たとえば近藤勇と土方歳三。
 先に死ぬのが近藤の方だってのは、はずせないポイントなのよ。

 近藤と土方だったら、土方の方がより相手を愛しているでしょ?

 土方は近藤ナシでの人生なんか考えちゃいないけど、近藤は土方がいなくてもきっとちゃんと自分の人生をまっとうする。

 太陽は地上のすべてをあまねく照らすけれど、月は太陽がないと輝けない。

 太陽を失った月は、ただの石ころになる。

 
 より相手を必要とし、愛している方が生き残る。
 愛する者を見送る。

 弱い人なら、共倒れになっちゃうけど、なまじ強いもんで、どんなにずたぼろになっていても、立ち続ける。

 ひとりぼっちになって。
 傷だけを抱きしめて。

 それでも、前へ進む。

 
 大河ドラマ『新選組!』の視聴率の低さには、ウケました。
 歴代最下位だって?
 そりゃそーだよ。
 あんなにおもしろい作品が、視聴率いいわけないじゃん!!(笑)
 世の中ってのは、そーゆーもんさ。

 『新選組!』の視聴率は、じつに爽快でした。

 
 で。
 なんの話かというと、べつに『新選組!』のことじゃなくて。

 星組ムラ楽の話

 今ごろかよ! 何故今になってムラ楽?! てなもんだが。
 今でなければ書けないこともあるのだ(笑)。

 
 ムラ楽は、幸福な異空間でした。

 ひとのこころっちゅーのは、波になって空気を動かすことができるもんなんだ。
 それを実感した。

 
 芝居の間はそれほどでもなかったんだが。
 ショーになってからはもう。

 濃度がちがってるのね。
 空気の。

 もしあの空間を満たしていた「ひとのこころ」をエネルギーに変換できるなら、日本中の一晩の明かりくらい灯せちゃったかもね。

 暗い夜に、光が灯るの。
 クリスマスツリーみたいに。
 ひとのこころで。

 
 演じている人たちもそうだし、観客のテンションもまた、ふつうじゃなかった。
 熱い熱い空間だった。

 心が入りすぎているからといって、すばらしい舞台になるとは限らない。
 なにしろ「作品よりも人」のタカラヅカですから。
 千秋楽のよーなお祭り時には、役や流れを無視して、「タカラジェンヌ本人」としてのアドリブやスタンドプレイがOKになっている。
 リピーターにしかわからないお遊びがあったりとかな。
 作品としての質が下がっても、役者も観客も、その「一体感」をのぞんでいる。

 だから本来なら、『ドルチェ・ヴィータ!』もほんとうの意味では質が下がっているはずだった。
 最後だとかお別れだとかいう、「情」の部分に流されて、「義」の部分は無視されていたはずなんだ。

 しかし。

 断言させてくれ。

 『ドルチェ・ヴィータ!』は、ムラ楽で最高峰を迎えた。

 個人的見解で悪いが。断言。

 
 何故か。

 ディアボロ@トウコが、役としての頂点を極めたからだ。

 
 『ドルチェ・ヴィータ!』の主役は、ディアボロである。

 もちろん、見方・感じ方は人の数だけあるから、そうでない場合もある。
 でも一般的に観て、主役はディアボロだろう。

 
 時の流れの外側で、たったひとりで「世界」を見つめている悪魔。
 手に入らないものを、憧憬と嫉妬と愛と憎しみを持って眺めている。

 彼は誰にも見えない。
 彼は、ひとりだ。
 彼は、孤独だ。
 彼の手は誰にも届かない。
 彼の想いは、誰にも届かない。

 彼は時の外側、世界の外側にいる。
 彼は変わらない。
 ただ、人間たちだけが変わり続ける。

 彼は、置き去りされる。永遠に。

 彼が見つめるのは、人間たちの物語。別れと喪失のメビウス。
 だが、それを見つめる彼こそが、別れと喪失を繰り返し続けている。

 だって彼はチガウから。
 わたしたちと、わたしたちの世界で生きることはできないから。

 彼がどれほど獲物をもてあそんでも、最後に置き去りになるのは、彼自身。

 
 とゆー、ディアボロというキャラが。

 役の枠を超えて、トウコ自身の別れと喪失にシンクロした。

 
 壮絶だった。
 ムラ楽のディアボロ、ものすごかったよ。
 つきぬけている、というか、なにか憑いていた。

 サテリコンのラスト。

 狂気。

 それがいちばん、近かった。

 明るい船上のシーンを経て、青の洞窟、愛を歌うセイレーン、魂が悲鳴をあげているような歌声。
 歌が途切れたあとの、からっぽの顔。

 フィナーレまでいくと、ディアボロよりはトウコの色が多く出てしまっているんだけど。

 青の洞窟までは、秀逸だった。

 最高峰だと思う。
 作品『ドルチェ・ヴィータ!』と、ディアボロ。

 
 ケロは、この子を残していくんだ。
 こんなにこんなにぼろぼろになっている、この子を残して、自分だけいってしまうんだ。

 いつだって、つらいのは残される方だよ。

 お葬式だって、生きている人間のためにやるんだからね。
 大仰な儀式やしきたりは、死んだ人のためじゃなくて、見送る人の心のためにやるんだから。
 こころの、ために。

 近藤勇が先に死に、土方歳三が生き残り、ひとりで戦い続けたように。

 ケロを見送るトウコが、壮絶だったよ。
 ケロとトウコなら、愛情の大きさはケロ>トウコで、いつだってケロの愛情過多(笑)だと思っていたけどな。
 でもトウコは、「残される者の痛み」をストレートに表現する人だ。そーゆー人だからこそ、ケロもあれほどまでに愛していたんだろうさ。

 
 ディアボロが、実体を持って立った。
 それまでは、向こうの世界にいたのに。二次元というか、あくまでも舞台の上。架空の世界。

 だけどあのとき、ディアボロは、わたしたちと同じ地球にいた。

 彼の悲しみと狂気が、世界を貫いた。
 彼の悲鳴が、わたしたちを貫いた。

 
 この瞬間のために、オギーはこの作品を書いたのかもしれない。
 ディアボロという役を書いたのかもしれない。

 
 ディアボロが泣くから。
 哄笑しながら、魂がきしんでいるから。

 わたしたちは、「残される者」として、あの幸福な渦の中にいることができた。

 『ドルチェ・ヴィータ!』、主人公はディアボロ。
 さみしがりやの、小柄な悪魔。

 そう、まさしく主人公。
 だって彼は、わたしたちだから。

 こんなに愛して、手をさしのべて、でも触れないまま関与できないまま、ただ舞台の外から眺めていることしかできなくて、本人の意志と人生を見守ることしかできなくて、ただ愛して。愛して。

 失うことがはじめからわかっているのに、すべては幻であり、一夜の夢であることがわかっているのに、それでも愛して。

 別れと喪失に号泣している、わたしたち。

 シンクロニシティー、ありえない一体感。
 すべてのことがらが力を持ち意志を持ち、目覚める。
 ひとつになるベクトル、うねりをあげる視線の先。

 枠を超えた刹那。
 たまゆらの永遠。

 
 だから。

 断言させてくれ。

 『ドルチェ・ヴィータ!』は、ムラ楽で最高峰を迎えた。

       

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