だから、彼の挨拶を聴きに行く。@花供養
2004年9月23日 タカラヅカ トド様の挨拶を聞きに、『花供養』千秋楽へ行ってきました。
トド様の挨拶は独特なので、生で聞いてなんぼっすよ。
わたしがトド様の挨拶をはじめて聞いたのは、『天守に花匂い立つ』新人公演のときでした。トド様が研6になったばかりの1月。彼は中卒なんで、まだ22歳、学生の年齢ですわな。
そのときからすでに、トド様はトド様でした。あのみょーちくりんな挨拶をカマしてました。
当時のわたしは金も経験もなく、挨拶がある公演を観に行くスキルがなかったため、ジェンヌの生挨拶を観られるのはトド様の新公だけ、状態でした(トド様の新公だけは、性根を入れてチケットGETしてたからなー)。
だもんで、「すべてのジェンヌさんは、あーゆー挨拶をするもんなんだ」と思いこんでました。
たとえ挨拶であっても、キャラを作り、「男役」になりきったまま喋らなければならないのだと。
だから、トド様以外の人の挨拶をはじめて聞いたときは「ポカーン」となりましたわ。
とくに、最初に聞いたのがよりによってタータンだったもんでな……ショックは大きかったわ。
あれは『華麗なるギャツビー』の新人公演。いつもの調子で挨拶をカマしたトドロキ氏が、突然、2番手を務めたタータンに、話を振ったのだわ。ぬきうちだったらしい。挨拶は他人事、と見守りムードだったタータンは、突然指名を受けて、嬌声を上げる。
スーツ芝居だ。タータンももちろんスーツ姿。本役のいっちゃんよりはるかに貫禄のあるおやぢぶり。実際堂々たる芝居と歌で舞台を盛り上げた。
その貫禄あふれたおやぢが、だ。挨拶を振られるなり、「いやぁぁん☆」てな女の子になったのだわ。内股、上目遣いでもじもじ(顔はおやぢ)。おずおずとマイクの前に出てきて、あのかんわいらしー「タータン喋り」で、舌っ足らずに甲高く挨拶をはじめた(顔はおやぢ)。
えええっ?! 挨拶って、「男役」のキャラのまんまでなきゃ、ダメなんじゃないの? 本名の女の子まんまの姿でしていいもんなの?
びっくりした。
さっきまで完璧におっさんだったのに、名前呼ばれるなり豹変、て、すげえ……。ただ立っているだけでも、「男役」ってのは技術なんだなあ。気を抜くと女の子になっちゃうもんなんだー。ほえー。
てゆーか、挨拶って……ふつーに喋っていいもんだったんだ……節を作って歌わなくてもいいもんなんだ……。
トド様のおかげで、何年も誤解してましたよ。
タータンを皮切りに、他の人の挨拶を聞く機会も増えたが、あーんな変な挨拶をする人はトド様の他にはいない。
トド様が変だったんだ……挨拶はふつーに挨拶、ふつーに喋っていいもんだったんだ……。
とまあ、唯一無二のトドロキ御大。あの阿呆……愉快な挨拶は、生で聞かなくっちゃ。つーことで、遠路はるばる東京へ。
舞台は熱く、また、落ち着いておりました。トバしすぎてこちらが引いてしまうようなこともなく、情熱を感じさせる静かさが満ちておりました。これはこれで、すばらしいことでしょう。
しかし。
とどのつまりわたしは、この物語が好きになれないのだと心から思った。
後水尾天皇の無神経で自己中で、くどく女々しくひがみっぽい性格がキライだし、宗教に逃げてハッピーエンドというオチもキライだ。
わたしは困難に立ち向かう物語が好きだし、それを乗り越え、成長する物語が好きだ。『花供養』はそういったテーマと対局の部分で描かれているのだから、はじめからわかっていることを「キライ」と言っても仕方がない。わかっているさ。嫌なら見るなってこった。
同じテーマでも、脚本や台詞の選び方ひとつでいくらでも変わると思うんだが、何故かこの作品では、キャラクタのひとりひとりがとても無神経に見えるように描いてある。
同じ意味を言うんでも、よりによってどーしてそんな言い方を? 言葉の使い方まちがってない? それって他人に言っていいことじゃないのでは? がてんこ盛り。
同じテーマとストーリーラインでも、もっと感動的にできるだろうに……何故こんなに心が冷える台詞と演出なんだ……とほほ。
まあ、もともと好みじゃない話だから、仕方ないさ。ちょっとした言葉のニュアンスが引っかかって、さらに気持ちを萎えさせるのさ。
ツボな話なら、多少言葉が無神経でも用法がまちがっていても、いいように解釈しちゃうからなー。
わたしの好みからもっともはずれているのは、「無」という悟りの使い方。
後水尾天皇にしろお与津御寮人にしろ、本人の意思や努力とは関係ないところで不幸な境遇を強いられている。かなしい想いをしている。それは気の毒なことだ。
色即是空、宗教に走ってしまうのも、仕方ないことかもしれない。
しかし。
悲しみや苦しみも、この世のものはすべて「無」である、と悟りに至る彼らに、わたしは盛大につっこんでしまう。
悲しみや苦しみが「無」ならば、よろこびや愛もすべて「無」ってことだな。と。
あれだけ愛してるのどーのと大騒ぎこいといて、敵前逃亡かよ。愛していたこと、今までの人生のよろこびややさしさ、全部「色即是空」で「なかったこと」かよ。
泣きながらでも、美しいモノをそこに築いていたはずなのに、それを捨ててしまうのね。
人間らしい汚さを捨てる代わりに、人間らしい美しさも捨てるのね。
それが、いちばん嫌。
悟りに達した人間は美しい。世俗の泥を突き抜け、悟りの水面に美しい花を咲かせる。たしかにそれは、すばらしいことだろう。そこにたどりつくまでの慟哭と苦悩も深いだろう。
それがすばらしいこと尊いこと、美しいことを知った上で、わたしは思う。
世俗の泥の中であがく生き方が好きだと。
汚いものを抱えながら、かなしみながら苦しみながら、それでも愛して笑って生きる。それこそを、真にすばらしいと思っている。
天使なんか愛せない。わたしが愛するのは善と悪、天と地、聖と俗の間で揺れ動く人間だ。
かなしみや苦しみを否定する人なんか、愛せない。
後水尾天皇に徳川に反乱を起こせとか戦えとか言ってるんじゃないのよ。誰だってなにかしら制約を受け、枷をはめられて生きている。そのなかで、どう生きるかが重要。
彼には彼の世界の中で、苦しみながらもあがきつづけてほしかった。どれだけ自己中でヘタレでもかまわないから。弱くない人間なんかいないから。彼なりの真摯さを見せて欲しかった。
……いや、そーゆー話じゃないことはわかってるんだけどな。
よーするに、わたしの好きな物語ではなかったのよ、致命的に。
だもんで、いちばん盛り上がっている3幕、兄弟が怒鳴り合って生きるの死ぬのと大騒ぎしているところが、笑いツボ直撃なのよ。
いかんなあ。泣かせどころで、そんな反応。情緒が不足しているのだわ。
さて、トド様の挨拶ですが。
彼はただ一度だけ、「素」で喋ったことがあります。わたしが知る限り、ただ一度。
『バッカスと呼ばれた男』のムラ千秋楽。同期がこの日をもって退団するときに。
マイクの前で、トド様は「男役・轟悠」ではなく、本名の石**子ちゃんになった。いつもの挨拶をしようとして……泣いてしまい、喋れなくなったの。
素で喋り、素で泣いている彼を見たのは、あとにも先にもそれっきりだ。
すぐに泣きやみ、いつもの挨拶をはじめたけれど。つーか、涙に濡れた顔のまま、それでもあの挨拶を無理矢理はじめてしまうことに、おどろいたんですけど。
愛すべき人だと思うよ。
強情で、不器用で。古き良き日本男児のような人だと思う。
トド様の挨拶は独特なので、生で聞いてなんぼっすよ。
わたしがトド様の挨拶をはじめて聞いたのは、『天守に花匂い立つ』新人公演のときでした。トド様が研6になったばかりの1月。彼は中卒なんで、まだ22歳、学生の年齢ですわな。
そのときからすでに、トド様はトド様でした。あのみょーちくりんな挨拶をカマしてました。
当時のわたしは金も経験もなく、挨拶がある公演を観に行くスキルがなかったため、ジェンヌの生挨拶を観られるのはトド様の新公だけ、状態でした(トド様の新公だけは、性根を入れてチケットGETしてたからなー)。
だもんで、「すべてのジェンヌさんは、あーゆー挨拶をするもんなんだ」と思いこんでました。
たとえ挨拶であっても、キャラを作り、「男役」になりきったまま喋らなければならないのだと。
だから、トド様以外の人の挨拶をはじめて聞いたときは「ポカーン」となりましたわ。
とくに、最初に聞いたのがよりによってタータンだったもんでな……ショックは大きかったわ。
あれは『華麗なるギャツビー』の新人公演。いつもの調子で挨拶をカマしたトドロキ氏が、突然、2番手を務めたタータンに、話を振ったのだわ。ぬきうちだったらしい。挨拶は他人事、と見守りムードだったタータンは、突然指名を受けて、嬌声を上げる。
スーツ芝居だ。タータンももちろんスーツ姿。本役のいっちゃんよりはるかに貫禄のあるおやぢぶり。実際堂々たる芝居と歌で舞台を盛り上げた。
その貫禄あふれたおやぢが、だ。挨拶を振られるなり、「いやぁぁん☆」てな女の子になったのだわ。内股、上目遣いでもじもじ(顔はおやぢ)。おずおずとマイクの前に出てきて、あのかんわいらしー「タータン喋り」で、舌っ足らずに甲高く挨拶をはじめた(顔はおやぢ)。
えええっ?! 挨拶って、「男役」のキャラのまんまでなきゃ、ダメなんじゃないの? 本名の女の子まんまの姿でしていいもんなの?
びっくりした。
さっきまで完璧におっさんだったのに、名前呼ばれるなり豹変、て、すげえ……。ただ立っているだけでも、「男役」ってのは技術なんだなあ。気を抜くと女の子になっちゃうもんなんだー。ほえー。
てゆーか、挨拶って……ふつーに喋っていいもんだったんだ……節を作って歌わなくてもいいもんなんだ……。
トド様のおかげで、何年も誤解してましたよ。
タータンを皮切りに、他の人の挨拶を聞く機会も増えたが、あーんな変な挨拶をする人はトド様の他にはいない。
トド様が変だったんだ……挨拶はふつーに挨拶、ふつーに喋っていいもんだったんだ……。
とまあ、唯一無二のトドロキ御大。あの
舞台は熱く、また、落ち着いておりました。トバしすぎてこちらが引いてしまうようなこともなく、情熱を感じさせる静かさが満ちておりました。これはこれで、すばらしいことでしょう。
しかし。
とどのつまりわたしは、この物語が好きになれないのだと心から思った。
後水尾天皇の無神経で自己中で、くどく女々しくひがみっぽい性格がキライだし、宗教に逃げてハッピーエンドというオチもキライだ。
わたしは困難に立ち向かう物語が好きだし、それを乗り越え、成長する物語が好きだ。『花供養』はそういったテーマと対局の部分で描かれているのだから、はじめからわかっていることを「キライ」と言っても仕方がない。わかっているさ。嫌なら見るなってこった。
同じテーマでも、脚本や台詞の選び方ひとつでいくらでも変わると思うんだが、何故かこの作品では、キャラクタのひとりひとりがとても無神経に見えるように描いてある。
同じ意味を言うんでも、よりによってどーしてそんな言い方を? 言葉の使い方まちがってない? それって他人に言っていいことじゃないのでは? がてんこ盛り。
同じテーマとストーリーラインでも、もっと感動的にできるだろうに……何故こんなに心が冷える台詞と演出なんだ……とほほ。
まあ、もともと好みじゃない話だから、仕方ないさ。ちょっとした言葉のニュアンスが引っかかって、さらに気持ちを萎えさせるのさ。
ツボな話なら、多少言葉が無神経でも用法がまちがっていても、いいように解釈しちゃうからなー。
わたしの好みからもっともはずれているのは、「無」という悟りの使い方。
後水尾天皇にしろお与津御寮人にしろ、本人の意思や努力とは関係ないところで不幸な境遇を強いられている。かなしい想いをしている。それは気の毒なことだ。
色即是空、宗教に走ってしまうのも、仕方ないことかもしれない。
しかし。
悲しみや苦しみも、この世のものはすべて「無」である、と悟りに至る彼らに、わたしは盛大につっこんでしまう。
悲しみや苦しみが「無」ならば、よろこびや愛もすべて「無」ってことだな。と。
あれだけ愛してるのどーのと大騒ぎこいといて、敵前逃亡かよ。愛していたこと、今までの人生のよろこびややさしさ、全部「色即是空」で「なかったこと」かよ。
泣きながらでも、美しいモノをそこに築いていたはずなのに、それを捨ててしまうのね。
人間らしい汚さを捨てる代わりに、人間らしい美しさも捨てるのね。
それが、いちばん嫌。
悟りに達した人間は美しい。世俗の泥を突き抜け、悟りの水面に美しい花を咲かせる。たしかにそれは、すばらしいことだろう。そこにたどりつくまでの慟哭と苦悩も深いだろう。
それがすばらしいこと尊いこと、美しいことを知った上で、わたしは思う。
世俗の泥の中であがく生き方が好きだと。
汚いものを抱えながら、かなしみながら苦しみながら、それでも愛して笑って生きる。それこそを、真にすばらしいと思っている。
天使なんか愛せない。わたしが愛するのは善と悪、天と地、聖と俗の間で揺れ動く人間だ。
かなしみや苦しみを否定する人なんか、愛せない。
後水尾天皇に徳川に反乱を起こせとか戦えとか言ってるんじゃないのよ。誰だってなにかしら制約を受け、枷をはめられて生きている。そのなかで、どう生きるかが重要。
彼には彼の世界の中で、苦しみながらもあがきつづけてほしかった。どれだけ自己中でヘタレでもかまわないから。弱くない人間なんかいないから。彼なりの真摯さを見せて欲しかった。
……いや、そーゆー話じゃないことはわかってるんだけどな。
よーするに、わたしの好きな物語ではなかったのよ、致命的に。
だもんで、いちばん盛り上がっている3幕、兄弟が怒鳴り合って生きるの死ぬのと大騒ぎしているところが、笑いツボ直撃なのよ。
いかんなあ。泣かせどころで、そんな反応。情緒が不足しているのだわ。
さて、トド様の挨拶ですが。
彼はただ一度だけ、「素」で喋ったことがあります。わたしが知る限り、ただ一度。
『バッカスと呼ばれた男』のムラ千秋楽。同期がこの日をもって退団するときに。
マイクの前で、トド様は「男役・轟悠」ではなく、本名の石**子ちゃんになった。いつもの挨拶をしようとして……泣いてしまい、喋れなくなったの。
素で喋り、素で泣いている彼を見たのは、あとにも先にもそれっきりだ。
すぐに泣きやみ、いつもの挨拶をはじめたけれど。つーか、涙に濡れた顔のまま、それでもあの挨拶を無理矢理はじめてしまうことに、おどろいたんですけど。
愛すべき人だと思うよ。
強情で、不器用で。古き良き日本男児のような人だと思う。
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