月組バウホール公演『THE LAST PARTY 〜S.Fitzgerald’s last day〜』初日を観に行った。
 

 作品の話をしていいかな。
 役者よりもまず、ストーリーについて。

 スコット・フィッツジェラルドの一代記であるこの作品において、わたしがもっとも引っかかるのは、「作者の饒舌さ」だ。
 プログラムで語り、役の設定で語り、そのうえさらに、台詞で語る。
 語りすぎだっつーの。
 作者の自己顕示欲?的な「顔出し」が、どーにも気にかかる。
 スコットを演じる役者、という設定ははたして、ほんとーに必要だったのか?
 何故素直に、スコットの物語にしなかったのか?
 「役者」パートになるたびに、水をさされる。正気に返る。興ざめする。

 そしてそのことを思うたびに、考える。
 その水をさされる「役者」パートも、真に演技力のある者が演じていれば、問題なかったんだろう、と。

 友人のモリナ姉さんなどは、宙組バージョンを観て、1幕だけで帰ろうとした。「好きな生徒の出番がないなら、わざわざ観るに値しない作品」という感想ゆえに。
 とりあえずわたしは引き留めたさ。どんな作品でもとりあえず、全部観て欲しいから。そのうえで評価してほしいから。

 幕間に帰りたくなるくらいつまらない1幕目とやら。
 たしかに、テンポが悪く盛り上がりに欠ける。体調次第では睡魔におそわれるかもしれない。
 でもよく見て。とても美しくて、意欲と工夫があり、粋な演出がされているでしょう? 色鉛筆で精密に書き込まれた絵のようでしょう?
 そう。どんなに細密で丁寧で美しく描かれていたとしても。なにしろ色鉛筆だから。遠くから見ると、ただのぼんやりしたよくわからない模様でしかない。美しい絵だと気づくためには、近寄って眺めなければ。

 問題はやはり、そこだと思うんだ。
 この1幕目の滑りの悪さも、真に演技力のある者が演じていれば、問題なかったんだろう、と。

 作品的には、佳作だと思っている。
 こんなに美しく、せつない物語をありがとう、と思う。
 しかし……。
 手放しで絶賛できないのは、この「引っかかり」にあるんだ。

 作品と役者、どっちかに歩み寄りはできなかったのか?

 景子先生は、この作品を好きだと思う。大切なんだと思う。もちろんそれでいい。実際、大いに自信を持ってもらっていい作品だ。
 でもな。
 役者のこと、考えた?
 演じる人間のことは、ほんとうに考えた?

 スコットを演じるのがタニとゆうひだってわかっているなら、どうして作品をもっと俗にしなかったんだ?

 まず「作品ありき」だったんじゃないのか?
 役者が誰であるかどうかより、「自分の作品」が大切だったんじゃないか。
 自分が描きたいこと、やりたいこと。自分の持つ技量の高さ、志の高さ。それをまず、いちばんに考えた。
 そしてそれを、譲らなかった。

 気持ちはわかるよ。
 これで完璧だ、いい仕事したぜ、と提出した文章があるとする。
 ところが依頼主は言うわけだ。
「こんな難しい文章じゃあ、ウチの読者は読めません。難しい漢字や、ひねった表現はやめてください。2行以上続いた文章も読めませんから、句点のたびに改行して下さい。あと、出来事や感情の動きはちゃんと書き込んで下さいね。書いてあることもろくに読みとれないんですから、想像に任せるような書き方はしないで下さい。擬音とかで表すのがいちばんいいです、ぎくっ、とか、どかーんっ、とか」
 それで、言われるままにせっかくの自信作のレベルをわざと落とし、平板で陳腐でアタマの悪そーなモノに書き直すなんて、イヤじゃん。
 それは、わかる。わかるけど。

 その理不尽な要求を受け入れ、なおかつ作品の質を落とさない、という方向は、目指せなかったんだろうか?
 それこそ、せっかく仕上がった脚本になんの脈絡もなく「お国のためにお国のためにお国のために」と3回入れなければならず、それを芸者のお国さんや「お肉のために!」でさらに愉快な作品に仕上げてしまうくらいにさ。by笑の大学@三谷幸喜

 座付き作者なんだし。
 作品守るだけじゃ、引っかかるわ。
 これだけの実力があってどうして、主演生徒の側には歩み寄らないの?
 今のままで十分いい作品だけど、景子せんせならもっと上を目指せたはずよ。
 タニ「だから」、ゆうひ「だから」、さらに魅力的な物語を、作れたはず。
 それをしなかったのは、自分の「今の」作品を守りたかったから?
 主演の技量にあわせて、別のアプローチをしたくなかった?

 
 この作品が佳作であることは、いろんな人が認めていると思う。
「スコットがタニちゃんじゃなかったら、名作だったのに」
 と、わたしを含めた周囲の人間が言うように、作品はいいんだ。
 タニを例に出してごめんよ。ゆうひはまだ、周囲の人が観てないから例に挙がらないの。
 さらにみんなが言う。
「もしもスコットが**だったら、何回でも通うわ」
 主役を演じるのが自分の贔屓の生徒だったら、大絶賛する。
 自分の贔屓で観てみたい、と思わせるってことは、いい作品だってことだ。

 実際、タニちゃんのファンや、タニちゃんに好意を持っている人は、それだけで「名作!」だと絶賛するだろう。
 それだけの「力」を持った作品だと思う。

 だからこそ。
 惜しい。
 タニちゃん「だから」のプラスアルファがなく、「作品がいいから、とりあえずタニでもいいか」止まりであることが。「ゆうひでもいいか」であることが。

 このすばらしい作品を作れる技量で、さらに困難に挑戦して欲しかった。
 「スコットが**だったらいいのに」と思わせるのではなく、「スコットがタニちゃんだから、さらに素敵!」なところまで、持っていって欲しかったよ。
 作品を守って手堅くまとまらずに、挑戦して欲しかった。

 それこそ、スコットを演じる役者、という二重構造にはせず、ひとつの役と世界に集中させる。
 多少俗になったとしても、観客が盛り上がりやすい、拍手をしやすいセンテンスで芝居を進める。
 エンタメであることを意識して、客との対話を考える。

 重い芝居、泣かせる芝居だから、テンポが悪くていい、わけはないんだ。

 
 タニちゃんバージョンを観たあとに、じつはここまで語りたかったんだが、機会を逸していた。
 それと、「たぶんこれって月バウあて書き作品だろうから、ゆうひスコットを見てからでないと、語るのはフェアじゃないな」と思ったんだ。

 どう考えても、スコットもゼルダも、月組あて書きだよねえ?
 陰のある繊細な大人の男と、精神を病んでいく美女。
 太陽きらきらアイドル青年のタニちゃんのための役であるはずがなく、力強くも健康的な実力派かなみちゃんのための役であるはずもなく。
 どっから見ても、ゆうひとるいちゃんのための役じゃん……。
 これで、先にタニちゃんとかなみちゃんを見て「スコットが役者不足」だなんて言うのはフェアじゃないわ。
 と思ったんだ。

 それでもタニちゃんは健闘していたし、かなみちゃんはびっくり、柄じゃないのは承知の上、それでも実力でモノにしていた。

 では、はじめからあて書き、柄にあっているゆうひとるいちゃんは?
 月組バージョンで、この滑りの悪さは解消できるのかしら?

 てことで、月バウ初日なんだ。

 
 続く

   

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