虹を見た人。@1万人の第九
2004年12月5日 その他 毎年恒例、こーなりゃすでに年中行事だ、の、『1万人の第九』の日でした。
毎年爆睡こいてるあらっちは準備万端、席が決まるなり足元に紙を敷き、そこに持参したスリッパを出した。
「だって、疲れない? 靴履いたままだと」
今年も熟睡するつもり満々だ。
「クラシック音楽はやっぱり、癒しの音楽よね。よく眠れるわ」
「オーケストラの生演奏を子守歌にするなんて、とびきりの贅沢よねえ」
「これで座席がリクライニングだと言うことないんだけど」
どこまで本気かわからない会話をしつつ、今年も素敵にコンサート。
わたしはたしか今年で6回目の参加だけど、なにしろケロちゃんがらみでレッスンに最後の2回続けて参加できなかった。
例年よりさらに練習不足が祟っている感じ。
なのになんでだろ。
すごーく、声の調子がよかった。
あれー? なんか気持ちいいぞー。
機嫌良く歌えちゃうぞ。
や、もちろんわたしは、中学のとき音楽教師に「音痴」だとレッテルを貼られた音楽的才能欠如人間っす、本人が気持ちよくても下手っぴなのは変えようのない事実だが。
音痴は音痴なりに、「なんか気持ちよくない」と「おおっ、今日は調子がいいぞ」ってのがあるんだわ。
不思議なことに今日は、声も気持ちもノリノリだった。
リハではとても自然に笑っていた。
「歓喜の歌」を歌いながら、微笑んでいる。
たのしい。
なんかしんないけど、たのしい。
でもって本番では。
なんでだー。
泣けてきたー。
ラストのハイスピード、ざいとぅむしゅるんげん、が、泣けて歌えないー。なんでだー。
踊り出しそうな声を引き締めて、クライマックス、ふろいでしぇーねるげってるふんけん。
ぜえぜえ。なんかすっげえ消耗してる。
なにがどうじゃないんだけど。
年を経るごとに、合唱席の温度が上がっているのがわかるんだな。
舞台の上から、えらい先生が指示をする、合唱席のわたしたちは黙ってソレに従う。
が、去年あたりから、双方向性になっている。
合唱席から、声が挙がる。舞台にいるせんせーへ、「**は**だから、**してください」と、要望が出る。
場所は城ホールだ。タカラヅカファンなら知っているだろう、大運動会のあったあの広大な空間。あのスタンド席から、アリーナ中央へ向かって、個人が意見を叫ぶんだぜ。
声を聞いたせんせーや、スタッフがそれに応えてすぐさま動くんだ。
「テノールからは**が**で見えません、なんとかしてください」
という声が挙がり、先生たちが困惑していると、
「アルトからはそんなことありません、大丈夫です」
と声が挙がる。
「それよりも**が**でこまります」
と、ソプラノから声が挙がる。
なにがどうじゃないんだけど。
受動態じゃない。みんなが、「参加している」。
コンサートの間、演奏が途切れるたびに、会場内から咳が聞こえるんだよね。
途切れる、つーのは、まさに曲と曲の間、だ。
みんな、演奏中は必死で咳を我慢してるんだ。こんな季節だもん、風邪の人は多かろう。でもオーケストラの演奏中は静まりかえってるの。
そして、曲が終わると途端に咳。ごほんごほん。
なにがどうじゃないんだけど。
咳を飲み込んで、つらいだろーにそれでも音楽に聴き入ってるんだよなあ、とか思うとな。
第4楽章がはじまるなり、合唱席に走る緊張。近づいてくる足音に耳を澄ますような。
打ち鳴らされるティンパニ、照らされるライト、ざっ、と音がする一斉に立ち上がる瞬間。
わたしの席は指揮台のほぼ真正面、限りなくてっぺんに近い通路際。
なにもかも「見える」気がする。
なにがどうじゃないんだけど。
美しいと思うの。この、「すべてのひとが、ひとつになった」光景。
最初に声を出すのは男性陣。
わたしたちの席の真下。
黒スーツに蝶ネクタイのおじさん・おじいさんたちが、一途に指揮者を見つめて最初のフレーズを歌う。
「ふろいで!」
歓喜の歌。
なにがどうじゃないんだけど。
その背中が、声と共に大きく震えることなんかが。
音を、音楽を聴いているわたしと、次の歌詞を確認しているわたし、歌っているわたし、会場内を見回しているわたし、なんか他のことを考えているわたし、が、すべて同時に存在している。
なんか、前のめりに倒れそうだな。
高所恐怖症の人は、つらいんじゃないか、こんな高い位置に立つの。あ、わたしが通路にはみ出て歌ってるせい? だって座席は狭いしな。てか、わたしの身長のせいか? 他の人たちはみんな高い位置まで前の列の背もたれがきているけど、わたしにはなんか、ものすげー低く感じるし。
コケたら最後、一番下まで転げ落ちそうだな。てゆーか、倒れるなよわたし。
なにがどうじゃないんだけど。
自分の背が、いつもより高いような、世界が低いところに広がっているような気がして。
こんなに、視界はクリアーだったかな?
こんなに、なにもかも見えたかな?
指揮者、オーケストラ、ソプラノ、アルト、テノール、バス、ソリスト、観客席、招待席。
会場内が、まるっと全部、見えている。
音が聞こえる。各パートの歌声。
どきどきしてる。
前のめりに転がりそうだぞ。
すげーどきどきしてる。
そして、泣けてきた。
やべえ。
気を引き締めて、最後まで。
音が切れた瞬間の断絶感、そして、拍手までの空白。
拍手。
拍手か。
360度の拍手。
合唱席も観客席も、全員だ。
抱きあう指揮者と演奏者たち。
あー、佐渡せんせ、ふるふるしてるー。ソプラノパートで一緒に歌ったユンソナは、泣いている。
わたしたちは、拍手拍手、ただ拍手。
みんな、声出すんだよなあ。佐渡せんせが退場するときに合唱席の近くに来ると、「おおーっ」て声が挙がるの。
拍手だけじゃなくてさ。
双方向なんだよな。与えて、与えられて、返して、返されて。
なにがどうじゃないんだけど。
なんつーかすげえ、ありがたい空間と、ありがたい時間を得たんじゃないかと、思うんだ。
ティンパニ奏者の人は、3年連続参加のウィーン交響楽団とやらの人。彼は去年のこの『1万人の第九』が終わったときに、佐渡せんせに言ったらしい。
「子どものころ、はじめて虹を見たときのようだ」
と。
わたしはティンパニのこともなにも知らないんだが、音あわせのときって、ティンパニに耳をつけるよーにして調律するものなのかな?
見るたびに、彼は大きなティンパニに、耳をつけるように覆い被さっていた。
「ねえほら見て、ティンパニの人。あんなふうにして、音を合わせるもんなの?」
わたしが聞くと、隣の席のきんどーさんは、
「ああ、あの虹を見た人?」
と、返し、「ほんとだー、あんなふうにして調律するのかなあ」と、同じように無邪気に言った。
虹を見た人。
なんかすごく、ロマンなふたつ名だな(笑)。だってわたしたち、何度紹介されても外国のえらい奏者だという彼らの名前、おぼえられないし。
名前がわからないなら、わたしたちだけで通じる別の名前が必要。
毎年自分の出番までは爆睡しているあらっち。スリッパまで持参のあらっち。
「なんでだろう。今年はずっと起きていたわ」
君も、虹を見たのかな。
<…
毎年爆睡こいてるあらっちは準備万端、席が決まるなり足元に紙を敷き、そこに持参したスリッパを出した。
「だって、疲れない? 靴履いたままだと」
今年も熟睡するつもり満々だ。
「クラシック音楽はやっぱり、癒しの音楽よね。よく眠れるわ」
「オーケストラの生演奏を子守歌にするなんて、とびきりの贅沢よねえ」
「これで座席がリクライニングだと言うことないんだけど」
どこまで本気かわからない会話をしつつ、今年も素敵にコンサート。
わたしはたしか今年で6回目の参加だけど、なにしろケロちゃんがらみでレッスンに最後の2回続けて参加できなかった。
例年よりさらに練習不足が祟っている感じ。
なのになんでだろ。
すごーく、声の調子がよかった。
あれー? なんか気持ちいいぞー。
機嫌良く歌えちゃうぞ。
や、もちろんわたしは、中学のとき音楽教師に「音痴」だとレッテルを貼られた音楽的才能欠如人間っす、本人が気持ちよくても下手っぴなのは変えようのない事実だが。
音痴は音痴なりに、「なんか気持ちよくない」と「おおっ、今日は調子がいいぞ」ってのがあるんだわ。
不思議なことに今日は、声も気持ちもノリノリだった。
リハではとても自然に笑っていた。
「歓喜の歌」を歌いながら、微笑んでいる。
たのしい。
なんかしんないけど、たのしい。
でもって本番では。
なんでだー。
泣けてきたー。
ラストのハイスピード、ざいとぅむしゅるんげん、が、泣けて歌えないー。なんでだー。
踊り出しそうな声を引き締めて、クライマックス、ふろいでしぇーねるげってるふんけん。
ぜえぜえ。なんかすっげえ消耗してる。
なにがどうじゃないんだけど。
年を経るごとに、合唱席の温度が上がっているのがわかるんだな。
舞台の上から、えらい先生が指示をする、合唱席のわたしたちは黙ってソレに従う。
が、去年あたりから、双方向性になっている。
合唱席から、声が挙がる。舞台にいるせんせーへ、「**は**だから、**してください」と、要望が出る。
場所は城ホールだ。タカラヅカファンなら知っているだろう、大運動会のあったあの広大な空間。あのスタンド席から、アリーナ中央へ向かって、個人が意見を叫ぶんだぜ。
声を聞いたせんせーや、スタッフがそれに応えてすぐさま動くんだ。
「テノールからは**が**で見えません、なんとかしてください」
という声が挙がり、先生たちが困惑していると、
「アルトからはそんなことありません、大丈夫です」
と声が挙がる。
「それよりも**が**でこまります」
と、ソプラノから声が挙がる。
なにがどうじゃないんだけど。
受動態じゃない。みんなが、「参加している」。
コンサートの間、演奏が途切れるたびに、会場内から咳が聞こえるんだよね。
途切れる、つーのは、まさに曲と曲の間、だ。
みんな、演奏中は必死で咳を我慢してるんだ。こんな季節だもん、風邪の人は多かろう。でもオーケストラの演奏中は静まりかえってるの。
そして、曲が終わると途端に咳。ごほんごほん。
なにがどうじゃないんだけど。
咳を飲み込んで、つらいだろーにそれでも音楽に聴き入ってるんだよなあ、とか思うとな。
第4楽章がはじまるなり、合唱席に走る緊張。近づいてくる足音に耳を澄ますような。
打ち鳴らされるティンパニ、照らされるライト、ざっ、と音がする一斉に立ち上がる瞬間。
わたしの席は指揮台のほぼ真正面、限りなくてっぺんに近い通路際。
なにもかも「見える」気がする。
なにがどうじゃないんだけど。
美しいと思うの。この、「すべてのひとが、ひとつになった」光景。
最初に声を出すのは男性陣。
わたしたちの席の真下。
黒スーツに蝶ネクタイのおじさん・おじいさんたちが、一途に指揮者を見つめて最初のフレーズを歌う。
「ふろいで!」
歓喜の歌。
なにがどうじゃないんだけど。
その背中が、声と共に大きく震えることなんかが。
音を、音楽を聴いているわたしと、次の歌詞を確認しているわたし、歌っているわたし、会場内を見回しているわたし、なんか他のことを考えているわたし、が、すべて同時に存在している。
なんか、前のめりに倒れそうだな。
高所恐怖症の人は、つらいんじゃないか、こんな高い位置に立つの。あ、わたしが通路にはみ出て歌ってるせい? だって座席は狭いしな。てか、わたしの身長のせいか? 他の人たちはみんな高い位置まで前の列の背もたれがきているけど、わたしにはなんか、ものすげー低く感じるし。
コケたら最後、一番下まで転げ落ちそうだな。てゆーか、倒れるなよわたし。
なにがどうじゃないんだけど。
自分の背が、いつもより高いような、世界が低いところに広がっているような気がして。
こんなに、視界はクリアーだったかな?
こんなに、なにもかも見えたかな?
指揮者、オーケストラ、ソプラノ、アルト、テノール、バス、ソリスト、観客席、招待席。
会場内が、まるっと全部、見えている。
音が聞こえる。各パートの歌声。
どきどきしてる。
前のめりに転がりそうだぞ。
すげーどきどきしてる。
そして、泣けてきた。
やべえ。
気を引き締めて、最後まで。
音が切れた瞬間の断絶感、そして、拍手までの空白。
拍手。
拍手か。
360度の拍手。
合唱席も観客席も、全員だ。
抱きあう指揮者と演奏者たち。
あー、佐渡せんせ、ふるふるしてるー。ソプラノパートで一緒に歌ったユンソナは、泣いている。
わたしたちは、拍手拍手、ただ拍手。
みんな、声出すんだよなあ。佐渡せんせが退場するときに合唱席の近くに来ると、「おおーっ」て声が挙がるの。
拍手だけじゃなくてさ。
双方向なんだよな。与えて、与えられて、返して、返されて。
なにがどうじゃないんだけど。
なんつーかすげえ、ありがたい空間と、ありがたい時間を得たんじゃないかと、思うんだ。
ティンパニ奏者の人は、3年連続参加のウィーン交響楽団とやらの人。彼は去年のこの『1万人の第九』が終わったときに、佐渡せんせに言ったらしい。
「子どものころ、はじめて虹を見たときのようだ」
と。
わたしはティンパニのこともなにも知らないんだが、音あわせのときって、ティンパニに耳をつけるよーにして調律するものなのかな?
見るたびに、彼は大きなティンパニに、耳をつけるように覆い被さっていた。
「ねえほら見て、ティンパニの人。あんなふうにして、音を合わせるもんなの?」
わたしが聞くと、隣の席のきんどーさんは、
「ああ、あの虹を見た人?」
と、返し、「ほんとだー、あんなふうにして調律するのかなあ」と、同じように無邪気に言った。
虹を見た人。
なんかすごく、ロマンなふたつ名だな(笑)。だってわたしたち、何度紹介されても外国のえらい奏者だという彼らの名前、おぼえられないし。
名前がわからないなら、わたしたちだけで通じる別の名前が必要。
毎年自分の出番までは爆睡しているあらっち。スリッパまで持参のあらっち。
「なんでだろう。今年はずっと起きていたわ」
君も、虹を見たのかな。
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