存在価値を考える。@花供養
2004年9月16日 タカラヅカ ハマコが出ていることは知っていた。
でも、なんの役なのかは知らなかった。
90周年特別公演『花供養』。
誰だろう、この女役さん。とってもうまいけど、すげー濃いなあ。こんな専科のおばさま……ぢゃねえ、おねーさま、いたかしら。
めーっちゃ素で、そう思ってた。幕開きから。
そして、ハマコはいつ出るんだろう、と、思っていた。
ハハハハハ、ハ、ハマコ?!
女役だったの?!
……だから、知らなかったんですってば、なにひとつ。爆走兄弟以外は全員女しか出てこない芝居だって!
おかげで、汝鳥伶さまが女役で登場し、磯野千尋兄貴までもが女役で登場した日にゃあ。
気が遠くなるかと思った……。
ありがとうXA席。こんなにすばらしいものを間近で観るための最前列。レートが低い公演はありがたい。
そーいやわたし、タータンのスカーレットも最前列で観たのよ。タースカの意気込んだ鼻の穴がよく見えたわ……。
ハマコはすばらしかったです。女のハマコなんて想像がつかないと思ってましたが、ハマコだって気がつかないくらいナチュラルにおば……いや、女性でした。
雰囲気はサザエさん。陽気でマイペースで空気読めなくて人の話聞かなくて。ても憎めない元気モノ。……あて書きですか、元理事長? あのサザエさんがハマコだと気づいた一瞬だけ、元理事長を尊敬しました。はい、一瞬です。
ところでこの作品、どうなんでしょうねえ?
爆笑兄弟ホモ話として笑って観ましたが、それとは別に真面目に観てもいるんですよ。観たのは1回だけど、アタマが複合的に動いているのはいつものことで。
少なくとも、エンタメじゃないんだよね?
観客が求めていない作品だってことは、一目瞭然だし。
去年、この演目が発表になったとき、わたしの友人たちはみーんななまあたたかく笑いました。
「大変ね、緑野さん」
と。
「誰だって観たくないだろう、つまらないとわかっている作品を、大金はたいて東京まで行って、観なければならないなんて、同情するわ」
と言う意味ですわ。
「誰だって」という言葉の中には、「緑野さんも観たくないわよね」という意味が込められてます。
ええ。わたしもしがない一般人ですから。ふつーの人が「観たくない」と思うモノは、観たくないですよ。
「大変ね」と笑いながらも、わたしが本当に観に行くのだと言えば、「ええっ、ほんとうに行くの?!」と驚かれる。
そして、「ほんとーにファンなのね」と感心される。
あたりまえに「ファンでも観に行くはずがない」と思われてしまうほどに、一般人のニーズからはずれた公演。
少なくとも、観客のために行われた公演ではないのでしょう。
人気のなさがそれを物語っている。
わたしは本来、ベタベタのエンタメが好きで、大衆性あふれたものが好きだ。
作者の自己満足より、サービス精神を悦ぶ。
その方がマスタベ純文学系より、ある意味制作が難しいと思うからだ。もちろん、作者の自慰行為でしかない作品でも、おもしろけりゃそれでいいのよ。でも、自己満足に偏った作品がおもしろい確率はとても低いからさ。
通俗でも低俗でも、まず「客を悦ばせる」ことを主眼にした作品が好き。
わたしは俗物なの。難しいモノはわかんないの。
そーゆー人間だから、この「最初からエンタメ性無視」している『花供養』という作品には懐疑的だった。
誰も求めてない。
誰も観たくない。
だけど、商業作品として興行する。
なんのために?
……もちろん、なかには「ぜひ観たい」「たのしみ」「こんな作品を待っていた」という人もいるだろうけど。
ソレ、圧倒的少数だし。
チケットが売れていないことが、それを証明しているわけだし。
なんというか、この公演自体にとても「落ち着きの悪さ」を感じるんだ。
商業演劇でありながら、はじめから客のニーズを無視し、「誰も観たくない」作品を上演する。
大半の者が敬遠している「日本物」で、しかも時代遅れの才能枯渇作家「植田紳爾」作で、そのうえ感覚がちがっているから今さら観ても仕方のない「再演モノ」。
主演のトド様は雪組トップ時代から人気はいまひとつ。新陳代謝を美学とするタカラヅカにおいて「変わらない」彼は、賛否両論ある存在。
極めつけの悪因は、宝塚「歌劇団」であり、ミュージカルとレビューのカンパニーである、という前提を無視したストレートプレイであるということ。
伝統がどーの継承がどーのと言いながら、何故か根本部分を自ら否定した公演。
これだけ「客が観たくないと思う要因」を、よくもそろえたモノだと感心する。
それならば劇団は、この公演自体に「商業価値」を認めていないのか?
過去から未来へ続く過程として、技術の伝達は必要だ。
偉大な先人の持つ「教科書にはない技術」を、実践で学ぶことは意味があるだろう。
水は流れなければ腐るし、使わない刃物はさびる。
練習だけでなく、実際に「発表会」として幕を上げて鍛錬することはアリだろう。
タカラヅカの「日本物」を継承するために、あえてこの公演を行った、ということだろうか。
それならばわかる。鍛錬だけが目的ならば、観客のニーズなんぞに応える必要はない。
だが、それなら何故、日生劇場で3週間も興行するのか。
ダンス発表会も舞踊会も、1日限りじゃん。
カンパニーのスキルアップが目的なら、それで十分なはずだ。
90周年記念だとしても、発表会に相応の劇場で、数日行えばすむはずだ。
観客のニーズはまるきし無視。誰も観たいと思わない要因ばかりを羅列。
なのに、通常の「商売」としての興行と同じスタンスでのお膳立て。
この乖離感はなんなの?
劇団はなにがしたいの?
この「落ち着きの悪さ」はなに?
言っていることとやっていることがチガウ、もぞもぞした感じ。
「無料配布本です、どうぞ」
と言って案内されたテーブルの上に、薄い冊子と「カンパ箱」が置いてあるよーな落ち着きの悪さ。
無料配布の本が欲しかったら、「任意で」お金をカンパ箱にいれなければならないの。
ええっ、お金取るの?! しかもみんなが凝視している中、「任意で」金額を決めなきゃいけないの?
いくら入れればいいんだろう……てゆーかもう欲しくないんだけど、カンパ箱見て逃げ出すのも恥ずかしいし。つか、えんえん列に並んだわけだし。手ぶらで帰るのもバカみたいだし。
ふつーに定価を決めて売ってくれよ……ちゃんと買うからさー、こんな姑息な真似しないでよー。
なーんてね。某晴海で某有名漫画家さんのサークルの「無料配布本」を「いただいた」ときのことなんかを、思い出しちゃったわ。
そう、その「落ち着きの悪さ」とは、売り手の誠意のなさに由来している。
出演者のことじゃないよ。売り手……あくまでも、企業としての劇団。
観客のことなんかなにも考えず、自分たちの欲望だけを最優先させている、ダーク感。
あわよくば儲けようとしたんだろうなあ、この公演で。客はバカだから盲目的だから、いくらでも踊ると思って。
いくらなんでも、ここまで客の求めていない作品をぶちあげておきながら、それでも「あわよくば」と思ったんだろーなー。
あさましさが透けて見えて、イヤンだわ。
てゆーか。
やっぱ劇団ってバカだな。と、思った。
…
でも、なんの役なのかは知らなかった。
90周年特別公演『花供養』。
誰だろう、この女役さん。とってもうまいけど、すげー濃いなあ。こんな専科のおばさま……ぢゃねえ、おねーさま、いたかしら。
めーっちゃ素で、そう思ってた。幕開きから。
そして、ハマコはいつ出るんだろう、と、思っていた。
ハハハハハ、ハ、ハマコ?!
女役だったの?!
……だから、知らなかったんですってば、なにひとつ。爆走兄弟以外は全員女しか出てこない芝居だって!
おかげで、汝鳥伶さまが女役で登場し、磯野千尋兄貴までもが女役で登場した日にゃあ。
気が遠くなるかと思った……。
ありがとうXA席。こんなにすばらしいものを間近で観るための最前列。レートが低い公演はありがたい。
そーいやわたし、タータンのスカーレットも最前列で観たのよ。タースカの意気込んだ鼻の穴がよく見えたわ……。
ハマコはすばらしかったです。女のハマコなんて想像がつかないと思ってましたが、ハマコだって気がつかないくらいナチュラルにおば……いや、女性でした。
雰囲気はサザエさん。陽気でマイペースで空気読めなくて人の話聞かなくて。ても憎めない元気モノ。……あて書きですか、元理事長? あのサザエさんがハマコだと気づいた一瞬だけ、元理事長を尊敬しました。はい、一瞬です。
ところでこの作品、どうなんでしょうねえ?
爆笑兄弟ホモ話として笑って観ましたが、それとは別に真面目に観てもいるんですよ。観たのは1回だけど、アタマが複合的に動いているのはいつものことで。
少なくとも、エンタメじゃないんだよね?
観客が求めていない作品だってことは、一目瞭然だし。
去年、この演目が発表になったとき、わたしの友人たちはみーんななまあたたかく笑いました。
「大変ね、緑野さん」
と。
「誰だって観たくないだろう、つまらないとわかっている作品を、大金はたいて東京まで行って、観なければならないなんて、同情するわ」
と言う意味ですわ。
「誰だって」という言葉の中には、「緑野さんも観たくないわよね」という意味が込められてます。
ええ。わたしもしがない一般人ですから。ふつーの人が「観たくない」と思うモノは、観たくないですよ。
「大変ね」と笑いながらも、わたしが本当に観に行くのだと言えば、「ええっ、ほんとうに行くの?!」と驚かれる。
そして、「ほんとーにファンなのね」と感心される。
あたりまえに「ファンでも観に行くはずがない」と思われてしまうほどに、一般人のニーズからはずれた公演。
少なくとも、観客のために行われた公演ではないのでしょう。
人気のなさがそれを物語っている。
わたしは本来、ベタベタのエンタメが好きで、大衆性あふれたものが好きだ。
作者の自己満足より、サービス精神を悦ぶ。
その方がマスタベ純文学系より、ある意味制作が難しいと思うからだ。もちろん、作者の自慰行為でしかない作品でも、おもしろけりゃそれでいいのよ。でも、自己満足に偏った作品がおもしろい確率はとても低いからさ。
通俗でも低俗でも、まず「客を悦ばせる」ことを主眼にした作品が好き。
わたしは俗物なの。難しいモノはわかんないの。
そーゆー人間だから、この「最初からエンタメ性無視」している『花供養』という作品には懐疑的だった。
誰も求めてない。
誰も観たくない。
だけど、商業作品として興行する。
なんのために?
……もちろん、なかには「ぜひ観たい」「たのしみ」「こんな作品を待っていた」という人もいるだろうけど。
ソレ、圧倒的少数だし。
チケットが売れていないことが、それを証明しているわけだし。
なんというか、この公演自体にとても「落ち着きの悪さ」を感じるんだ。
商業演劇でありながら、はじめから客のニーズを無視し、「誰も観たくない」作品を上演する。
大半の者が敬遠している「日本物」で、しかも時代遅れの才能枯渇作家「植田紳爾」作で、そのうえ感覚がちがっているから今さら観ても仕方のない「再演モノ」。
主演のトド様は雪組トップ時代から人気はいまひとつ。新陳代謝を美学とするタカラヅカにおいて「変わらない」彼は、賛否両論ある存在。
極めつけの悪因は、宝塚「歌劇団」であり、ミュージカルとレビューのカンパニーである、という前提を無視したストレートプレイであるということ。
伝統がどーの継承がどーのと言いながら、何故か根本部分を自ら否定した公演。
これだけ「客が観たくないと思う要因」を、よくもそろえたモノだと感心する。
それならば劇団は、この公演自体に「商業価値」を認めていないのか?
過去から未来へ続く過程として、技術の伝達は必要だ。
偉大な先人の持つ「教科書にはない技術」を、実践で学ぶことは意味があるだろう。
水は流れなければ腐るし、使わない刃物はさびる。
練習だけでなく、実際に「発表会」として幕を上げて鍛錬することはアリだろう。
タカラヅカの「日本物」を継承するために、あえてこの公演を行った、ということだろうか。
それならばわかる。鍛錬だけが目的ならば、観客のニーズなんぞに応える必要はない。
だが、それなら何故、日生劇場で3週間も興行するのか。
ダンス発表会も舞踊会も、1日限りじゃん。
カンパニーのスキルアップが目的なら、それで十分なはずだ。
90周年記念だとしても、発表会に相応の劇場で、数日行えばすむはずだ。
観客のニーズはまるきし無視。誰も観たいと思わない要因ばかりを羅列。
なのに、通常の「商売」としての興行と同じスタンスでのお膳立て。
この乖離感はなんなの?
劇団はなにがしたいの?
この「落ち着きの悪さ」はなに?
言っていることとやっていることがチガウ、もぞもぞした感じ。
「無料配布本です、どうぞ」
と言って案内されたテーブルの上に、薄い冊子と「カンパ箱」が置いてあるよーな落ち着きの悪さ。
無料配布の本が欲しかったら、「任意で」お金をカンパ箱にいれなければならないの。
ええっ、お金取るの?! しかもみんなが凝視している中、「任意で」金額を決めなきゃいけないの?
いくら入れればいいんだろう……てゆーかもう欲しくないんだけど、カンパ箱見て逃げ出すのも恥ずかしいし。つか、えんえん列に並んだわけだし。手ぶらで帰るのもバカみたいだし。
ふつーに定価を決めて売ってくれよ……ちゃんと買うからさー、こんな姑息な真似しないでよー。
なーんてね。某晴海で某有名漫画家さんのサークルの「無料配布本」を「いただいた」ときのことなんかを、思い出しちゃったわ。
そう、その「落ち着きの悪さ」とは、売り手の誠意のなさに由来している。
出演者のことじゃないよ。売り手……あくまでも、企業としての劇団。
観客のことなんかなにも考えず、自分たちの欲望だけを最優先させている、ダーク感。
あわよくば儲けようとしたんだろうなあ、この公演で。客はバカだから盲目的だから、いくらでも踊ると思って。
いくらなんでも、ここまで客の求めていない作品をぶちあげておきながら、それでも「あわよくば」と思ったんだろーなー。
あさましさが透けて見えて、イヤンだわ。
てゆーか。
やっぱ劇団ってバカだな。と、思った。
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