膨らませたから、このわかりにくい物語は、さらにドツボったんだよなあ。
樹里ちゃんが退団でなければ、ギュンター的位置の役(あて書き基本だから、役者が変われば役も変わるはず。だから、その位置に来る役)でもよかったろうになあ。
それでも今のレオンが好きだし、今の『マラケシュ』が好きだから、ぜんぜんかまわないんだけど。
個人的に、配役というかキャラというか演技というか、失敗してるのはギュンターとオリガだけだと思うし。
『マラケシュ・紅の墓標』。
この物語と別れることがかなしくてせつなくて、たまらなかった。
東宝がある? 博多がある?
そんなの、別物になるに決まってるじゃん。
ショーの『ドルチェ・ヴィータ!』でさえ、ムラと東宝では別物だったのに。ムラの『ドルチェ・ヴィータ!』が好きだったわたしは、東宝は不思議なものを見る思いだったよ。同じなのに、同じじゃないから。
進化してるとか、回を重ねるごとに役者がよくなっているとか、そーゆー問題じゃなくて。
「今」を愛していたら、未来なんていらなくなるんだよ。
未来はいずれ、「今」になるとしてもね。
螺旋階段のイヴに会いたい。
リュドヴィークとイヴェット。
あの、傷だらけの美しい人たちに、会いたいよ。
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