罠の中でもがいている。@ドルチェ・ヴィータ!
2004年11月11日 タカラヅカ 幸運なのか、不運なのか。
わたしは『ドルチェ・ヴィータ!』というショーを、とにかく見倒した。
最初は積極的に通ったし、最後の方は半分義務みたいに通った。
それは、幸運なのか、不運なのか。
この作品は大変クオリティが高いし、またわたしのツボにハマる。
そんなすばらしい作品で、ダーリンを見送れるのは幸運だろう。
でもな。
わたしどーしても、損している気がするんだ。
わたしのダーリンがケロじゃなかったら、もしくはケロちゃんが最後でなかったら、わたし、どんなふうにこの作品と向き合っていた?
もっと冷静に、客観的に視ることができたんだよ。
それが、くやしい。
冷静でない自分が。
もっと他のなにかを感じられたかもしれない、わたしの可能性が、閉ざされてしまっていたこと。
他のどーでもいい駄作ショーなら、潔くケロだけを見つめ、オペラグラス固定、かのひとの姿だけを目で心で追い続けるさ。
しかし『ドルチェ・ヴィータ!』だよ? この作品を、いくらダーリン恋しとはいえ、ONLYの目線にはできないよ。それは、渾身の力で作品を創り上げているダーリン自身にも失礼だ。
わたしは公演中いろんな席で舞台を見たし、発売日に1枚もチケットを持っていなかったわりに、オペラグラスなしでかまわない席でけっこう観劇していたので(がんばったよオレ……)、ケロ以外見てません視界でいたことは少ない。
ケロを見つめつつも、全体を理解したいと心から思っていた。
彼がいる、彼が生きる「世界」を、愛していた。
だから、「ずっとオペラグラス使ってたんで、ケロちゃんしか見てません。どんなショーだったか、シーンだったか知りません」てなことにだけは、なりたくなかった。
そう、思ってはいたけれど。
やっぱり、わたしの視点はケロ中心になる。
冷静であるはずがない。
どうしてこれで見納めなの?
たしかにすばらしい作品で、この作品なら何十回見たってかまわないよ。通うことが苦じゃないよ。
だけど。
すばらしい作品だからこそ、「これで最後」という事実が、意識が、邪魔だった。
わたしのなかで。
オギーに利用されているのも、くやしいし。
オギーは「別れ」の演出がうまいよ。
現実の別れを作品の中の別れにリンクさせ、そりゃあすばらしいモノを創ってくれるさ。
ケロファンとして、ここまでの花道をよくぞ用意してくれました、と、感涙したさ。
でもさ。
ある意味それって、利用されてるんだよね。
現実の別れをリンクさせることで、自分の作品を盛り上げているの。表現に深みを出しているの。
両刃の剣。
現実と虚構。相乗効果と相互依存。
博多座と、ストーリーもテーマも変わっちゃってるじゃん? 博多座の主人公はドルチェ・ヴィータ@檀ちゃんだったでしょう?
でも大劇では、彼女は主役ではあり得ない。
そこに作為を感じる。
何故ディアボロがトウコなのか。ケロが去るこの舞台で、トウコの役がディアボロなのか。
ディアボロを中心とした物語として『ドルチェ・ヴィータ!』を見た場合、男S@ワタルを得ることの出来なかった孤独な悪魔は、最後にもうひとりの男@ケロと出会う。
男には、誰にも見えなかったはずの悪魔が見え、自分の意志でその手を握る。
男が悪魔の孤独を癒せるのかどーかはわからないが、とりあえず、悪魔は共に堕ちるつれあいを見つける。
男を演じているのがケロなもんだから、こいつってばやたらうれしそーで、ディアボロのこと素直に愛しちゃってるみたいで、「ハッピーエンドかよ」って終わり方なんだが。
千秋楽。
涙をこらえて顔をゆがめたままのディアボロに、男はとてもすがすがしい、美しい笑顔を見せる。
物語の上では、ディアボロは共に堕ちる者を見つけた。
握る手と手。
しかし。
現実のトウコは、この手を、失うんだ。
男は、いってしまう。寂しがりやの小柄な悪魔を残して。
うつむいて泣き出したトウコの手を握って微笑むケロは、いなくなるんだってば。
ねえオギーってさ、これをやるために、この作品を創ったんじゃないの?
ディアボロを二重の意味で孤独にするために。
物語のディアボロが友を見つけたとき、現実のトウコは友を失う。
この仕掛けを、最後にぶちかますつもりだったんじゃないの?
……と、うがった見方をしてしまったよ。
もしもケロがこのままずっといてくれれば、やっぱりこの作品は別のものになっていた気がするんだ。
ケロの花道を盛り上げてくれたのは事実だけど、ケロの存在を利用して作品を盛り上げることも、目的だった気がするんだ。
もちろんそれは、すばらしいことだよ。
くやしいけど、すごい。
冷静になれない自分、オギーの仕掛けた罠の中にずっぽりハマってしまっている自分が、そしてたぶん、それこそがこの作品を味わう醍醐味なんだろうと思うことが、うれしく、せつない。
幸運なのか、不運なのか。
最後の方は、義務みたいな気持ちで通ったよ。
心を鈍化させるために観続ける、みたいな。
いっそ、どーでもいい駄作ショーなら、よかったのかもな。
なにも考えず、感じず、ダーリンだけを見つめていられる。
剥き出しの心臓を握られるよーな、そんな想いをせずにすむ、仕掛けだの罠だののない、ふつーの作品なら。
うん、いろいろ考えたんだけどさ。
いちばんいいのは、ケロが、辞めるのやめればいいんだよ。
そーすりゃ、すべて丸く収まるさ。オギーの仕掛けなんかに惑わされず、作品をたのしめるさー。利用されずにすむさー。
すげー本気で、思ってるよ(笑)。
わたしは『ドルチェ・ヴィータ!』というショーを、とにかく見倒した。
最初は積極的に通ったし、最後の方は半分義務みたいに通った。
それは、幸運なのか、不運なのか。
この作品は大変クオリティが高いし、またわたしのツボにハマる。
そんなすばらしい作品で、ダーリンを見送れるのは幸運だろう。
でもな。
わたしどーしても、損している気がするんだ。
わたしのダーリンがケロじゃなかったら、もしくはケロちゃんが最後でなかったら、わたし、どんなふうにこの作品と向き合っていた?
もっと冷静に、客観的に視ることができたんだよ。
それが、くやしい。
冷静でない自分が。
もっと他のなにかを感じられたかもしれない、わたしの可能性が、閉ざされてしまっていたこと。
他のどーでもいい駄作ショーなら、潔くケロだけを見つめ、オペラグラス固定、かのひとの姿だけを目で心で追い続けるさ。
しかし『ドルチェ・ヴィータ!』だよ? この作品を、いくらダーリン恋しとはいえ、ONLYの目線にはできないよ。それは、渾身の力で作品を創り上げているダーリン自身にも失礼だ。
わたしは公演中いろんな席で舞台を見たし、発売日に1枚もチケットを持っていなかったわりに、オペラグラスなしでかまわない席でけっこう観劇していたので(がんばったよオレ……)、ケロ以外見てません視界でいたことは少ない。
ケロを見つめつつも、全体を理解したいと心から思っていた。
彼がいる、彼が生きる「世界」を、愛していた。
だから、「ずっとオペラグラス使ってたんで、ケロちゃんしか見てません。どんなショーだったか、シーンだったか知りません」てなことにだけは、なりたくなかった。
そう、思ってはいたけれど。
やっぱり、わたしの視点はケロ中心になる。
冷静であるはずがない。
どうしてこれで見納めなの?
たしかにすばらしい作品で、この作品なら何十回見たってかまわないよ。通うことが苦じゃないよ。
だけど。
すばらしい作品だからこそ、「これで最後」という事実が、意識が、邪魔だった。
わたしのなかで。
オギーに利用されているのも、くやしいし。
オギーは「別れ」の演出がうまいよ。
現実の別れを作品の中の別れにリンクさせ、そりゃあすばらしいモノを創ってくれるさ。
ケロファンとして、ここまでの花道をよくぞ用意してくれました、と、感涙したさ。
でもさ。
ある意味それって、利用されてるんだよね。
現実の別れをリンクさせることで、自分の作品を盛り上げているの。表現に深みを出しているの。
両刃の剣。
現実と虚構。相乗効果と相互依存。
博多座と、ストーリーもテーマも変わっちゃってるじゃん? 博多座の主人公はドルチェ・ヴィータ@檀ちゃんだったでしょう?
でも大劇では、彼女は主役ではあり得ない。
そこに作為を感じる。
何故ディアボロがトウコなのか。ケロが去るこの舞台で、トウコの役がディアボロなのか。
ディアボロを中心とした物語として『ドルチェ・ヴィータ!』を見た場合、男S@ワタルを得ることの出来なかった孤独な悪魔は、最後にもうひとりの男@ケロと出会う。
男には、誰にも見えなかったはずの悪魔が見え、自分の意志でその手を握る。
男が悪魔の孤独を癒せるのかどーかはわからないが、とりあえず、悪魔は共に堕ちるつれあいを見つける。
男を演じているのがケロなもんだから、こいつってばやたらうれしそーで、ディアボロのこと素直に愛しちゃってるみたいで、「ハッピーエンドかよ」って終わり方なんだが。
千秋楽。
涙をこらえて顔をゆがめたままのディアボロに、男はとてもすがすがしい、美しい笑顔を見せる。
物語の上では、ディアボロは共に堕ちる者を見つけた。
握る手と手。
しかし。
現実のトウコは、この手を、失うんだ。
男は、いってしまう。寂しがりやの小柄な悪魔を残して。
うつむいて泣き出したトウコの手を握って微笑むケロは、いなくなるんだってば。
ねえオギーってさ、これをやるために、この作品を創ったんじゃないの?
ディアボロを二重の意味で孤独にするために。
物語のディアボロが友を見つけたとき、現実のトウコは友を失う。
この仕掛けを、最後にぶちかますつもりだったんじゃないの?
……と、うがった見方をしてしまったよ。
もしもケロがこのままずっといてくれれば、やっぱりこの作品は別のものになっていた気がするんだ。
ケロの花道を盛り上げてくれたのは事実だけど、ケロの存在を利用して作品を盛り上げることも、目的だった気がするんだ。
もちろんそれは、すばらしいことだよ。
くやしいけど、すごい。
冷静になれない自分、オギーの仕掛けた罠の中にずっぽりハマってしまっている自分が、そしてたぶん、それこそがこの作品を味わう醍醐味なんだろうと思うことが、うれしく、せつない。
幸運なのか、不運なのか。
最後の方は、義務みたいな気持ちで通ったよ。
心を鈍化させるために観続ける、みたいな。
いっそ、どーでもいい駄作ショーなら、よかったのかもな。
なにも考えず、感じず、ダーリンだけを見つめていられる。
剥き出しの心臓を握られるよーな、そんな想いをせずにすむ、仕掛けだの罠だののない、ふつーの作品なら。
うん、いろいろ考えたんだけどさ。
いちばんいいのは、ケロが、辞めるのやめればいいんだよ。
そーすりゃ、すべて丸く収まるさ。オギーの仕掛けなんかに惑わされず、作品をたのしめるさー。利用されずにすむさー。
すげー本気で、思ってるよ(笑)。
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