台詞の無駄は、人生の無駄。@花舞う長安
2004年12月8日 タカラヅカ いつか書こう、と思いつつ、めんどくせーので先送りしてきた話題。
あの有名駄作『花舞う長安』にも、いいところはちゃんとある。
主役カップルがラヴラヴなことや、衣装が美しく豪華であり、安禄山以外はみんな似合っていること(好きだけどな、あの似合ってなさが・笑)や、舞台上に目にたのしい美しさを全編保っていることなど。
つまり、脚本以外の部分だけにしか取り柄がない、物語以前の作品であることには変わりないんだがな。
物語としてはまず成立すらしていないので、なにも語る気にはなれないが、アタマを空っぽにして「これは物語ではない。これは物語ではない。これは物語ではない」と自分に言い聞かせて眺める分には、美しくていいのかもしれない。
観葉植物とか、水槽の熱帯魚を眺めるハートで。
そう思ってわたしはなまあたたかく眺めてきたんだが、どーしても耳障りな台詞がある。
言い回しがどうとか、正誤だとか、時代考証だとか、そんな小難しい話ではない。
台詞の重複が耳障りなんだ。
なんでそう、同じことを繰り返し言うの?
それも、ふつーの台詞じゃなくて、説明台詞を。
説明台詞ってのは通常、「あまりやってはいけないこと」だよねえ?
他の部分で表現すべきことを、時間がないとか技術がないだとか、もろもろの理由で「台詞で説明する」なんてこと。
台詞ってのは人間の会話のはずで、ふつーに生きていたらそんな不自然なことは言わないが、芝居の進行上仕方なく、だらだら説明させる。技法としてアリだけど、あまり格好のいいものじゃない。下手な作家ほど説明台詞を多用する。
1回言わせるだけでもかっこわるいっちゅーのに。
それを何回も繰り返すのは、なんの意味があるの?
2度繰り返さないと、観客が理解できないと思っている?
しかし、それほど難解な事柄を説明しているわけではないので、よーするに作者がバカなんじゃないの? と、わたしは思っちゃうんだよなあ。
寿王「玉環は、私の妃となる女です」
玄宗「わかっている。お前には追ってもっと素晴らしい他の妃を迎えるようにしてやろう。高力士、お前に任せる」
高力士「と申されても、玉環様は寿王様の妃におなりになられるお方でございます」
このノリで、台詞は重複しまくり。
この場合、高力士の「玉環様は寿王様の妃におなりになられるお方でございます」は、いらない。その直前に寿王が説明しているんだから、ここで繰り返す意味はない。むしろまちがっている。
「と、申されても……」で、止めておけよ。一から十まで説明するから、作品がよりバカっぽく見えるんだ。
玄宗「安禄山が言うには、その方が世にもまれなる宝を手に入れたというので(略)」−−1
玄宗「玉環のことを知らせたのは、安禄山とお前(高力士)ではないか」−−2
玄宗「お前(高力士)が、武恵妃に瓜二つの娘がいるゆえ、ごらんになりませんかと言った(略)」−−3&C
玉環のことを聞いた、ってだけのことを、なんで立て続けに3回も言わなきゃならないの?
1回で十分だ。
しかも、
玄宗「本当によく似ている、瞳が武恵妃に生き写しだ」−−A
高力士「陛下、いくら武恵妃様によく似ているとはいえ、玉環様をお連れになるとは……」−−B
の台詞のあとに、前述の−−3&Cの台詞を言っているので、ここでも重複。なんで3回立て続けに「武恵妃に似ている」ってふたりで言うの?
言語感覚が鈍い、としか思えない。
無駄なんだもの。説明台詞の重複なんつーもんは。
基本技術として、台詞重複は耳障りでしかないというのに、その「失敗例」がほとんど高力士@星原さんに集中しているっていう事実がまた、いやな感じがするんだよな。
たったひとりに集中するのって、変じゃないか? 主役ならまだしも、ただの脇役だよ? 狂言回しでもナレーターでもないんだよ?
そんな偶然はあり得ない。
作為があるから、こんな結果になったとしか思えない。
例を出そう。
玄宗「しばらくは高力士の言葉に従うといい」
高力士「このままでは陛下といえども、問題もございます」
玄宗「だから、お前に任せると言っているではないか」
高力士「玉環様を芳楽公主様のもとにお預けしましょう」
これは台詞自体は重複していないが、やりとりとしてはまったく無駄だ。
玄宗は高力士を信頼し、はじめから彼に「任せる」と言ってる。なのにわざわざ高力士が異を唱え、玄宗に同じ意味の言葉を繰り返させ、結局は「高力士にお任せください」という結論に至る。
だーかーらー、はじめから任せる、了解、で済むことを、なんでこんなにまわりくどく意味の重複をさせなきゃならないのよ?
この無駄なやりとりで得をするのは、高力士だ。
まっすぐなロープに結び目を作ってそこで流れを止める。物語としては無様になるが、高力士というキャラクタに「見せ場」ができる。
とりあえず、高力士が有能である、ということを印象づけるエピソードになる、だろう(わたし的には疑問だが、いちおーな)。
だが、なんのために?
高力士は主役ではない。わざわざ物語の流れを堰き止めてまで、見せ場を作る必要はない。
内容を重複させなくても、高力士が有能であることは表現できている。なのに何故、ことさらにまだるっこしいことをする?
玄宗「しばらくは高力士の言葉に従うといい。高力士、任せたぞ」
高力士「わかりました、玉環様を芳楽公主様のもとにお預けしましょう」
玄宗「なに、姉のところに? (略)さすがは高力士だ」
と、ちゃんと話はつながるのに。
わざわざ重複させる真意は?
高力士「お妃様は、いかなることにも、見えない振り、聞かない振り、ましてやご政情に関することは一切お話になってはなりませぬ」
楊貴妃「それは何故?」
高力士「宮廷では、見猿、聞か猿、話さ猿」
楊貴妃「……わかりました」
それは何故、ってなんでいちいち聞き直させる?
聞き直させて、どんなすごいことを教えてくれるのかと思いきや、「同じことの繰り返し」。意味ないじゃん。
ここも、先述の例と同じ。
台詞を重複させ、流れを堰き止め、やっていることは、高力士の見せ場作り。
高力士「お妃様は、いかなることにも、見えない振り、聞かない振り、ましてやご政情に関することは一切お話になってはなりませぬ」
楊貴妃「……わかりました」
で、いいじゃん。わざわざ重複させなくても、十分高力士が有能だということはわかるって。
むしろ、重複させることでよりバカっぽくなってるんですけど。
無駄な、意味のない重複。
それがみな、高力士のスタンドプレイ・シーン。
このことが、さらに作品の質を下げている。
なんかコレって……すごーくヤな感じなんですけど……。
続く
あの有名駄作『花舞う長安』にも、いいところはちゃんとある。
主役カップルがラヴラヴなことや、衣装が美しく豪華であり、安禄山以外はみんな似合っていること(好きだけどな、あの似合ってなさが・笑)や、舞台上に目にたのしい美しさを全編保っていることなど。
つまり、脚本以外の部分だけにしか取り柄がない、物語以前の作品であることには変わりないんだがな。
物語としてはまず成立すらしていないので、なにも語る気にはなれないが、アタマを空っぽにして「これは物語ではない。これは物語ではない。これは物語ではない」と自分に言い聞かせて眺める分には、美しくていいのかもしれない。
観葉植物とか、水槽の熱帯魚を眺めるハートで。
そう思ってわたしはなまあたたかく眺めてきたんだが、どーしても耳障りな台詞がある。
言い回しがどうとか、正誤だとか、時代考証だとか、そんな小難しい話ではない。
台詞の重複が耳障りなんだ。
なんでそう、同じことを繰り返し言うの?
それも、ふつーの台詞じゃなくて、説明台詞を。
説明台詞ってのは通常、「あまりやってはいけないこと」だよねえ?
他の部分で表現すべきことを、時間がないとか技術がないだとか、もろもろの理由で「台詞で説明する」なんてこと。
台詞ってのは人間の会話のはずで、ふつーに生きていたらそんな不自然なことは言わないが、芝居の進行上仕方なく、だらだら説明させる。技法としてアリだけど、あまり格好のいいものじゃない。下手な作家ほど説明台詞を多用する。
1回言わせるだけでもかっこわるいっちゅーのに。
それを何回も繰り返すのは、なんの意味があるの?
2度繰り返さないと、観客が理解できないと思っている?
しかし、それほど難解な事柄を説明しているわけではないので、よーするに作者がバカなんじゃないの? と、わたしは思っちゃうんだよなあ。
寿王「玉環は、私の妃となる女です」
玄宗「わかっている。お前には追ってもっと素晴らしい他の妃を迎えるようにしてやろう。高力士、お前に任せる」
高力士「と申されても、玉環様は寿王様の妃におなりになられるお方でございます」
このノリで、台詞は重複しまくり。
この場合、高力士の「玉環様は寿王様の妃におなりになられるお方でございます」は、いらない。その直前に寿王が説明しているんだから、ここで繰り返す意味はない。むしろまちがっている。
「と、申されても……」で、止めておけよ。一から十まで説明するから、作品がよりバカっぽく見えるんだ。
玄宗「安禄山が言うには、その方が世にもまれなる宝を手に入れたというので(略)」−−1
玄宗「玉環のことを知らせたのは、安禄山とお前(高力士)ではないか」−−2
玄宗「お前(高力士)が、武恵妃に瓜二つの娘がいるゆえ、ごらんになりませんかと言った(略)」−−3&C
玉環のことを聞いた、ってだけのことを、なんで立て続けに3回も言わなきゃならないの?
1回で十分だ。
しかも、
玄宗「本当によく似ている、瞳が武恵妃に生き写しだ」−−A
高力士「陛下、いくら武恵妃様によく似ているとはいえ、玉環様をお連れになるとは……」−−B
の台詞のあとに、前述の−−3&Cの台詞を言っているので、ここでも重複。なんで3回立て続けに「武恵妃に似ている」ってふたりで言うの?
言語感覚が鈍い、としか思えない。
無駄なんだもの。説明台詞の重複なんつーもんは。
基本技術として、台詞重複は耳障りでしかないというのに、その「失敗例」がほとんど高力士@星原さんに集中しているっていう事実がまた、いやな感じがするんだよな。
たったひとりに集中するのって、変じゃないか? 主役ならまだしも、ただの脇役だよ? 狂言回しでもナレーターでもないんだよ?
そんな偶然はあり得ない。
作為があるから、こんな結果になったとしか思えない。
例を出そう。
玄宗「しばらくは高力士の言葉に従うといい」
高力士「このままでは陛下といえども、問題もございます」
玄宗「だから、お前に任せると言っているではないか」
高力士「玉環様を芳楽公主様のもとにお預けしましょう」
これは台詞自体は重複していないが、やりとりとしてはまったく無駄だ。
玄宗は高力士を信頼し、はじめから彼に「任せる」と言ってる。なのにわざわざ高力士が異を唱え、玄宗に同じ意味の言葉を繰り返させ、結局は「高力士にお任せください」という結論に至る。
だーかーらー、はじめから任せる、了解、で済むことを、なんでこんなにまわりくどく意味の重複をさせなきゃならないのよ?
この無駄なやりとりで得をするのは、高力士だ。
まっすぐなロープに結び目を作ってそこで流れを止める。物語としては無様になるが、高力士というキャラクタに「見せ場」ができる。
とりあえず、高力士が有能である、ということを印象づけるエピソードになる、だろう(わたし的には疑問だが、いちおーな)。
だが、なんのために?
高力士は主役ではない。わざわざ物語の流れを堰き止めてまで、見せ場を作る必要はない。
内容を重複させなくても、高力士が有能であることは表現できている。なのに何故、ことさらにまだるっこしいことをする?
玄宗「しばらくは高力士の言葉に従うといい。高力士、任せたぞ」
高力士「わかりました、玉環様を芳楽公主様のもとにお預けしましょう」
玄宗「なに、姉のところに? (略)さすがは高力士だ」
と、ちゃんと話はつながるのに。
わざわざ重複させる真意は?
高力士「お妃様は、いかなることにも、見えない振り、聞かない振り、ましてやご政情に関することは一切お話になってはなりませぬ」
楊貴妃「それは何故?」
高力士「宮廷では、見猿、聞か猿、話さ猿」
楊貴妃「……わかりました」
それは何故、ってなんでいちいち聞き直させる?
聞き直させて、どんなすごいことを教えてくれるのかと思いきや、「同じことの繰り返し」。意味ないじゃん。
ここも、先述の例と同じ。
台詞を重複させ、流れを堰き止め、やっていることは、高力士の見せ場作り。
高力士「お妃様は、いかなることにも、見えない振り、聞かない振り、ましてやご政情に関することは一切お話になってはなりませぬ」
楊貴妃「……わかりました」
で、いいじゃん。わざわざ重複させなくても、十分高力士が有能だということはわかるって。
むしろ、重複させることでよりバカっぽくなってるんですけど。
無駄な、意味のない重複。
それがみな、高力士のスタンドプレイ・シーン。
このことが、さらに作品の質を下げている。
なんかコレって……すごーくヤな感じなんですけど……。
続く
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