ひとりで立ち続ける強さを……かなしさを、持つ人。@ドルチェ・ヴィータ!
2004年10月23日 タカラヅカ オギー・ショー『ドルチェ・ヴィータ!』をぶちこわしにしているのは、ケロじゃないかと思うんだ。
『ドルチェ・ヴィータ!』は、加工された宝石のようにいろんな角度からたのしめる作品だ。
登場人物のひとりひとり、あるいはシーンのひとつひとつを取っても、別の物語が紡げるだろう。
そのなかでディアボロ@トウコを中心に考えた場合が、たぶんいちばん手っ取り早く「ひとつの物語」として見えてくると思う。
もちろん、その「ひとつの物語」だって、観る人の感性でいくらでもちがったものになるだろうから、これはあくまでもわたし限定の話ね。
ディアボロはたしかに、トウコのための役であり、正しくあて書きだと思う。
トウコという人が切ないのは、彼女がとても「強い人」だと思えることだ。
同じだけ傷ついても、倒れて起きあがれなくなる人と、黙って立っていられる人がいる。
倒れてしまう人の方がより痛かったわけじゃない。耐えられなかったってだけ。
「だってあの人は平気で立ってるじゃん。きっと大して痛くなかったのよ」
ってのとは、チガウ。
痛みは、同じ。
他の人なら倒れてしまうほどの傷を受けても、それでも立ち続ける人は、強い人だ。だけど強いからって、痛くないわけじゃないんだよ。
それが、せつない。
倒れて泣いている人と同じだけ痛かったのに、それでも立ち続けている……いっそ強くない方が同情を受けられるし、楽に生きていけるだろうに。
強さが、せつない。
傷だらけなのがわかるのに、それでも立ち続ける強さが愛しい。
はかないのは、可哀想なのは、弱い者だけじゃないよ。
強い者も、はかないさ。
その強さゆえにな。
ディアボロっちゅーのは、そーゆーキャラだ。
繰り返される別れと喪失の物語の外側にいる者。
「言葉」「歌」によって「物語」をわかりやすくわたしたちに伝える。
ディアボロは、異邦人である。
物語の水先案内人だったり解説者だったりしながら、つかず離れず「世界」に関わっているが、彼はあきらかに「そこにいない者」だ。
ふつーの人間に、「見えていない者」だ。
導いたり操ったり、あるいは小悪魔水兵さんになってチャチャ入れをしていたりもするが、本来彼は「世界のよそ者」である。
人間たちが愛したりよろこんだり、苦しんだり悲しんだりしている、外側にいる。
「生活」の外側にいる。
彼が繰り返し歌う「失った愛」が彼自身の物語なのか、あるいは人間たち(もしくは「世界」)の思いを代弁しているのかは、見ている者の想像に託されているが、なにはともあれ、彼が「異邦人」であることはまちがいない。
『ドルチェ・ヴィータ!』のせつなさのひとつは、ディアボロにある。
彼は孤独だ。
彼はひとりだ。
彼だけが、「世界」に属していない。
わたしたちが生きているこの世界を、見下ろしている青年のことを想像すればいい。
彼はわたしたちの世界を眺めている。
この漆黒の大宇宙で、ひとりぼっちで、わたしたちの地球を見つめている。
地球儀を回して遊ぶみたいに、時折手を伸ばしたりもしている。
でも彼は、わたしたちのもとへは来られない。一緒に生活することは出来ない。共に時間を重ね、共に老い、死ぬことも出来ない。
ちっぽけなわたしたちを嘲笑ったり憎んだりもする。
だけどそれすら、わたしたちには届かない。
憧憬し、愛したとしても、それはわたしたちには一切届かない。誰にも届かない。
ドルチェ・ヴィータに魅せられた男が海に漂ったとしても。
出会いと別れ、愛と罪を繰り返したとしても。
その場面ごとに必ずディアボロがいたとしても。
彼は、ひとりだ。
ひとりぼっちで、わたしたちの世界を見つめている。
「外側」にいるかなしさ。
「異邦人」である痛さ。
どれだけかなしく、傷ついていても、それでも立ち続けているその強さ。
それがせつない。
『ドルチェ・ヴィータ!』は、メビウスの輪のよーな作品だ。
はじまりと終わりの境目がなく、時間軸も自在に変化している。
それはディアボロにもいえる。
彼は終始一貫ひとりだし孤独だし、誰を求めようとなにを託そうと結局まわりまわって同じところにたどりつく。
繰り返される「別れ」と「喪失」。
プロローグとエピローグは、わざと同じモチーフを使っているよね。
プロローグでディアボロは男S@ワタさんに出会い、彼をターゲットに決める。以来、男Sは「別れと喪失のメビウス」に足を踏み入れ、えんえん同じテーマの出来事を繰り返すことになる。
そして、エピローグ。男Sにいい加減飽きたのか、手を離してもあの男は永遠にメビウス・リングの中だからと安心したのか、ディアボロは別の男を新たに欲する。
ここで想像できるのは、その新しい男も、男Sと同じ道をたどるだろうということ。男がなにをどうしても、ディアボロの孤独は癒えない。ディアボロが異邦人である事実は変わらない。彼が求めるものは、「失った愛」だろうと「孤独を癒す者」だろうと、きっとなにも手に入らないんだろうな、と。
こうしてメビウスの輪は続く。
……とゆーのが、ディアボロの『ドルチェ・ヴィータ!』という話だと思うんだわ。
ディアボロにしろ他のキャラたちにしろ、みーんな不幸なまま。愛を求め、宿命に翻弄される。
しかし、不幸だからって彼らの人生や世界が全否定されているわけでなく、ものがなしくも美しい物語は、ある意味「癒し」や「希望」も秘めている、というややこしさ(笑)。
まあそれが、『ドルチェ・ヴィータ!』だろうと、わたしは思う。
なんだけど。
この『ドルチェ・ヴィータ!』という物語をぶちこわしにしているのが、ケロじゃないかと思うんだ(笑)。
続く
『ドルチェ・ヴィータ!』は、加工された宝石のようにいろんな角度からたのしめる作品だ。
登場人物のひとりひとり、あるいはシーンのひとつひとつを取っても、別の物語が紡げるだろう。
そのなかでディアボロ@トウコを中心に考えた場合が、たぶんいちばん手っ取り早く「ひとつの物語」として見えてくると思う。
もちろん、その「ひとつの物語」だって、観る人の感性でいくらでもちがったものになるだろうから、これはあくまでもわたし限定の話ね。
ディアボロはたしかに、トウコのための役であり、正しくあて書きだと思う。
トウコという人が切ないのは、彼女がとても「強い人」だと思えることだ。
同じだけ傷ついても、倒れて起きあがれなくなる人と、黙って立っていられる人がいる。
倒れてしまう人の方がより痛かったわけじゃない。耐えられなかったってだけ。
「だってあの人は平気で立ってるじゃん。きっと大して痛くなかったのよ」
ってのとは、チガウ。
痛みは、同じ。
他の人なら倒れてしまうほどの傷を受けても、それでも立ち続ける人は、強い人だ。だけど強いからって、痛くないわけじゃないんだよ。
それが、せつない。
倒れて泣いている人と同じだけ痛かったのに、それでも立ち続けている……いっそ強くない方が同情を受けられるし、楽に生きていけるだろうに。
強さが、せつない。
傷だらけなのがわかるのに、それでも立ち続ける強さが愛しい。
はかないのは、可哀想なのは、弱い者だけじゃないよ。
強い者も、はかないさ。
その強さゆえにな。
ディアボロっちゅーのは、そーゆーキャラだ。
繰り返される別れと喪失の物語の外側にいる者。
「言葉」「歌」によって「物語」をわかりやすくわたしたちに伝える。
ディアボロは、異邦人である。
物語の水先案内人だったり解説者だったりしながら、つかず離れず「世界」に関わっているが、彼はあきらかに「そこにいない者」だ。
ふつーの人間に、「見えていない者」だ。
導いたり操ったり、あるいは小悪魔水兵さんになってチャチャ入れをしていたりもするが、本来彼は「世界のよそ者」である。
人間たちが愛したりよろこんだり、苦しんだり悲しんだりしている、外側にいる。
「生活」の外側にいる。
彼が繰り返し歌う「失った愛」が彼自身の物語なのか、あるいは人間たち(もしくは「世界」)の思いを代弁しているのかは、見ている者の想像に託されているが、なにはともあれ、彼が「異邦人」であることはまちがいない。
『ドルチェ・ヴィータ!』のせつなさのひとつは、ディアボロにある。
彼は孤独だ。
彼はひとりだ。
彼だけが、「世界」に属していない。
わたしたちが生きているこの世界を、見下ろしている青年のことを想像すればいい。
彼はわたしたちの世界を眺めている。
この漆黒の大宇宙で、ひとりぼっちで、わたしたちの地球を見つめている。
地球儀を回して遊ぶみたいに、時折手を伸ばしたりもしている。
でも彼は、わたしたちのもとへは来られない。一緒に生活することは出来ない。共に時間を重ね、共に老い、死ぬことも出来ない。
ちっぽけなわたしたちを嘲笑ったり憎んだりもする。
だけどそれすら、わたしたちには届かない。
憧憬し、愛したとしても、それはわたしたちには一切届かない。誰にも届かない。
ドルチェ・ヴィータに魅せられた男が海に漂ったとしても。
出会いと別れ、愛と罪を繰り返したとしても。
その場面ごとに必ずディアボロがいたとしても。
彼は、ひとりだ。
ひとりぼっちで、わたしたちの世界を見つめている。
「外側」にいるかなしさ。
「異邦人」である痛さ。
どれだけかなしく、傷ついていても、それでも立ち続けているその強さ。
それがせつない。
『ドルチェ・ヴィータ!』は、メビウスの輪のよーな作品だ。
はじまりと終わりの境目がなく、時間軸も自在に変化している。
それはディアボロにもいえる。
彼は終始一貫ひとりだし孤独だし、誰を求めようとなにを託そうと結局まわりまわって同じところにたどりつく。
繰り返される「別れ」と「喪失」。
プロローグとエピローグは、わざと同じモチーフを使っているよね。
プロローグでディアボロは男S@ワタさんに出会い、彼をターゲットに決める。以来、男Sは「別れと喪失のメビウス」に足を踏み入れ、えんえん同じテーマの出来事を繰り返すことになる。
そして、エピローグ。男Sにいい加減飽きたのか、手を離してもあの男は永遠にメビウス・リングの中だからと安心したのか、ディアボロは別の男を新たに欲する。
ここで想像できるのは、その新しい男も、男Sと同じ道をたどるだろうということ。男がなにをどうしても、ディアボロの孤独は癒えない。ディアボロが異邦人である事実は変わらない。彼が求めるものは、「失った愛」だろうと「孤独を癒す者」だろうと、きっとなにも手に入らないんだろうな、と。
こうしてメビウスの輪は続く。
……とゆーのが、ディアボロの『ドルチェ・ヴィータ!』という話だと思うんだわ。
ディアボロにしろ他のキャラたちにしろ、みーんな不幸なまま。愛を求め、宿命に翻弄される。
しかし、不幸だからって彼らの人生や世界が全否定されているわけでなく、ものがなしくも美しい物語は、ある意味「癒し」や「希望」も秘めている、というややこしさ(笑)。
まあそれが、『ドルチェ・ヴィータ!』だろうと、わたしは思う。
なんだけど。
この『ドルチェ・ヴィータ!』という物語をぶちこわしにしているのが、ケロじゃないかと思うんだ(笑)。
続く
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