18日は、キティちゃんと宙公演観劇デートでした。
 つーことでいそいそムラへ行ったわけですよ。
 でもって1階席のドアの前で、キティちゃんに会ったわけですよ。
 そしたらキティちゃん、言うわけですよ。

「あれ? 今日、緑野と一緒だっけ?」

 ひーどーいー。
 一緒にチケット買ったんじゃない、「一緒に観に行こうね」って!!
 それを忘れる? 忘れるのっ?!
 アナタあたしのこと愛してないわねっ!!

 
「終わったら、お茶つきあうから!」
 と、めずらしく自分から言うキティちゃん。彼女はいつも「今日必要な分」しか現金を持ち歩かないので「お茶するとかごはんするとかは、前もって言ってよ? でないとお金持ってないからね!」な生き方をしている人です。
 お金がないわけじゃなく、現金を持っていると、全部使ってしまうからあえて持たないようにしてるんだって。ちなみに彼女はわたしより年上ですが。……小学生みたいやぞ、ソレ。

「ねえ、そんならついでに新公も観ようよー。デイジーちゃんとは新公の前に待ち合わせしてるし。デイジーちゃんにも会っていきなよー」
 と誘ったら、
「あと1000円しかないから無理」
 と、断られた。
「貸したげるよ?」
「借りたら、返さなきゃいけないから嫌」
 えーと。
 
 キティちゃんは結局誘いを振り切り、お茶だけして帰ってしまいました。
 そのことをデイジーちゃんに言うと、
「1000円あれば観れましたよ」
 と、話は価格破壊の方へ。
 ええ。たぶん、1000円でも観られたと思う。昨今見ないほどの、ものすごいサバキの山だったから。

 観たい人は、みんな無事に観られたんじゃないかな、今回の新公。

 
 ま、新公の話はもういいとして。
 そんなこんなで2回目の宙組観劇。

 正塚晴彦作『ホテル ステラマリス』

 この芝居を観ていちばん思い出したのは、『デパートメント・ストア』だ。
 焼き直し、とまでは言わないが、同じ話だよね?

 なにしろテーマが同じだから。

 デパートorホテル再建、という意味じゃないよ。
 それはコンセプトが同じ、つーだけ。

 デパートorホテルを、「タカラヅカ」と替えてOKなところ。

 現実を忘れ、ここにいる間だけ夢を見ることができる場所。
 伝統と現実の対比。
 理想と現実、伝統と現実、それでも「夢を見る場所」を守ろうとする人々。
 あくまでも、夢を見る場所を「作る側」の話。

 テーマはコレでしょ?

 べつにデパートでもホテルでも遊園地でもあるいはどこかの歌劇団でも、なんでもいいんだよね。このテーマを表現できるなら。

 でもデパートはやっちゃったし、遊園地もこの間使った。
 だからホテル。

 作品のコンセプトは『デパメン』と同じ「おちぶれた伝統ある商業施設の再建」、そしてプロットは『デパメン』とまったく同じ。シーンや曲、台詞まで似ているのは、わざとなのか無意識なのか。

 正塚氏は今のタカラヅカによほどなにか、言いたいことがあるのかねえ。
 同じテーマの話を同じコンセプトで、ショーと芝居で2度も書くなんて。

 同じテーマを書くのが悪いわけじゃない。
 書いていいさ、もちろん。
 何度だって。
 死ぬまで同じことを書き続けたっていい。

 ただ、それならコンセプトは変えろ。
 とゆーだけのことで(にっこり)。

 
 『ステラマリス』の失敗ひとつは、そこにもあるよなー。
 セルフ・コピーはスベると悲惨。
 前作を超えなくちゃ、書き直す意味がないっちゅーの。

 なまじ、『デパメン』はショーだった。
 ショーを芝居に焼き直したわけだから、いろいろ不都合が出る。
 まんま同じタイトルなら問題ない部分も、「別作品」と謳ったからには手を加えなければならない。
 ので、めんどーが生じる。

 『ステラマリス』は、とても冗長で間延びした話だった。
 わたしはいったいいつ、本編がはじまるんだろう? と首を傾げていたよ。
 いつまでたってもプロローグにしか見えなくて。
 よーやくプロローグのショー部分が終わって、本編がはじまったと思ったのは、ウィリアム@たかこが正体をばらしたあたりだ。
 ちょっと待て、それってはじまってから何十分後だよ。
 ストーリーが動き出した、と思ったのは、ホテル閉鎖が決まってからだ。
 ちょっと待て、それってはじまってから何十分後だよ。てゆーかソレ、ほとんど終わりの方じゃあ?

 原作がショー作品だから、こんなことになってるのか……?

 もちろん正塚氏が、新しい作風を模索している、というのもあるかと思う。
 ストレートプレイでもいいじゃん? みたいなストーリー重視系から、ショーに近いよーなミュージカル系に作風を変えたいのかもしれねーよ。

 にしても、あまりにもコレ、習作っぽいぞ。
 ただの下書きでしょ? 練習でしょ?
 完成品じゃないよね……?

 
 ダンスと歌ですすめるならば、そこに大きなストーリーが必要だった。
 ストーリーがあまり動かない部分ばかりを、ダンスと歌でだらだら続けるもんだから、ただ冗長になる。
 ふつーに芝居でやったら数分で終わるのに、歌って踊るから何倍もかかるんだよね。

 最初の「再建のためのアイディア」だけで、何回同じこと言って踊ってた?
 しかもこのときは、「ただのアイディア」でしかなく、ホテル買収のことも、ウィリアムの立場も伏せられている。だからせっかくの長い長いダンスシーンも、「ストーリー以外の出来事」でしかない。
  
 せっかくミュージカルなんだから、ストーリーが劇的に変化する部分こそを、ダンスや歌で盛り上げるべきなのでは?
 ホテル閉鎖にしろ、主役ふたりの恋愛にしろ、ストーリーが変化する場面は淡々と進み、変化の乏しいところやサブエピソードが長々とミュージカルとして盛り上げられているよね。

 そりゃ、退屈な作品になるわ。

 なんか基本的なところで、組み立てをまちがっている気がする。

 作品全体の構成がね。
 それをひっくるめて言うと、「下書き」とか「習作」ってことなんだけど。とても完成した作品だとは思えないっていう。

 正塚作品は総じていつも「似ている」けど、今回ほど「焼き直し」と思ったことはなかった。
 シーンや表現方法が似ているのは、「作風」としてアリだと思っている。
 植田作品がカーテン前でえんえん芝居することや、主要人物が登場するときに音楽が鳴ったり、「誰だ? 出てこい」とみんなで探したりするのと同じ。
 正塚作品の群衆の使い方や、合唱は「作風」。何度同じ表現をしてもそれはアリだと思う。

 しかし、テーマもコンセプトもプロットも同じ、つーのはなあ。
 曲や台詞まで同じライン、つーのはなあ。
 そのうえ「下書き」にしか見えない低レベルっぷりとはなあ。

 どーしたんだ、正塚晴彦。

 

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