デパートとホテルと遊園地と歌劇団。@ホテル ステラマリス
2005年1月20日 タカラヅカ 18日は、キティちゃんと宙公演観劇デートでした。
つーことでいそいそムラへ行ったわけですよ。
でもって1階席のドアの前で、キティちゃんに会ったわけですよ。
そしたらキティちゃん、言うわけですよ。
「あれ? 今日、緑野と一緒だっけ?」
ひーどーいー。
一緒にチケット買ったんじゃない、「一緒に観に行こうね」って!!
それを忘れる? 忘れるのっ?!
アナタあたしのこと愛してないわねっ!!
「終わったら、お茶つきあうから!」
と、めずらしく自分から言うキティちゃん。彼女はいつも「今日必要な分」しか現金を持ち歩かないので「お茶するとかごはんするとかは、前もって言ってよ? でないとお金持ってないからね!」な生き方をしている人です。
お金がないわけじゃなく、現金を持っていると、全部使ってしまうからあえて持たないようにしてるんだって。ちなみに彼女はわたしより年上ですが。……小学生みたいやぞ、ソレ。
「ねえ、そんならついでに新公も観ようよー。デイジーちゃんとは新公の前に待ち合わせしてるし。デイジーちゃんにも会っていきなよー」
と誘ったら、
「あと1000円しかないから無理」
と、断られた。
「貸したげるよ?」
「借りたら、返さなきゃいけないから嫌」
えーと。
キティちゃんは結局誘いを振り切り、お茶だけして帰ってしまいました。
そのことをデイジーちゃんに言うと、
「1000円あれば観れましたよ」
と、話は価格破壊の方へ。
ええ。たぶん、1000円でも観られたと思う。昨今見ないほどの、ものすごいサバキの山だったから。
観たい人は、みんな無事に観られたんじゃないかな、今回の新公。
ま、新公の話はもういいとして。
そんなこんなで2回目の宙組観劇。
正塚晴彦作『ホテル ステラマリス』。
この芝居を観ていちばん思い出したのは、『デパートメント・ストア』だ。
焼き直し、とまでは言わないが、同じ話だよね?
なにしろテーマが同じだから。
デパートorホテル再建、という意味じゃないよ。
それはコンセプトが同じ、つーだけ。
デパートorホテルを、「タカラヅカ」と替えてOKなところ。
現実を忘れ、ここにいる間だけ夢を見ることができる場所。
伝統と現実の対比。
理想と現実、伝統と現実、それでも「夢を見る場所」を守ろうとする人々。
あくまでも、夢を見る場所を「作る側」の話。
テーマはコレでしょ?
べつにデパートでもホテルでも遊園地でもあるいはどこかの歌劇団でも、なんでもいいんだよね。このテーマを表現できるなら。
でもデパートはやっちゃったし、遊園地もこの間使った。
だからホテル。
作品のコンセプトは『デパメン』と同じ「おちぶれた伝統ある商業施設の再建」、そしてプロットは『デパメン』とまったく同じ。シーンや曲、台詞まで似ているのは、わざとなのか無意識なのか。
正塚氏は今のタカラヅカによほどなにか、言いたいことがあるのかねえ。
同じテーマの話を同じコンセプトで、ショーと芝居で2度も書くなんて。
同じテーマを書くのが悪いわけじゃない。
書いていいさ、もちろん。
何度だって。
死ぬまで同じことを書き続けたっていい。
ただ、それならコンセプトは変えろ。
とゆーだけのことで(にっこり)。
『ステラマリス』の失敗ひとつは、そこにもあるよなー。
セルフ・コピーはスベると悲惨。
前作を超えなくちゃ、書き直す意味がないっちゅーの。
なまじ、『デパメン』はショーだった。
ショーを芝居に焼き直したわけだから、いろいろ不都合が出る。
まんま同じタイトルなら問題ない部分も、「別作品」と謳ったからには手を加えなければならない。
ので、めんどーが生じる。
『ステラマリス』は、とても冗長で間延びした話だった。
わたしはいったいいつ、本編がはじまるんだろう? と首を傾げていたよ。
いつまでたってもプロローグにしか見えなくて。
よーやくプロローグのショー部分が終わって、本編がはじまったと思ったのは、ウィリアム@たかこが正体をばらしたあたりだ。
ちょっと待て、それってはじまってから何十分後だよ。
ストーリーが動き出した、と思ったのは、ホテル閉鎖が決まってからだ。
ちょっと待て、それってはじまってから何十分後だよ。てゆーかソレ、ほとんど終わりの方じゃあ?
原作がショー作品だから、こんなことになってるのか……?
もちろん正塚氏が、新しい作風を模索している、というのもあるかと思う。
ストレートプレイでもいいじゃん? みたいなストーリー重視系から、ショーに近いよーなミュージカル系に作風を変えたいのかもしれねーよ。
にしても、あまりにもコレ、習作っぽいぞ。
ただの下書きでしょ? 練習でしょ?
完成品じゃないよね……?
ダンスと歌ですすめるならば、そこに大きなストーリーが必要だった。
ストーリーがあまり動かない部分ばかりを、ダンスと歌でだらだら続けるもんだから、ただ冗長になる。
ふつーに芝居でやったら数分で終わるのに、歌って踊るから何倍もかかるんだよね。
最初の「再建のためのアイディア」だけで、何回同じこと言って踊ってた?
しかもこのときは、「ただのアイディア」でしかなく、ホテル買収のことも、ウィリアムの立場も伏せられている。だからせっかくの長い長いダンスシーンも、「ストーリー以外の出来事」でしかない。
せっかくミュージカルなんだから、ストーリーが劇的に変化する部分こそを、ダンスや歌で盛り上げるべきなのでは?
ホテル閉鎖にしろ、主役ふたりの恋愛にしろ、ストーリーが変化する場面は淡々と進み、変化の乏しいところやサブエピソードが長々とミュージカルとして盛り上げられているよね。
そりゃ、退屈な作品になるわ。
なんか基本的なところで、組み立てをまちがっている気がする。
作品全体の構成がね。
それをひっくるめて言うと、「下書き」とか「習作」ってことなんだけど。とても完成した作品だとは思えないっていう。
正塚作品は総じていつも「似ている」けど、今回ほど「焼き直し」と思ったことはなかった。
シーンや表現方法が似ているのは、「作風」としてアリだと思っている。
植田作品がカーテン前でえんえん芝居することや、主要人物が登場するときに音楽が鳴ったり、「誰だ? 出てこい」とみんなで探したりするのと同じ。
正塚作品の群衆の使い方や、合唱は「作風」。何度同じ表現をしてもそれはアリだと思う。
しかし、テーマもコンセプトもプロットも同じ、つーのはなあ。
曲や台詞まで同じライン、つーのはなあ。
そのうえ「下書き」にしか見えない低レベルっぷりとはなあ。
どーしたんだ、正塚晴彦。
つーことでいそいそムラへ行ったわけですよ。
でもって1階席のドアの前で、キティちゃんに会ったわけですよ。
そしたらキティちゃん、言うわけですよ。
「あれ? 今日、緑野と一緒だっけ?」
ひーどーいー。
一緒にチケット買ったんじゃない、「一緒に観に行こうね」って!!
それを忘れる? 忘れるのっ?!
アナタあたしのこと愛してないわねっ!!
「終わったら、お茶つきあうから!」
と、めずらしく自分から言うキティちゃん。彼女はいつも「今日必要な分」しか現金を持ち歩かないので「お茶するとかごはんするとかは、前もって言ってよ? でないとお金持ってないからね!」な生き方をしている人です。
お金がないわけじゃなく、現金を持っていると、全部使ってしまうからあえて持たないようにしてるんだって。ちなみに彼女はわたしより年上ですが。……小学生みたいやぞ、ソレ。
「ねえ、そんならついでに新公も観ようよー。デイジーちゃんとは新公の前に待ち合わせしてるし。デイジーちゃんにも会っていきなよー」
と誘ったら、
「あと1000円しかないから無理」
と、断られた。
「貸したげるよ?」
「借りたら、返さなきゃいけないから嫌」
えーと。
キティちゃんは結局誘いを振り切り、お茶だけして帰ってしまいました。
そのことをデイジーちゃんに言うと、
「1000円あれば観れましたよ」
と、話は価格破壊の方へ。
ええ。たぶん、1000円でも観られたと思う。昨今見ないほどの、ものすごいサバキの山だったから。
観たい人は、みんな無事に観られたんじゃないかな、今回の新公。
ま、新公の話はもういいとして。
そんなこんなで2回目の宙組観劇。
正塚晴彦作『ホテル ステラマリス』。
この芝居を観ていちばん思い出したのは、『デパートメント・ストア』だ。
焼き直し、とまでは言わないが、同じ話だよね?
なにしろテーマが同じだから。
デパートorホテル再建、という意味じゃないよ。
それはコンセプトが同じ、つーだけ。
デパートorホテルを、「タカラヅカ」と替えてOKなところ。
現実を忘れ、ここにいる間だけ夢を見ることができる場所。
伝統と現実の対比。
理想と現実、伝統と現実、それでも「夢を見る場所」を守ろうとする人々。
あくまでも、夢を見る場所を「作る側」の話。
テーマはコレでしょ?
べつにデパートでもホテルでも遊園地でもあるいはどこかの歌劇団でも、なんでもいいんだよね。このテーマを表現できるなら。
でもデパートはやっちゃったし、遊園地もこの間使った。
だからホテル。
作品のコンセプトは『デパメン』と同じ「おちぶれた伝統ある商業施設の再建」、そしてプロットは『デパメン』とまったく同じ。シーンや曲、台詞まで似ているのは、わざとなのか無意識なのか。
正塚氏は今のタカラヅカによほどなにか、言いたいことがあるのかねえ。
同じテーマの話を同じコンセプトで、ショーと芝居で2度も書くなんて。
同じテーマを書くのが悪いわけじゃない。
書いていいさ、もちろん。
何度だって。
死ぬまで同じことを書き続けたっていい。
ただ、それならコンセプトは変えろ。
とゆーだけのことで(にっこり)。
『ステラマリス』の失敗ひとつは、そこにもあるよなー。
セルフ・コピーはスベると悲惨。
前作を超えなくちゃ、書き直す意味がないっちゅーの。
なまじ、『デパメン』はショーだった。
ショーを芝居に焼き直したわけだから、いろいろ不都合が出る。
まんま同じタイトルなら問題ない部分も、「別作品」と謳ったからには手を加えなければならない。
ので、めんどーが生じる。
『ステラマリス』は、とても冗長で間延びした話だった。
わたしはいったいいつ、本編がはじまるんだろう? と首を傾げていたよ。
いつまでたってもプロローグにしか見えなくて。
よーやくプロローグのショー部分が終わって、本編がはじまったと思ったのは、ウィリアム@たかこが正体をばらしたあたりだ。
ちょっと待て、それってはじまってから何十分後だよ。
ストーリーが動き出した、と思ったのは、ホテル閉鎖が決まってからだ。
ちょっと待て、それってはじまってから何十分後だよ。てゆーかソレ、ほとんど終わりの方じゃあ?
原作がショー作品だから、こんなことになってるのか……?
もちろん正塚氏が、新しい作風を模索している、というのもあるかと思う。
ストレートプレイでもいいじゃん? みたいなストーリー重視系から、ショーに近いよーなミュージカル系に作風を変えたいのかもしれねーよ。
にしても、あまりにもコレ、習作っぽいぞ。
ただの下書きでしょ? 練習でしょ?
完成品じゃないよね……?
ダンスと歌ですすめるならば、そこに大きなストーリーが必要だった。
ストーリーがあまり動かない部分ばかりを、ダンスと歌でだらだら続けるもんだから、ただ冗長になる。
ふつーに芝居でやったら数分で終わるのに、歌って踊るから何倍もかかるんだよね。
最初の「再建のためのアイディア」だけで、何回同じこと言って踊ってた?
しかもこのときは、「ただのアイディア」でしかなく、ホテル買収のことも、ウィリアムの立場も伏せられている。だからせっかくの長い長いダンスシーンも、「ストーリー以外の出来事」でしかない。
せっかくミュージカルなんだから、ストーリーが劇的に変化する部分こそを、ダンスや歌で盛り上げるべきなのでは?
ホテル閉鎖にしろ、主役ふたりの恋愛にしろ、ストーリーが変化する場面は淡々と進み、変化の乏しいところやサブエピソードが長々とミュージカルとして盛り上げられているよね。
そりゃ、退屈な作品になるわ。
なんか基本的なところで、組み立てをまちがっている気がする。
作品全体の構成がね。
それをひっくるめて言うと、「下書き」とか「習作」ってことなんだけど。とても完成した作品だとは思えないっていう。
正塚作品は総じていつも「似ている」けど、今回ほど「焼き直し」と思ったことはなかった。
シーンや表現方法が似ているのは、「作風」としてアリだと思っている。
植田作品がカーテン前でえんえん芝居することや、主要人物が登場するときに音楽が鳴ったり、「誰だ? 出てこい」とみんなで探したりするのと同じ。
正塚作品の群衆の使い方や、合唱は「作風」。何度同じ表現をしてもそれはアリだと思う。
しかし、テーマもコンセプトもプロットも同じ、つーのはなあ。
曲や台詞まで同じライン、つーのはなあ。
そのうえ「下書き」にしか見えない低レベルっぷりとはなあ。
どーしたんだ、正塚晴彦。
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