だから、君にエールを送ろう。@La Esperanza
2004年9月10日 タカラヅカ この世には、2種類の考え方がある。
「人は、完全にわかりあえる」と「わかりあえない」と。
わたしは、後者の人間だ。
人と人は、わかりあえない。だって、別の人間だもんよ。
人はひとりで生まれて、ひとりで死ぬんだ。
わたしが今なにを考えていて、なにに傷ついているかなんて、誰にわかるっていうんだ。
家族でも恋人でも友だちでも、わかるもんか。
だからこそ。
わたしは、ひとと触れあいたいと思う。ひとりぼっちは嫌だと思う。
家族や恋人や友だちが必要だと思う。
わかりあえるから、必要なんじゃない。
わかりあいたいから、必要なんだ。
わたしはわたしの分身が欲しいんじゃない。
なにもかもわたしの思うとおりの、鏡のような人が欲しいんじゃない。
チガウ人間で、チガウこと考えていて、チガウ人生送ってきて、それでもなお、縁あってわたしと出逢い、一緒にいてたのしいと思う。この人によろこんでほしい、この人に必要として欲しい、与えて与えられたいと思う。
チガウ人間なのに、好きだと思って欲しい。思いたい。
なーんて人間なので、同じ「わかりあえない」と思っている作家の作品に共感する。
「わかりあえる」と思っている作家の作品には、拒絶反応を示すことが多い。
正塚晴彦作品が好きなのは、彼が「人は本来わかりあえないもの」だと思っている作家だからだと思うんだ。
君と僕は別の人間。
だから、本来はわかりあえない。
でも僕は君が好きで、君は僕を好きだと言う。
別々の人間だから誤解もするし、すれちがいもするけれど、好きだから、それらを乗り越えて手を取ろう。
僕は君を見ていてときどきひどく苛々するし、憤慨することだってあるけれど、たとえばなにかとても美しいモノを見て感動したときに、隣に君がいて、同じように「きれいね」と言ってくれたら、それはとてもしあわせなことだと思う。
……そーゆー感覚。
他人を他人だと認めるところからはじまる、関係。
正塚作品はかっこつけてクールぶったものが多いけれど、じつはべったべたの「人間大好きハート」があふれていると思っている。
そりゃーもー、理想主義?ってくらい。
根底に流れるものが、ひどくウエットで、やさしい。派手で大仰な愛の台詞だのシチュエーションが作品中になくても、正塚せんせーこそ、ものすげーロマンチストだと思う。
『La Esperanza』にしてもそうだ。
どうしてこんなにも、やさしくロマンチストな物語を書くのか。
見ていて恥ずかしいぞ(笑)。
欠点はいろいろあるにしろ、わたしはこの物語が好きだ。
人間賛歌、人生賛歌にあふれた作品だからだ。
がんばりすぎている人間の肩を、ぽんとやさしく叩いてくれる物語。
君の居場所は、そこだけじゃないよ。
君の価値はそれだけじゃないよ。
立ち止まって休んでも、誰も君を責めないよ。
みんな毎日、必死に走ってるじゃん?
なにかしら追われて、目の色かえて生きてるじゃん。
わたしだって、「わたしであること」に固執して、きりきり舞いしているよ。
「こうあらなきゃならない!」「こうでないわたしには、なんの意味もない!」って。
そう思っているよ。わたしは、わたしであることにとてもこだわっている。他人にはなれない。
自分大好き! というにはコンプレックスが強すぎて、こんな恥ずかしいわたしだから他にはなれないっていうか、わたしはわたしのなかでコアに固まっていたいというか。こんなわたしに、わたし自身が価値を認めてやらなきゃ、もう救いがないっていうか。
わたしであること、に必死になって、それ以外の可能性を考える余裕のないのわたしに、ぽん、と、やさしい言葉が振ってくる。
大丈夫。
本能は消えない。
ドラマチックな物語はいつだって、夢をあきらめることを罪悪だとあおり立てる。
野生のペンギンは自由ですばらしいけれど、檻の中のペンギンは醜悪だと。
障害を乗り越えて、夢を掴むために努力することこそがすばらしい、美しいと。
でもこの『La Esperanza』ときたら。
夢をあきらめて平凡に生活することを真っ正面から肯定している。
囲いの中なら、長生きできるよ。楽だから。夢なんか忘れて。現状に満足して。
檻の中のペンギンって言うと、言葉は悪いけど、どこにだって希望はある。一方的に悪いことなんてない。
と。
やさしく、肯定する。
大丈夫。
「お前さんがいいとおもったら、それでいい。その方がずっといい」
挫折も進路変更も、なにもかも、肯定。
疲れた背中に、肯定。
「どんどんやっちくりぃ」
がんばりすぎて尖った肩に、やさしい手。
そっか。檻の中でもいいんだ。
だって、本能は消えない。
動物園のペンギンだって、囲いがなくなったら迷わず外へ出て行くから。
いま、檻の中で息をついていたっていいんだ。居場所は、他にもあるんだ。
檻の中でたのしいことを見つけて休息するのは、罪悪じゃないんだ。
たとえ一生檻の中で、囲いの外に出られなかったとしても。それは決して、恥じることではないんだ。
本能は消えない。
わたしは、わたしを信じていいんだ。
人間賛歌。人生賛歌。
恥ずかしいくらいの応援歌。
ドラマチック・シリアスを否定して(笑)、ほんわか軽妙に、エールを送る。
ロマンチストだねえ、正塚せんせー。
命懸けの夢だ恋だと叫ぶ方が、よっぽど恥ずかしくないよ。
人は本来わかりあえない。
だからこそ、わかりあえたときがうれしい。心が近づいたとき、重なったとき、「ひとりじゃない」と知ったとき。
生まれてきてよかったと思う。
今、あなたを理解し、尊重しあえるこの一瞬のために、あなたと別の人間に生まれてきてよかったと思う。
あなたの欠けた部分を埋めるために、わたしがあなたとちがうカタチでよかったと思う。
まったく同じカタチだったら、決してあなたの欠けた部分を埋められないもの。
同じ速度で歩くカルロスとミルバは、欠けた部分を埋め合わせることができるカップルなんだと思う。
バイオリズムは同じだけど、目指すモノは別。ピースはぴたりとはまるけれど、もともとひとつのピースなんじゃなくて、別の一片なの。
だからこそきっと、ぴたっとはまったことがうれしいんだよね。
それぞれ自分の道を歩きながら。べつのカタチでありながら。
よかったね。ベストパートナーが見つかって。
……まあ、演じているのが寿美礼ちゃんとふーちゃんだから、あまり愛があるように見えないんだけど……ソレはまあソレとして(笑)。
ふたりとも、自分がいちばん好き!に見えるのは、どーしたもんかと思うけど。
物語自体は、ロマンチストが書いたとびきりの夢物語だと思うよ。
☆
私信。
チェリさん=「み」さん、「先生」は勘弁しちくり……。わし、なにもんですか……。うひょー。
「人は、完全にわかりあえる」と「わかりあえない」と。
わたしは、後者の人間だ。
人と人は、わかりあえない。だって、別の人間だもんよ。
人はひとりで生まれて、ひとりで死ぬんだ。
わたしが今なにを考えていて、なにに傷ついているかなんて、誰にわかるっていうんだ。
家族でも恋人でも友だちでも、わかるもんか。
だからこそ。
わたしは、ひとと触れあいたいと思う。ひとりぼっちは嫌だと思う。
家族や恋人や友だちが必要だと思う。
わかりあえるから、必要なんじゃない。
わかりあいたいから、必要なんだ。
わたしはわたしの分身が欲しいんじゃない。
なにもかもわたしの思うとおりの、鏡のような人が欲しいんじゃない。
チガウ人間で、チガウこと考えていて、チガウ人生送ってきて、それでもなお、縁あってわたしと出逢い、一緒にいてたのしいと思う。この人によろこんでほしい、この人に必要として欲しい、与えて与えられたいと思う。
チガウ人間なのに、好きだと思って欲しい。思いたい。
なーんて人間なので、同じ「わかりあえない」と思っている作家の作品に共感する。
「わかりあえる」と思っている作家の作品には、拒絶反応を示すことが多い。
正塚晴彦作品が好きなのは、彼が「人は本来わかりあえないもの」だと思っている作家だからだと思うんだ。
君と僕は別の人間。
だから、本来はわかりあえない。
でも僕は君が好きで、君は僕を好きだと言う。
別々の人間だから誤解もするし、すれちがいもするけれど、好きだから、それらを乗り越えて手を取ろう。
僕は君を見ていてときどきひどく苛々するし、憤慨することだってあるけれど、たとえばなにかとても美しいモノを見て感動したときに、隣に君がいて、同じように「きれいね」と言ってくれたら、それはとてもしあわせなことだと思う。
……そーゆー感覚。
他人を他人だと認めるところからはじまる、関係。
正塚作品はかっこつけてクールぶったものが多いけれど、じつはべったべたの「人間大好きハート」があふれていると思っている。
そりゃーもー、理想主義?ってくらい。
根底に流れるものが、ひどくウエットで、やさしい。派手で大仰な愛の台詞だのシチュエーションが作品中になくても、正塚せんせーこそ、ものすげーロマンチストだと思う。
『La Esperanza』にしてもそうだ。
どうしてこんなにも、やさしくロマンチストな物語を書くのか。
見ていて恥ずかしいぞ(笑)。
欠点はいろいろあるにしろ、わたしはこの物語が好きだ。
人間賛歌、人生賛歌にあふれた作品だからだ。
がんばりすぎている人間の肩を、ぽんとやさしく叩いてくれる物語。
君の居場所は、そこだけじゃないよ。
君の価値はそれだけじゃないよ。
立ち止まって休んでも、誰も君を責めないよ。
みんな毎日、必死に走ってるじゃん?
なにかしら追われて、目の色かえて生きてるじゃん。
わたしだって、「わたしであること」に固執して、きりきり舞いしているよ。
「こうあらなきゃならない!」「こうでないわたしには、なんの意味もない!」って。
そう思っているよ。わたしは、わたしであることにとてもこだわっている。他人にはなれない。
自分大好き! というにはコンプレックスが強すぎて、こんな恥ずかしいわたしだから他にはなれないっていうか、わたしはわたしのなかでコアに固まっていたいというか。こんなわたしに、わたし自身が価値を認めてやらなきゃ、もう救いがないっていうか。
わたしであること、に必死になって、それ以外の可能性を考える余裕のないのわたしに、ぽん、と、やさしい言葉が振ってくる。
大丈夫。
本能は消えない。
ドラマチックな物語はいつだって、夢をあきらめることを罪悪だとあおり立てる。
野生のペンギンは自由ですばらしいけれど、檻の中のペンギンは醜悪だと。
障害を乗り越えて、夢を掴むために努力することこそがすばらしい、美しいと。
でもこの『La Esperanza』ときたら。
夢をあきらめて平凡に生活することを真っ正面から肯定している。
囲いの中なら、長生きできるよ。楽だから。夢なんか忘れて。現状に満足して。
檻の中のペンギンって言うと、言葉は悪いけど、どこにだって希望はある。一方的に悪いことなんてない。
と。
やさしく、肯定する。
大丈夫。
「お前さんがいいとおもったら、それでいい。その方がずっといい」
挫折も進路変更も、なにもかも、肯定。
疲れた背中に、肯定。
「どんどんやっちくりぃ」
がんばりすぎて尖った肩に、やさしい手。
そっか。檻の中でもいいんだ。
だって、本能は消えない。
動物園のペンギンだって、囲いがなくなったら迷わず外へ出て行くから。
いま、檻の中で息をついていたっていいんだ。居場所は、他にもあるんだ。
檻の中でたのしいことを見つけて休息するのは、罪悪じゃないんだ。
たとえ一生檻の中で、囲いの外に出られなかったとしても。それは決して、恥じることではないんだ。
本能は消えない。
わたしは、わたしを信じていいんだ。
人間賛歌。人生賛歌。
恥ずかしいくらいの応援歌。
ドラマチック・シリアスを否定して(笑)、ほんわか軽妙に、エールを送る。
ロマンチストだねえ、正塚せんせー。
命懸けの夢だ恋だと叫ぶ方が、よっぽど恥ずかしくないよ。
人は本来わかりあえない。
だからこそ、わかりあえたときがうれしい。心が近づいたとき、重なったとき、「ひとりじゃない」と知ったとき。
生まれてきてよかったと思う。
今、あなたを理解し、尊重しあえるこの一瞬のために、あなたと別の人間に生まれてきてよかったと思う。
あなたの欠けた部分を埋めるために、わたしがあなたとちがうカタチでよかったと思う。
まったく同じカタチだったら、決してあなたの欠けた部分を埋められないもの。
同じ速度で歩くカルロスとミルバは、欠けた部分を埋め合わせることができるカップルなんだと思う。
バイオリズムは同じだけど、目指すモノは別。ピースはぴたりとはまるけれど、もともとひとつのピースなんじゃなくて、別の一片なの。
だからこそきっと、ぴたっとはまったことがうれしいんだよね。
それぞれ自分の道を歩きながら。べつのカタチでありながら。
よかったね。ベストパートナーが見つかって。
……まあ、演じているのが寿美礼ちゃんとふーちゃんだから、あまり愛があるように見えないんだけど……ソレはまあソレとして(笑)。
ふたりとも、自分がいちばん好き!に見えるのは、どーしたもんかと思うけど。
物語自体は、ロマンチストが書いたとびきりの夢物語だと思うよ。
☆
私信。
チェリさん=「み」さん、「先生」は勘弁しちくり……。わし、なにもんですか……。うひょー。
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