それはお洒落なオシャレな物語。@それでも船は行く
2005年3月4日 タカラヅカ わたしは、太田哲則が嫌いだ。
作品がどうこうより、たぶんきっと「製作態度」が嫌いなんだろう(笑)。
それはわたしが、作品を創るうえでの誠意というものに、重点を置いているせいだと思う。
『それでも船は行く』もまた、誠意の感じられない作品だった。
『それでも…』は作者曰く「お洒落な、大人のラブコメディ」なんだそーだ。
お洒落か。ははは。お洒落なー。
「ねえねえ、この間お見合いしたんでしょ? 相手の人、どうだった?」
「……(沈黙)……えーと……そのー、いい人、だったよ」
「その失敗ばっかりしてる後輩ってさぁ、どーゆー子なのよ? 一度がつんと言った方がよくない?」
「……(沈黙)……えーと……そのー、でもいちおう、かわいい子、だし」
「『天の鼓』ってどうだった? おもしろかった?」
「……(沈黙)……えーと……そのー、とりあえず、きれい、だったよ」
という会話例と同じですわ。「お洒落」の使い方。
「『それでも船は行く』ってどうだった? おもしろかった?」
「……(沈黙)……えーと……そのー、とりあえず、オシャレ、だったよ」
他に誉めようがない場合の、大人の処世術。さしさわりのないことを言って、お茶を濁す。
そーゆー意味での「オシャレ」だよな、太田せんせ?
この「オシャレ」具合が、かなしいまでの誠意のなさ。
やる気のなさを「さしさわりのない言葉」で誤魔化している状態。
登場人物の人格が一定せず薄くご都合主義なのも、「オシャレ」にするため。
ストーリーがメリハリに欠け、盛り上がらないのも、「オシャレ」にするため。
意味のない長台詞と装飾過多の不親切な自己満足会話も、「オシャレ」にするため。
過去作品の焼き直しなのも、もちろん「オシャレ」にするため。
都合のいい言葉だな、「オシャレ」って。
キャラクタもそうだが、ストーリーのいい加減さはどうだろう。
破綻してはいないよ。太田せんせは最低限破綻したものは書かない。
しかし、そこに誠意が欠けるために、圧倒的に熱量が欠けている。
熱量。
役者で言うなら、ハマコとかハマコとかハマコとか。最近ではさららんとか(笑)。
「いや、なにもソコまでやらなくてもいいから!」
と肩を押さえたくなるほどの大熱演。
役に入り込むあまり、髪振り乱して顔ぐちゃぐちゃにしての大暴走。手加減ナシ!
……それがいいか悪いか、そのときの舞台や役に即しているかどうかは、今は置くとして。
そんな手加減ナシで大熱演している人の横で、「てきとー」に流している人がいたら、どうだろう?
決められた通りの振り付けでちゃんと踊っている。決められた台詞は言う。最低限の仕事はしている。でも、それだけ。
「なりふりかまわず一生懸命なんて、かっこわるぅい。ふつーにやる方がオシャレよ」
疲れない程度、失敗や実力不足がわからない程度に力を加減して、ほどほどの仕事をしておく。最高点を出す努力なんかしない、でも平均点はふつーにあるから、それでいいはずよ、と。
出来不出来以前に、わたしはそーゆーのは「誠意がない」と判断する。
『それでも…』の「オシャレさ」には、そのにおいがする。
「オシャレ」を言い訳に、最初から平均点あたりを目指して作り、そのことに納得している。たとえ平均点に届かなくても、平気。だって頂点を目指してないから、鈍感な心は何点でも傷つかないの。
主人公ジョニーを、もっと魅力的な人物にすることは可能だったはずだ。
嘘つきでいい加減で気ままな彼を、「それでもほんとはいい奴」「わざと悪ぶって、もう」と観客に思わせる仕掛けは、できたはずだ。
できるのに、しない。
そしてそれを「オシャレ」と言う。
ジョニーとヒロインのスーザンの関係も、もっと盛り上げることができたはずだ。作者の独りよがり台詞を変えるだけでも、ぜんぜんちがってくるはずだ。
マイクとジュリアの関係も、公爵夫人と男爵も。
キャラクタひとりずつを、もっと真摯に表現することができたはずだ。
キャラがみな深みを持たず表面的で「軽い」。それを「オシャレ」という言葉で誤魔化している。
涙を流して熱演することを「暑苦しくてかっこわるい」、なにごとも動じずさらりと流すことを「クールでかっこいい」と言うような感じで。
なんつっても、誠意があれば、過去作品のネタを焼き直して使わないだろう。
これで何回目だ、太田せんせ?
何回同じネタを使えば気が済むの?
もちろん、ひとつのテーマをえんえん書き続けることがいけないわけじゃない。ほんとうに情熱をかたむけてひとつのテーマを追求するならば、それは「ライフワーク」という。「作風」という。正塚晴彦が「やせ我慢の美学」と「自分探し」をえんえんえんえん書き続けているのはアリだと思うさ。齋藤吉正が「母なる聖女」「義賊」「復讐」「コスプレ」「猫耳」ばかりをえんえんえんえん表現し続けていても、「このヲタクめ(薄笑)」で済むさ。
正否はともかく、それを書きたくて、情熱を持って書いているのだから。
しかし情熱もこだわりもなく同じネタや同じ話を繰り返し書くのは、ただの焼き直しだろう。
この、誠意のなさったら。溜息。
文字数ないので、続く〜〜。
作品がどうこうより、たぶんきっと「製作態度」が嫌いなんだろう(笑)。
それはわたしが、作品を創るうえでの誠意というものに、重点を置いているせいだと思う。
『それでも船は行く』もまた、誠意の感じられない作品だった。
『それでも…』は作者曰く「お洒落な、大人のラブコメディ」なんだそーだ。
お洒落か。ははは。お洒落なー。
「ねえねえ、この間お見合いしたんでしょ? 相手の人、どうだった?」
「……(沈黙)……えーと……そのー、いい人、だったよ」
「その失敗ばっかりしてる後輩ってさぁ、どーゆー子なのよ? 一度がつんと言った方がよくない?」
「……(沈黙)……えーと……そのー、でもいちおう、かわいい子、だし」
「『天の鼓』ってどうだった? おもしろかった?」
「……(沈黙)……えーと……そのー、とりあえず、きれい、だったよ」
という会話例と同じですわ。「お洒落」の使い方。
「『それでも船は行く』ってどうだった? おもしろかった?」
「……(沈黙)……えーと……そのー、とりあえず、オシャレ、だったよ」
他に誉めようがない場合の、大人の処世術。さしさわりのないことを言って、お茶を濁す。
そーゆー意味での「オシャレ」だよな、太田せんせ?
この「オシャレ」具合が、かなしいまでの誠意のなさ。
やる気のなさを「さしさわりのない言葉」で誤魔化している状態。
登場人物の人格が一定せず薄くご都合主義なのも、「オシャレ」にするため。
ストーリーがメリハリに欠け、盛り上がらないのも、「オシャレ」にするため。
意味のない長台詞と装飾過多の不親切な自己満足会話も、「オシャレ」にするため。
過去作品の焼き直しなのも、もちろん「オシャレ」にするため。
都合のいい言葉だな、「オシャレ」って。
キャラクタもそうだが、ストーリーのいい加減さはどうだろう。
破綻してはいないよ。太田せんせは最低限破綻したものは書かない。
しかし、そこに誠意が欠けるために、圧倒的に熱量が欠けている。
熱量。
役者で言うなら、ハマコとかハマコとかハマコとか。最近ではさららんとか(笑)。
「いや、なにもソコまでやらなくてもいいから!」
と肩を押さえたくなるほどの大熱演。
役に入り込むあまり、髪振り乱して顔ぐちゃぐちゃにしての大暴走。手加減ナシ!
……それがいいか悪いか、そのときの舞台や役に即しているかどうかは、今は置くとして。
そんな手加減ナシで大熱演している人の横で、「てきとー」に流している人がいたら、どうだろう?
決められた通りの振り付けでちゃんと踊っている。決められた台詞は言う。最低限の仕事はしている。でも、それだけ。
「なりふりかまわず一生懸命なんて、かっこわるぅい。ふつーにやる方がオシャレよ」
疲れない程度、失敗や実力不足がわからない程度に力を加減して、ほどほどの仕事をしておく。最高点を出す努力なんかしない、でも平均点はふつーにあるから、それでいいはずよ、と。
出来不出来以前に、わたしはそーゆーのは「誠意がない」と判断する。
『それでも…』の「オシャレさ」には、そのにおいがする。
「オシャレ」を言い訳に、最初から平均点あたりを目指して作り、そのことに納得している。たとえ平均点に届かなくても、平気。だって頂点を目指してないから、鈍感な心は何点でも傷つかないの。
主人公ジョニーを、もっと魅力的な人物にすることは可能だったはずだ。
嘘つきでいい加減で気ままな彼を、「それでもほんとはいい奴」「わざと悪ぶって、もう」と観客に思わせる仕掛けは、できたはずだ。
できるのに、しない。
そしてそれを「オシャレ」と言う。
ジョニーとヒロインのスーザンの関係も、もっと盛り上げることができたはずだ。作者の独りよがり台詞を変えるだけでも、ぜんぜんちがってくるはずだ。
マイクとジュリアの関係も、公爵夫人と男爵も。
キャラクタひとりずつを、もっと真摯に表現することができたはずだ。
キャラがみな深みを持たず表面的で「軽い」。それを「オシャレ」という言葉で誤魔化している。
涙を流して熱演することを「暑苦しくてかっこわるい」、なにごとも動じずさらりと流すことを「クールでかっこいい」と言うような感じで。
なんつっても、誠意があれば、過去作品のネタを焼き直して使わないだろう。
これで何回目だ、太田せんせ?
何回同じネタを使えば気が済むの?
もちろん、ひとつのテーマをえんえん書き続けることがいけないわけじゃない。ほんとうに情熱をかたむけてひとつのテーマを追求するならば、それは「ライフワーク」という。「作風」という。正塚晴彦が「やせ我慢の美学」と「自分探し」をえんえんえんえん書き続けているのはアリだと思うさ。齋藤吉正が「母なる聖女」「義賊」「復讐」「コスプレ」「猫耳」ばかりをえんえんえんえん表現し続けていても、「このヲタクめ(薄笑)」で済むさ。
正否はともかく、それを書きたくて、情熱を持って書いているのだから。
しかし情熱もこだわりもなく同じネタや同じ話を繰り返し書くのは、ただの焼き直しだろう。
この、誠意のなさったら。溜息。
文字数ないので、続く〜〜。
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