刹那と永遠。@星組千秋楽
2004年12月26日 タカラヅカ 千秋楽。
さてわたしは、ケロとの別れを惜しんでいるんだろうか、それとも『ドルチェ・ヴィータ!』との別れを惜しんでいるんだろか。
ケロと別れがたいだけなら、ケロだけを見ていればいい。オペラグラスで視界を切り取って、ひとりだけを見ていればいい。
だけどわたしは。
前日のコーナン貸切を観たとき、「わりといろんなところを見てるんですね」と晃さんに言われた。
そうかわたし、ケロだけ見てるわけじゃないんだ。
もしケロのことがなくても、わたしはやはりここにいて、こうやって別れを惜しんでいると思う。『ドルチェ・ヴィータ!』と。
コーザノストラKと。
わたしは。
「今」が終わってしまうことが、たまらなくかなしかった。
時は止まらない。
終わりのないものなどない。
わかっている。
たまゆらだからこそ、わたしはこの世界を愛している。
消えない花火は美しくなどないし、終わらない祭りに恍惚などない。
わかっているけど。
それでも、思っていた。
願っていた。
切望していた。
時よ、止まれ。
わたしは「今」が好きだった。
舞台の上の美しい悪夢。
妖艶なドルチェ・ヴィータ、かなしい瞳のディアボロ、毒のかたまりサテュロス、端正なコーザノストラ、そして、太陽の申し子トップスター。
音楽のひとつひとつ、はじける光のひとつひとつをも、愛していた。
見れば見るほど、好きになった。
ケロはもちろん、トウコちゃん、檀ちゃん、ワタさん、しいちゃん……みんなみんな、好きになった。もともと好きだったのに、これ以上なんかないと思うのに、超えることなんかありえないと思うのに、それよりさらに好きになった。
限界だと、ここが「すき」のてっぺんだと思っていたのに、それよりもさらに上があっておどろいた。
まだもっと、好きになれるんだ。
好きって感情には、まだ上があるんだ。可能性があるんだ。
生きている限り、重ねた時間の数だけ「好き」になることがあるんだ。
美しい世界、美しい人々。
水の精に誘われた、青い世界。
いたみとかなしみに満ちた、美しい悪夢。
もう2度と行くことのできない、なつかしい場所。
『ドルチェ・ヴィータ!』を形作るすべてに焦がれていた。愛していた。
そして。
『ドルチェ・ヴィータ!』に惹かれて集まったわたしたち。
「祭り」と表して踊り狂うわたしたち。
ねえ、kineさんに会ったのって、ムラ公演の初日なんだよ? 「ネタ大賞」の名を持つ唯一の天然つっこまれキャラ、真面目に冷静に理屈っぽく、まっすぐにとぼけた味わい深いキャラクタ。
ドリーさんに会ったのって、ディナーショーの日なんだよ? 祭りはまず「外見」から、自分を律するためにも身だしなみを整え、ストイックささえ漂わせて「現実」に対峙する戦うお嬢さん。
サトリちゃんに会ったのって、東宝初日なんだよ? マイペースにひょうひょうとした天然ピュアファン、数々の名言迷言をかっとばしつつ、自分のスタンスを崩すことなく爽快に明快にラビリンスを泳ぐ女の子。
この子たちと出会ったのって、『ドルチェ・ヴィータ!』がはじまってからなんですが。「祭り」がなければ出会うことのなかった人たちなんですが。
くじ運、チケット運のないわたしが、ムラも東宝も「チケット1枚も持ってない」とこの場所でわめいていたことから、はじまったおつきあい。ムラ、ディナーショー、そして東宝のチケット、それぞれ厚意と出会いを運んでくれた。
わたしたちの共通意識は「今の星組を愛している」、それぞれ担当はちがうけれど、「今」、『ドルチェ・ヴィータ!』を愛していた。
「好き」という、ただそれだけのエネルギーで、突っ走っていた。
ケロのことも、他のジェンヌのことも、わたしたちのことも。
なにもかもをひっくるめて「祭り」であり、『ドルチェ・ヴィータ!』だった。
この混沌とした熱。
「今」がいい。
美しいケロ。極められた「男役」という姿。
腕のライン、ひるがえるスーツのジャケット、せつなげな眉間のしわ、なにかを耐えるような背中。
現実社会にはありえない、作り込まれた美しさ。
素材だけではない、努力と鍛錬なしにはありえない、年輪なしにはありえない美しさ。
ここまで作り上げて、極めて、捨ててしまうの?
いずれ美しさは衰え、輝きは消えてしまうものだとしても、何故絶頂たる今、終わらせなければならないの?
絶頂だからこそ摘み取るのだとわかっていても、痛みが尽きない。
青い茎を手折ったときに、指についた染みが消えないように。
芳しさじゃない、忘れられない刺激が突き刺さる。
「今」がいい。
美しいドルチェ・ヴィータ。女という美の具象。
青い世界に、せつない音が響く。
寄せて返す波のような、別れと喪失、ひとである根源、魂の奥底に楔を打ち込まれる陶酔と慟哭。
こんなにせつない舞台は、他にない。
うつくしくて、うつくして、うつくしくて。
こんなに美しくて、たしかにここにあるのに、カタチに残ることはない。
映像では意味がないし、賞を受けたこととも関係ない。
終わり、消えてしまう。
時よ、止まれ。
無理だとわかっていても
願わずにはいられない。
祈らずには、いられない。
今この瞬間が、永遠ならいいのに。
舞台の充実はわたしたちのテンションをあげ、出会いはさらなる出会いを呼ぶ。
晃さん、もずえさん、ハイディさん、駆け込むように出会いがはじまる。
祭りだから。
上がる熱はなにかを変えていく。確実な力として。
愛しさと切なさで、涙が止まらない。
ケロだけの問題だろうか。
もちろんわたしはケロを見ている。大好きだ。千秋楽、特別の時間、空間。
千秋楽の舞台の上を、そこでなにがあったかを表記することはできるだろう。あの空間にいたものなら。
だけどきっと、同じものなんかどこにもないんだろう。
ひとつの舞台を観ながらみんな、ひとりずつ別のものを観ている。
ひとの数だけ目線があって感じ方があって、なにひとつ同じものなんかないんだ。
なんて寂しいんだろう。
同じ人を愛していても、同じものを観ていても、なにひとつ同じものはわかちあえないなんて。
なんてすごいんだろう。
同じ人たちを愛して同じ空間を分け合っていて、なにひとつ同じものを持たないはずなのに、それでも「好き」という気持ちだけがひとつになり、その場の熱と濃度を上げていくのって。
誰の愛も誰の痛みも肩代わりできないし、完全に融合しあうことなんかないけれど、今、ひとつの光がここにある。
時よ止まれ。
渇望する。
でも。
わたしはなにひとつ失わない。
時が過ぎて、幻の王国が消え、あのひとがいなくなっても。
このうつくしい空間は、わたしのなかに生き続けるから。
わたしはわたしを信じる。
わたしはなにも失わない。
なにひとつ無駄じゃない。
『ドルチェ・ヴィータ!』、この熱、この空気。
おぼえているから。魂に刻み込んだから。
出会う前のわたしとは、別の分岐点にいるから。
もう会えないのはつらいけど、かなしいけど、消えてないから。
ずっとずっと、好きでいる。
永遠なんかないけど、わたしは言うよ、「ずっと、愛してる」。
ドルチェ・ヴィータが物陰でささやいたように。
さてわたしは、ケロとの別れを惜しんでいるんだろうか、それとも『ドルチェ・ヴィータ!』との別れを惜しんでいるんだろか。
ケロと別れがたいだけなら、ケロだけを見ていればいい。オペラグラスで視界を切り取って、ひとりだけを見ていればいい。
だけどわたしは。
前日のコーナン貸切を観たとき、「わりといろんなところを見てるんですね」と晃さんに言われた。
そうかわたし、ケロだけ見てるわけじゃないんだ。
もしケロのことがなくても、わたしはやはりここにいて、こうやって別れを惜しんでいると思う。『ドルチェ・ヴィータ!』と。
コーザノストラKと。
わたしは。
「今」が終わってしまうことが、たまらなくかなしかった。
時は止まらない。
終わりのないものなどない。
わかっている。
たまゆらだからこそ、わたしはこの世界を愛している。
消えない花火は美しくなどないし、終わらない祭りに恍惚などない。
わかっているけど。
それでも、思っていた。
願っていた。
切望していた。
時よ、止まれ。
わたしは「今」が好きだった。
舞台の上の美しい悪夢。
妖艶なドルチェ・ヴィータ、かなしい瞳のディアボロ、毒のかたまりサテュロス、端正なコーザノストラ、そして、太陽の申し子トップスター。
音楽のひとつひとつ、はじける光のひとつひとつをも、愛していた。
見れば見るほど、好きになった。
ケロはもちろん、トウコちゃん、檀ちゃん、ワタさん、しいちゃん……みんなみんな、好きになった。もともと好きだったのに、これ以上なんかないと思うのに、超えることなんかありえないと思うのに、それよりさらに好きになった。
限界だと、ここが「すき」のてっぺんだと思っていたのに、それよりもさらに上があっておどろいた。
まだもっと、好きになれるんだ。
好きって感情には、まだ上があるんだ。可能性があるんだ。
生きている限り、重ねた時間の数だけ「好き」になることがあるんだ。
美しい世界、美しい人々。
水の精に誘われた、青い世界。
いたみとかなしみに満ちた、美しい悪夢。
もう2度と行くことのできない、なつかしい場所。
『ドルチェ・ヴィータ!』を形作るすべてに焦がれていた。愛していた。
そして。
『ドルチェ・ヴィータ!』に惹かれて集まったわたしたち。
「祭り」と表して踊り狂うわたしたち。
ねえ、kineさんに会ったのって、ムラ公演の初日なんだよ? 「ネタ大賞」の名を持つ唯一の天然つっこまれキャラ、真面目に冷静に理屈っぽく、まっすぐにとぼけた味わい深いキャラクタ。
ドリーさんに会ったのって、ディナーショーの日なんだよ? 祭りはまず「外見」から、自分を律するためにも身だしなみを整え、ストイックささえ漂わせて「現実」に対峙する戦うお嬢さん。
サトリちゃんに会ったのって、東宝初日なんだよ? マイペースにひょうひょうとした天然ピュアファン、数々の名言迷言をかっとばしつつ、自分のスタンスを崩すことなく爽快に明快にラビリンスを泳ぐ女の子。
この子たちと出会ったのって、『ドルチェ・ヴィータ!』がはじまってからなんですが。「祭り」がなければ出会うことのなかった人たちなんですが。
くじ運、チケット運のないわたしが、ムラも東宝も「チケット1枚も持ってない」とこの場所でわめいていたことから、はじまったおつきあい。ムラ、ディナーショー、そして東宝のチケット、それぞれ厚意と出会いを運んでくれた。
わたしたちの共通意識は「今の星組を愛している」、それぞれ担当はちがうけれど、「今」、『ドルチェ・ヴィータ!』を愛していた。
「好き」という、ただそれだけのエネルギーで、突っ走っていた。
ケロのことも、他のジェンヌのことも、わたしたちのことも。
なにもかもをひっくるめて「祭り」であり、『ドルチェ・ヴィータ!』だった。
この混沌とした熱。
「今」がいい。
美しいケロ。極められた「男役」という姿。
腕のライン、ひるがえるスーツのジャケット、せつなげな眉間のしわ、なにかを耐えるような背中。
現実社会にはありえない、作り込まれた美しさ。
素材だけではない、努力と鍛錬なしにはありえない、年輪なしにはありえない美しさ。
ここまで作り上げて、極めて、捨ててしまうの?
いずれ美しさは衰え、輝きは消えてしまうものだとしても、何故絶頂たる今、終わらせなければならないの?
絶頂だからこそ摘み取るのだとわかっていても、痛みが尽きない。
青い茎を手折ったときに、指についた染みが消えないように。
芳しさじゃない、忘れられない刺激が突き刺さる。
「今」がいい。
美しいドルチェ・ヴィータ。女という美の具象。
青い世界に、せつない音が響く。
寄せて返す波のような、別れと喪失、ひとである根源、魂の奥底に楔を打ち込まれる陶酔と慟哭。
こんなにせつない舞台は、他にない。
うつくしくて、うつくして、うつくしくて。
こんなに美しくて、たしかにここにあるのに、カタチに残ることはない。
映像では意味がないし、賞を受けたこととも関係ない。
終わり、消えてしまう。
時よ、止まれ。
無理だとわかっていても
願わずにはいられない。
祈らずには、いられない。
今この瞬間が、永遠ならいいのに。
舞台の充実はわたしたちのテンションをあげ、出会いはさらなる出会いを呼ぶ。
晃さん、もずえさん、ハイディさん、駆け込むように出会いがはじまる。
祭りだから。
上がる熱はなにかを変えていく。確実な力として。
愛しさと切なさで、涙が止まらない。
ケロだけの問題だろうか。
もちろんわたしはケロを見ている。大好きだ。千秋楽、特別の時間、空間。
千秋楽の舞台の上を、そこでなにがあったかを表記することはできるだろう。あの空間にいたものなら。
だけどきっと、同じものなんかどこにもないんだろう。
ひとつの舞台を観ながらみんな、ひとりずつ別のものを観ている。
ひとの数だけ目線があって感じ方があって、なにひとつ同じものなんかないんだ。
なんて寂しいんだろう。
同じ人を愛していても、同じものを観ていても、なにひとつ同じものはわかちあえないなんて。
なんてすごいんだろう。
同じ人たちを愛して同じ空間を分け合っていて、なにひとつ同じものを持たないはずなのに、それでも「好き」という気持ちだけがひとつになり、その場の熱と濃度を上げていくのって。
誰の愛も誰の痛みも肩代わりできないし、完全に融合しあうことなんかないけれど、今、ひとつの光がここにある。
時よ止まれ。
渇望する。
でも。
わたしはなにひとつ失わない。
時が過ぎて、幻の王国が消え、あのひとがいなくなっても。
このうつくしい空間は、わたしのなかに生き続けるから。
わたしはわたしを信じる。
わたしはなにも失わない。
なにひとつ無駄じゃない。
『ドルチェ・ヴィータ!』、この熱、この空気。
おぼえているから。魂に刻み込んだから。
出会う前のわたしとは、別の分岐点にいるから。
もう会えないのはつらいけど、かなしいけど、消えてないから。
ずっとずっと、好きでいる。
永遠なんかないけど、わたしは言うよ、「ずっと、愛してる」。
ドルチェ・ヴィータが物陰でささやいたように。
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