ハマコが出ていることは知っていた。
 でも、なんの役なのかは知らなかった。
 90周年特別公演『花供養』

 誰だろう、この女役さん。とってもうまいけど、すげー濃いなあ。こんな専科のおばさま……ぢゃねえ、おねーさま、いたかしら。

 めーっちゃ素で、そう思ってた。幕開きから。
 そして、ハマコはいつ出るんだろう、と、思っていた。

 ハハハハハ、ハ、ハマコ?!

 女役だったの?!


 ……だから、知らなかったんですってば、なにひとつ。爆走兄弟以外は全員女しか出てこない芝居だって!

 おかげで、汝鳥伶さまが女役で登場し、磯野千尋兄貴までもが女役で登場した日にゃあ。
 気が遠くなるかと思った……。

 ありがとうXA席。こんなにすばらしいものを間近で観るための最前列。レートが低い公演はありがたい。
 そーいやわたし、タータンのスカーレットも最前列で観たのよ。タースカの意気込んだ鼻の穴がよく見えたわ……。

 ハマコはすばらしかったです。女のハマコなんて想像がつかないと思ってましたが、ハマコだって気がつかないくらいナチュラルにおば……いや、女性でした。
 雰囲気はサザエさん。陽気でマイペースで空気読めなくて人の話聞かなくて。ても憎めない元気モノ。……あて書きですか、元理事長? あのサザエさんがハマコだと気づいた一瞬だけ、元理事長を尊敬しました。はい、一瞬です。

 
 ところでこの作品、どうなんでしょうねえ?

 爆笑兄弟ホモ話として笑って観ましたが、それとは別に真面目に観てもいるんですよ。観たのは1回だけど、アタマが複合的に動いているのはいつものことで。

 少なくとも、エンタメじゃないんだよね?
 観客が求めていない作品だってことは、一目瞭然だし。

 去年、この演目が発表になったとき、わたしの友人たちはみーんななまあたたかく笑いました。
「大変ね、緑野さん」
 と。
「誰だって観たくないだろう、つまらないとわかっている作品を、大金はたいて東京まで行って、観なければならないなんて、同情するわ」
 と言う意味ですわ。
 「誰だって」という言葉の中には、「緑野さんも観たくないわよね」という意味が込められてます。
 ええ。わたしもしがない一般人ですから。ふつーの人が「観たくない」と思うモノは、観たくないですよ。
 「大変ね」と笑いながらも、わたしが本当に観に行くのだと言えば、「ええっ、ほんとうに行くの?!」と驚かれる。
 そして、「ほんとーにファンなのね」と感心される。
 あたりまえに「ファンでも観に行くはずがない」と思われてしまうほどに、一般人のニーズからはずれた公演。

 少なくとも、観客のために行われた公演ではないのでしょう。
 人気のなさがそれを物語っている。

 わたしは本来、ベタベタのエンタメが好きで、大衆性あふれたものが好きだ。
 作者の自己満足より、サービス精神を悦ぶ。
 その方がマスタベ純文学系より、ある意味制作が難しいと思うからだ。もちろん、作者の自慰行為でしかない作品でも、おもしろけりゃそれでいいのよ。でも、自己満足に偏った作品がおもしろい確率はとても低いからさ。
 通俗でも低俗でも、まず「客を悦ばせる」ことを主眼にした作品が好き。
 わたしは俗物なの。難しいモノはわかんないの。

 そーゆー人間だから、この「最初からエンタメ性無視」している『花供養』という作品には懐疑的だった。
 誰も求めてない。
 誰も観たくない。
 だけど、商業作品として興行する。

 なんのために?

 
 ……もちろん、なかには「ぜひ観たい」「たのしみ」「こんな作品を待っていた」という人もいるだろうけど。
 ソレ、圧倒的少数だし。
 チケットが売れていないことが、それを証明しているわけだし。

 
 なんというか、この公演自体にとても「落ち着きの悪さ」を感じるんだ。

 商業演劇でありながら、はじめから客のニーズを無視し、「誰も観たくない」作品を上演する。
 大半の者が敬遠している「日本物」で、しかも時代遅れの才能枯渇作家「植田紳爾」作で、そのうえ感覚がちがっているから今さら観ても仕方のない「再演モノ」。
 主演のトド様は雪組トップ時代から人気はいまひとつ。新陳代謝を美学とするタカラヅカにおいて「変わらない」彼は、賛否両論ある存在。
 極めつけの悪因は、宝塚「歌劇団」であり、ミュージカルとレビューのカンパニーである、という前提を無視したストレートプレイであるということ。
 伝統がどーの継承がどーのと言いながら、何故か根本部分を自ら否定した公演。

 これだけ「客が観たくないと思う要因」を、よくもそろえたモノだと感心する。

 それならば劇団は、この公演自体に「商業価値」を認めていないのか?

 過去から未来へ続く過程として、技術の伝達は必要だ。
 偉大な先人の持つ「教科書にはない技術」を、実践で学ぶことは意味があるだろう。
 水は流れなければ腐るし、使わない刃物はさびる。
 練習だけでなく、実際に「発表会」として幕を上げて鍛錬することはアリだろう。
 タカラヅカの「日本物」を継承するために、あえてこの公演を行った、ということだろうか。
 それならばわかる。鍛錬だけが目的ならば、観客のニーズなんぞに応える必要はない。

 だが、それなら何故、日生劇場で3週間も興行するのか。

 ダンス発表会も舞踊会も、1日限りじゃん。
 カンパニーのスキルアップが目的なら、それで十分なはずだ。
 90周年記念だとしても、発表会に相応の劇場で、数日行えばすむはずだ。

 観客のニーズはまるきし無視。誰も観たいと思わない要因ばかりを羅列。
 なのに、通常の「商売」としての興行と同じスタンスでのお膳立て。

 この乖離感はなんなの?
 劇団はなにがしたいの?
 この「落ち着きの悪さ」はなに?
 言っていることとやっていることがチガウ、もぞもぞした感じ。

「無料配布本です、どうぞ」
 と言って案内されたテーブルの上に、薄い冊子と「カンパ箱」が置いてあるよーな落ち着きの悪さ。
 無料配布の本が欲しかったら、「任意で」お金をカンパ箱にいれなければならないの。
 ええっ、お金取るの?! しかもみんなが凝視している中、「任意で」金額を決めなきゃいけないの?
 いくら入れればいいんだろう……てゆーかもう欲しくないんだけど、カンパ箱見て逃げ出すのも恥ずかしいし。つか、えんえん列に並んだわけだし。手ぶらで帰るのもバカみたいだし。
 ふつーに定価を決めて売ってくれよ……ちゃんと買うからさー、こんな姑息な真似しないでよー。

 なーんてね。某晴海で某有名漫画家さんのサークルの「無料配布本」を「いただいた」ときのことなんかを、思い出しちゃったわ。

 
 そう、その「落ち着きの悪さ」とは、売り手の誠意のなさに由来している。

 出演者のことじゃないよ。売り手……あくまでも、企業としての劇団。
 観客のことなんかなにも考えず、自分たちの欲望だけを最優先させている、ダーク感。

 あわよくば儲けようとしたんだろうなあ、この公演で。客はバカだから盲目的だから、いくらでも踊ると思って。
 いくらなんでも、ここまで客の求めていない作品をぶちあげておきながら、それでも「あわよくば」と思ったんだろーなー。
 あさましさが透けて見えて、イヤンだわ。

 てゆーか。
 やっぱ劇団ってバカだな。と、思った。

 …

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