星組初日、わたしはkineさんと一緒だった。
 わたしの日記を読んで、「一緒に星組を観に行かないかい、ベイベ」と、誘ってくれたありがたい方。うおうおう、お誘いありがとう、ナイストゥミチュー、出会いがうれしい。
 初デートだ初日だオギーだ風邪っぴきだと、いくつもコンボが決まって、わたしの足は地についていなかった。いろーんなことをうわごとのよーにまくしたてていたと思う。
 とくにkineさんは「わたしならこうする」とか、意志と力のある視点で日記を書かれている方。この人なら、多少わたしが理屈っぽいことを言っても、引かないにちがいない(決めつけっ)と、整理のできていないアタマのわるーい感想をきゃーきゃーまくしたててしまった。
 わたしは文章では饒舌だけど、実際に会って喋るのはそう得意な方じゃない。アタマが悪いので、咄嗟に正しい文章を喋ることができない。劣っていることを知っているので、極力気をつけて、起承転結を考えて喋るよう気をつけているけど。下手なわりに、お喋り自体は好きなので、本人はたのしいんだけど。
 初日は、いろいろなことが重なって、それらの気遣いもぶっとび、とてもアタマのわるい、むきだしの緑野こあらさんが喋っていた。

 そこでわたしは言った。
「酒井澄夫はいちばんきらい」

 わたしが日記で吠えていたのをご存じらしいkineさんは、すかさず「『砂漠の黒薔薇』ですか」と返してくれた。
 ええ、そうね。『砂漠の黒薔薇』は大嫌い。創作者としても、座付き作者としても、義務を放棄したとしか思えない粗悪な作品。誠意も意欲もカケラもない作品。
 あの駄作で退団するずんちゃんを見送らなければならなかった、ファンに心から同情した。

 たしかに、『砂漠の黒薔薇』は大嫌いだし、こんな不誠実な作品を送り出して恥ずかしくない作者には、憤りを感じている。
 だけどkineさんと話しているときわたしのアタマにあったのは、『浅茅が宿』だった。

 その昔わたしは、『浅茅が宿』という作品を観て、タカラヅカに絶望した。開いた口がふさがらなかった。こんなものを平気で上演してしまう無神経さに愕然とした。
 大嫌い。もう観ない。
 そう思った。
 当時のわたしは雪組ファンで、雪組は週に1回ペースで観ていたんだが、この公演だけは初日と新公と楽しか行かなかった。それだけは、先にチケット取ってたんでな。
 この直後に、荻田浩一作『凍てついた明日』がなければ、そしてそれにケロが出ていなければ、わたしはタカラヅカを見限っていたかもしれない(ケロが出ていなければ、観ていない公演だった)。
 どんな駄作でも文句言い言い、それでもゆるし、通ってしまうわたしを絶望させるなんて、よっぽどのことだぞ、酒井澄夫。

 今思えば、たぶん、そういう時期だったんだ。『浅茅が宿』はたしかに太鼓判を押せる立派な駄作だが、そんな絶望するほどの大駄作じゃない。ヅカにはいくらでも駄作はある。その数多い駄作のなかのひとつでしかなかったさ。
 それでも当時のわたしが絶望したのは、きっとそういう時期だったんだ。タカラヅカというモノから、心が離れかけていたのだと思う。トド様のことがずっと好きで、平行してケロを好きになって、雪組を中心に全組まんべんなく観て、そうやってタカラヅカを愛してきたけれど、潮時になっていたんだと思う。
 わたしの背中を押すのに、十分な駄作だった。誠意のない作品だった。
 原作に思い入れがあったのも、災いしたと思う。雨月物語なんつー料理しやすい材料を使って、ここまで無能なのか、演出家よ! と、怒りにふるえたもんさ。

 ただの駄作で、そこまで怒って、正直すまんかった。『砂漠の黒薔薇』に比べたら『浅茅が宿』なんて、大したことない駄作レベルだわ。
 わたしの精神状態が悪かっただけね。冷静に観れば、『浅茅が宿』はただの駄作よ。あそこまで怒る必要はなかった。怒るのもバカバカしいただの駄作。

 ただの駄作でしかないのに、絶望するほど嫌ったのは、わたしの方に問題があったのだろう。
 しかし、わたしのなかで『浅茅が宿』はものすげー「嫌な思い出」になっている。「絶望の思い出」とか、「怒りの思い出」とかな。

 そう考えれば、「酒井澄夫はいちばんきらい」と言い切ってしまうのは、チガウ気がする。

 少なくとも酒井澄夫作品は、生理的嫌悪感をもよおすほど、ムカつかない。
 植田紳爾作の『皇帝』は、生理的嫌悪感で二度と観られない。観ている途中で席を立ちたくなった唯一無二の作品。
 また、植田紳爾作の『春ふたたび』も、『皇帝』と同じ理由で生理的嫌悪感を刺激する。
 駄作製造ぶりのタカラヅカNo.1はまちがいなく植田紳爾だし、この名前を聞くだけで観劇意欲が失せるのは事実。

 それに比べれば、酒井澄夫なんて、かわいいもんだ。生理的にゆるせないよーな破壊力はどこにもない。
 ただ、つまらない、というだけだ。

 植田紳爾は終わっている作家で、壊れているうえにまちがっている、その度合いがものすごい。
 長所であれ短所であれ、「破壊力」を持つのは、ある意味創作者としての強みである。
 ムカつく代わりに、印象に残る。話題になる。
 ななめ見して流したくても、ムカついて目に入ってしょうがない。
 そーゆー力。
 これはやはり、能力のひとつだと思う。

 わたしはあと、太田哲則がきらいなんだが、この人の場合は作品の作り方がわたしの好みに合っていない、ということが大きい。
 なんてゆーか、根本にある「エンタメへの否定観」が好きになれない。
 じゃあ高尚なモノを創っているのかというとそうでもなく、「高尚ぶって失敗したつまらないもの」ばかりという印象。
 エンタメを創って失敗しているなら好感も持つけど、エンタメをバカにして「もっと高尚なモノ」にこだわって、それで結局「下賤なエンタメ以下」のモノしか創れない……とゆー感じがなー。いやなんだよなー。

 植田紳爾や太田哲則をさしおいて、酒井澄夫ごときを「いちばんきらい」と言っていいのか、わたし?
 酒井澄夫の作品は、植田紳爾や太田哲則以下だぞ? つまらないということにおいて。
 てゆーか、語る必要もないレベルだぞ?
 そんなどーでもいー人を、「いちばんきらい」とまで言っていいのか、わたし?

 ということで、わたしは迷った。
 ねえほんとに、酒井澄夫がいちばんきらい?

 星組公演『花舞う長安』も、酒井澄夫らしい駄作だ。

 嫌悪感はない。怒りもない。ただ、つまらないだけ。
 睡魔に襲われるだけ。

 「物語」として機能する以前のモノだというだけ。

 もちろんわたしはきらいだし、こんなモノを創って金を取ることが恥ずかしくない作家を軽蔑するけど、でもなー、べつにこれくらい、どーってことない程度の駄作だもんなー。
 ヅカではよくあることだもんなー。

 少なくとも、生理的嫌悪感で席に坐っていられなくなるよーな作品でなくて、よかった。
 出演者が汚い衣装や似合わない衣装ばかり着せられていて、見ていてつらくなるよーな作品でなくて、よかった。
 
 さて。
 わたしはほんとうに、酒井澄夫がいちばんきらいなのかな。

       

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