闇を照らす月。@睡れる月
2005年3月29日 タカラヅカ「まちかめぐる、大活躍でしたね!」
『睡れる月』初見の幕間で、わたしともずえさん、白木蓮さんの会話はそんな台詞からはじまったんですけど。
まちか以外の話もしましたとも。
「ハマコがっ、ハマコがっ!!」
「ハマコだよね〜〜っ」
とゆー、謎のハマコファン会話や、
「ヒロさんかっこいー」
とか、
「まーちゃん日本物きれいですよね」
とか、
「かしげちゃんは烏帽子をかぶって生まれてきたみたいな人ですよね」
とか、そんな他愛ないことも話していましたよ。
そしてなにより、
「コムちゃん、素敵〜〜っ!!」
心の叫び。
コムちゃんがどれほど美しく、凛々しく、素敵であるかを、口々に並べ立てておりました。
そのときわたしはつい、言ってしまいました。
「コム姫、かっこいいよねー。ナニもしてないけど」
そう。
第1幕が終わってなお。
主人公の浜松中納言@コムちゃんは、ナニもしていないのですわ。
通常、「物語」を回すのは主人公の役目。
彼が動き、物語が進む。彼がナニかすることによって、周囲が変わるの。
駄作の多くは、この原則が守られてなかったりする。
主人公はなにもせず、ただ周囲が作者の都合によって動いていく。主体性と人格を持たない主人公は、めりはりのない物語の中に埋没し、観客は感情移入もできないし、カタルシスも味わえない。
物語を作る基本中の基本として、「主人公が正しく主役であるか」とゆーのがあるわけな。
『睡れる月』において、主人公の中納言はまったくナニもしない男だ。
せっかくの戦記物であり、陰謀だのクーデターだの戦争だのとばたこら派手にストーリーが動いているわりに、主役の中納言はそれらの事件にまったく関わってないの。
ふつーならソレ、ありえないって!
激動の時代になんにもしない男が主人公だなんて。キャラ立てまちがってるよ!
しかし。
中納言の場合は、ナニもしないからこそ、いいんだ。
ナニもしないことが、彼の「キャラクタ」だからだ。
『睡れる月』、この物語は、美しい扇のようだと思う。
裏と表、そして端と端ではのせられている色も模様もチガウ。さまざまな立場のさまざまな人間模様が入り交じり、歴史が織られる。
扇のいちばん大きな模様は式部卿宮であり、いちばん大きな色は「戦争」だろう。
将軍・足利義教も、日野宗子も強く鮮やかな模様を刻んでいるし、三条家や赤松家、吉野の人々もひっそりと己れの柄を咲かせているだろうし、二宮や大君もはかないながら美しい色を輝かせているだろう。……そして何故か、みょーに存在感ある楠木二郎@ハマコも、周囲の色や柄と微妙に調和せずに、そこにあるだろう(笑)。
扇はそのときの角度や開き方でさまざまに表情を変え、物語を変える。
では、主人公・浜松中納言は、その扇の中で、どんな色とカタチをしているのか。
中納言は、扇の絵ではない。
彼は、「要」だ。
扇を支える中心。どんな角度、どんな開き方でも、要は動かない。そこにある。
あり続ける。
変わらないこと。
それは、彼の信念が揺るがないことを示す。
彼自身は悩みもするし傷つきもするけれど、彼の生き方は変わらない。シンプルに、力強く、彼は「物語」の要であり続ける。
だからこそ、救いなんだ。
時代に浮き足立ってその場その場で色を変える、右往左往する、そんな人たちばかりじゃ、つらいよ。
昨日言っていたことと、今日言うことがチガウ人ばかりじゃ、孤独だよ。
変わらない男。
ナニもしない男。
ただ、そこに「在る」男。
終始一貫変わらないことに感動するなんて、そうそうあることじゃない。物語はキャラクタが「変わる」ことで感動させるものだから。
変わらない中納言は、変わらないゆえに傷つくことになる。変わり続けることで傷つく式部卿宮と対照的に。
傷つき、慟哭してなお、決して曲がらない。その、強さ。
彼が主人公でよかった。
このかなしい物語のなか、毅然と立つ中納言の美しさが、どれほどせつなく輝いているか。
闇を照らす月のように。
強く賢く、また「大人」であるから傷つき続ける、弟の中納言。
弱く愚かで「子ども」であるからこそ傷つき続ける、兄の式部卿宮。
ふたりが愛し合っているからこそ、傷はさらに深くなる。
ふたりの役割が逆ならきっと、別の結末があったんだろうね。
「弟」である中納言は兄を敬愛し、彼に従う(もしくは意志を尊重する)ことを第一とした。自分が兄より「大人」であることを薄々察しながらも、「弟」の立場を守った。兄への愛ゆえに。
「兄」である式部卿宮は、己れが矢面に立って弟を守ることに固執した。弟は自分より「弱い」ものと決めつけて、なにもかもひとりで背負った。弟への愛ゆえに。
やっぱ、このふたりの立ち位置が、好きだなー。
中納言の、強さと賢さが好きなの!!
式部卿宮の阿呆さとヘタレ具合が好きなのと同じで(笑)。
中納言はたぶん、知ってるよね。兄が聖人でも賢人でもないこと。わかっていて、兄のために、気づかないふりをしている。式部卿宮が「見て欲しい」と思っているままの「兄」の姿を見ているんだ、あえて。
つまりアレだ。ひとりでべそべそやっていたヘタレにーちゃんが、弟が現れるなりはっと涙をぬぐい、格好つけている。弟は、にーちゃんがひとりで泣いてたことを知ってるんだけど、わざとそれには触れず、兄の見え見えの強がりに、「にーちゃんはやっぱり強いなぁ」と感心して見せるよーな。そーゆー間柄だな。
弟はその強さと賢さで兄の弱さをも愛し、兄はその弱さと愚かさで自分が弱いことにも支えられていることにも気づかずにいた。
それゆえに、兄は兄であろうとして暴走し、弟をも滅ぼしてしまうのだけど。
式部卿宮の弱さと愚かさを知りながら、それでもそのままの姿を愛し続ける中納言の姿が、すなわち彼の立ち位置そのものなんだろう。
つまり、「物語の要」。
人間たちの弱さ愚かさ、戦いの残酷さ虚しさ、それらすべてをあるがまま受け止める、要。
ひとりの人間として嘆きながら、迷いながら、傷つきながら。
それでも、すべての出来事を、かなしみをあやまちを、愛して。
その静かで強い愛で、「転生」を祈って弓を構える。
コム姫は、どこまでいい男になるんだろう。
雪組3兄弟の末っ子で、トウコちゃんがたのしそーに世話を焼いていたあの甘え上手の男の子は、どこへいったんだろう。
こんなに度量のあるいい男になるなんて。しかも、少年っぽい美貌はそのままに。すばらしいわ。
コムちゃん、LOVE。
☆
んで、私信。
白木蓮さん、二宮、「きぬぎぬ」って言ってた?
わたし以外の誰も聞いてなかったのよ。空耳かとしょぼくれてたんだけど。
確認お願いします。>青年館
いや、言ってなくてもわたしの萌えは変わらないけどなっ。
『睡れる月』初見の幕間で、わたしともずえさん、白木蓮さんの会話はそんな台詞からはじまったんですけど。
まちか以外の話もしましたとも。
「ハマコがっ、ハマコがっ!!」
「ハマコだよね〜〜っ」
とゆー、謎のハマコファン会話や、
「ヒロさんかっこいー」
とか、
「まーちゃん日本物きれいですよね」
とか、
「かしげちゃんは烏帽子をかぶって生まれてきたみたいな人ですよね」
とか、そんな他愛ないことも話していましたよ。
そしてなにより、
「コムちゃん、素敵〜〜っ!!」
心の叫び。
コムちゃんがどれほど美しく、凛々しく、素敵であるかを、口々に並べ立てておりました。
そのときわたしはつい、言ってしまいました。
「コム姫、かっこいいよねー。ナニもしてないけど」
そう。
第1幕が終わってなお。
主人公の浜松中納言@コムちゃんは、ナニもしていないのですわ。
通常、「物語」を回すのは主人公の役目。
彼が動き、物語が進む。彼がナニかすることによって、周囲が変わるの。
駄作の多くは、この原則が守られてなかったりする。
主人公はなにもせず、ただ周囲が作者の都合によって動いていく。主体性と人格を持たない主人公は、めりはりのない物語の中に埋没し、観客は感情移入もできないし、カタルシスも味わえない。
物語を作る基本中の基本として、「主人公が正しく主役であるか」とゆーのがあるわけな。
『睡れる月』において、主人公の中納言はまったくナニもしない男だ。
せっかくの戦記物であり、陰謀だのクーデターだの戦争だのとばたこら派手にストーリーが動いているわりに、主役の中納言はそれらの事件にまったく関わってないの。
ふつーならソレ、ありえないって!
激動の時代になんにもしない男が主人公だなんて。キャラ立てまちがってるよ!
しかし。
中納言の場合は、ナニもしないからこそ、いいんだ。
ナニもしないことが、彼の「キャラクタ」だからだ。
『睡れる月』、この物語は、美しい扇のようだと思う。
裏と表、そして端と端ではのせられている色も模様もチガウ。さまざまな立場のさまざまな人間模様が入り交じり、歴史が織られる。
扇のいちばん大きな模様は式部卿宮であり、いちばん大きな色は「戦争」だろう。
将軍・足利義教も、日野宗子も強く鮮やかな模様を刻んでいるし、三条家や赤松家、吉野の人々もひっそりと己れの柄を咲かせているだろうし、二宮や大君もはかないながら美しい色を輝かせているだろう。……そして何故か、みょーに存在感ある楠木二郎@ハマコも、周囲の色や柄と微妙に調和せずに、そこにあるだろう(笑)。
扇はそのときの角度や開き方でさまざまに表情を変え、物語を変える。
では、主人公・浜松中納言は、その扇の中で、どんな色とカタチをしているのか。
中納言は、扇の絵ではない。
彼は、「要」だ。
扇を支える中心。どんな角度、どんな開き方でも、要は動かない。そこにある。
あり続ける。
変わらないこと。
それは、彼の信念が揺るがないことを示す。
彼自身は悩みもするし傷つきもするけれど、彼の生き方は変わらない。シンプルに、力強く、彼は「物語」の要であり続ける。
だからこそ、救いなんだ。
時代に浮き足立ってその場その場で色を変える、右往左往する、そんな人たちばかりじゃ、つらいよ。
昨日言っていたことと、今日言うことがチガウ人ばかりじゃ、孤独だよ。
変わらない男。
ナニもしない男。
ただ、そこに「在る」男。
終始一貫変わらないことに感動するなんて、そうそうあることじゃない。物語はキャラクタが「変わる」ことで感動させるものだから。
変わらない中納言は、変わらないゆえに傷つくことになる。変わり続けることで傷つく式部卿宮と対照的に。
傷つき、慟哭してなお、決して曲がらない。その、強さ。
彼が主人公でよかった。
このかなしい物語のなか、毅然と立つ中納言の美しさが、どれほどせつなく輝いているか。
闇を照らす月のように。
強く賢く、また「大人」であるから傷つき続ける、弟の中納言。
弱く愚かで「子ども」であるからこそ傷つき続ける、兄の式部卿宮。
ふたりが愛し合っているからこそ、傷はさらに深くなる。
ふたりの役割が逆ならきっと、別の結末があったんだろうね。
「弟」である中納言は兄を敬愛し、彼に従う(もしくは意志を尊重する)ことを第一とした。自分が兄より「大人」であることを薄々察しながらも、「弟」の立場を守った。兄への愛ゆえに。
「兄」である式部卿宮は、己れが矢面に立って弟を守ることに固執した。弟は自分より「弱い」ものと決めつけて、なにもかもひとりで背負った。弟への愛ゆえに。
やっぱ、このふたりの立ち位置が、好きだなー。
中納言の、強さと賢さが好きなの!!
式部卿宮の阿呆さとヘタレ具合が好きなのと同じで(笑)。
中納言はたぶん、知ってるよね。兄が聖人でも賢人でもないこと。わかっていて、兄のために、気づかないふりをしている。式部卿宮が「見て欲しい」と思っているままの「兄」の姿を見ているんだ、あえて。
つまりアレだ。ひとりでべそべそやっていたヘタレにーちゃんが、弟が現れるなりはっと涙をぬぐい、格好つけている。弟は、にーちゃんがひとりで泣いてたことを知ってるんだけど、わざとそれには触れず、兄の見え見えの強がりに、「にーちゃんはやっぱり強いなぁ」と感心して見せるよーな。そーゆー間柄だな。
弟はその強さと賢さで兄の弱さをも愛し、兄はその弱さと愚かさで自分が弱いことにも支えられていることにも気づかずにいた。
それゆえに、兄は兄であろうとして暴走し、弟をも滅ぼしてしまうのだけど。
式部卿宮の弱さと愚かさを知りながら、それでもそのままの姿を愛し続ける中納言の姿が、すなわち彼の立ち位置そのものなんだろう。
つまり、「物語の要」。
人間たちの弱さ愚かさ、戦いの残酷さ虚しさ、それらすべてをあるがまま受け止める、要。
ひとりの人間として嘆きながら、迷いながら、傷つきながら。
それでも、すべての出来事を、かなしみをあやまちを、愛して。
その静かで強い愛で、「転生」を祈って弓を構える。
コム姫は、どこまでいい男になるんだろう。
雪組3兄弟の末っ子で、トウコちゃんがたのしそーに世話を焼いていたあの甘え上手の男の子は、どこへいったんだろう。
こんなに度量のあるいい男になるなんて。しかも、少年っぽい美貌はそのままに。すばらしいわ。
コムちゃん、LOVE。
☆
んで、私信。
白木蓮さん、二宮、「きぬぎぬ」って言ってた?
わたし以外の誰も聞いてなかったのよ。空耳かとしょぼくれてたんだけど。
確認お願いします。>青年館
いや、言ってなくてもわたしの萌えは変わらないけどなっ。
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