光を吸収する闇のきらめき。@ドルチェ・ヴィータ!
2004年8月26日 タカラヅカ 博多座公演『ロマンチカ宝塚’04−ドルチェ・ヴィータ!−』の話、その2。
オギーらしい毒が薄まっているとはいえ、消滅しているわけではなく、あちらこちらにちらちらと存在している状態。
この程度の濃度がちょうどいいんだと思う。
痛いほどではないから。
よりエンタメ作品になったと思う。
オギーの毒部分と、エンタメ部分がサンドイッチ状態、エンタメ部分の方が多い配分。これは博多座だから? タニちゃんという「陽」の力を持ったキャラの作用? 大劇になればトウコちゃんという「陰」の力を持ったキャラのカラーが強くなる?
いつも思うことだがオギーの作品で感心するのは、キャラクタの使い方だ。
今回すばらしかったのは、タニちゃん。
はっきりいってタニちゃんは、オギー作品に合わない。
明るすぎる。幼すぎる。素直すぎる。
これは持ち味なので、本人の責任じゃない。持って生まれた天分ってやつだ。
この異分子を、オギーがどう料理するか。
ふつうのヅカ作家なら、キャラの持ち味なんか関係なく番手で役を振るのにね。そして自ら作品のレベルを下げるもんなんだけど(平気なのか、あきらめているのか、そもそも気づいてないのか? 自作を貶めることになるのに)。
オギーはただでは転ばないなあ。
タニちゃんをそのまま使ったのでは、作品が壊れる。レベルが低くなる。
作品を守るために、仕掛けをした。
『パッサージュ』のころ、ワタルくんは見事に耽美シーンには使ってもらえなかった。かっこいい使い方はしてもらえたけど、他はイロモノ扱い。あの巨体で女役で脚出してただ揺れながら銀橋を歩くだけ、とか、ひでー使われ方だった。
そのワタルくんをしのぐイロモノだよな、タニちゃん。
ワタルに耽美はできないけど、男っぽいかっこよさは表現できる人だ。
だから『ドルチェ・ヴィータ!』でもオギー世界を表現するパーツとしてのワタルは、男らしさ・かっこよさで統一されていた。
しかしタニには、それもない。
耽美もできないし、ハードさもない。
かわいい陽性のアイドル。……オギー世界といちばん遠い場所にいるこの個性を、どうすりゃいいんだよ?!
ええ、見事な処理の仕方でしたよ。
タニちゃんは、女として使われた。
男役のタニちゃんは、どうあがいてもオギー世界に相容れない。だから、女役にしてしまった。
性転換することで生まれる艶を毒に変えて、オギー世界に放り込んだ。
うまい。
タニが男役として使われているのは、オギーらしいシーンは一切なく、エンタメシーンのみだ。徹底している。
コメディチックなシーンなら、タニはタニのままでOK。華やかでかわいらしく、アイドルとしての天分が無理なく発揮される。
しかしオギー本領発揮の耽美シーンでは、タニは邪魔。いらない。なにをやっても健康的すぎるから。でも番手的に使わなくてはならない。
そこで、性転換、だよ。
女になったタニは、ものすっげー魅力的でした。
持って生まれた華とスタイルの良さが、あざやかに開花していた。
宙組ショーで女装したときはでかくてオカマくさかったのに、『ドルチェ・ヴィータ!』では違和感なし。
美しくエロティックで、蠱惑的な女として存在した。
こうして、タニちゃん問題(笑)は無事クリアした。
オギーうまい。
さて、このショーの主役はやはりなんといってもタイトルロールの檀ちゃんだと思う。
ドルチェ・ヴィータ@檀ちゃん。
甘く美しい毒。
ワタルくんはそれに巻き込まれる、観客の「視点」の位置。こう言っちゃなんだが、ワタルくんでなくてもいい配役。もちろん、ワタルくんだからあんなにかっこよくて素敵だったわけだけど。
檀ちゃんあっての作品だった。
今回の博多座公演ってのは、なんなのかしらねー。芝居にしろショーにしろ、檀ちゃん主役だよ。それどころか檀ちゃんがいなかったら企画から変わってたろうくらい、檀ちゃんが基盤になって作られてるよ。
伊達に専科入りして返り咲いたわけじゃないね。クリエイターに「彼女を主役になにか創造したい」と思わせる素材なんだもの。
檀れいという、毒を持った闇の聖女を得てはじめて、『ドルチェ・ヴィータ!』は成立した。
檀ちゃんは、純白の花嫁衣装よりは漆黒の喪服、無邪気な少女よりはすさんだ娼婦、幸福そうな恋人よりは寡黙な未亡人が似合う人。
外見だけなら聖女のようなたおやかな美しさを持っているのに。
その持ち味は闇と影を宿す。
この個性は、クリエイターを刺激するだろう。
闇の聖女で1本描きたくなるだろう。
おかげでタイトルロールだ。萌えと勢いのオタク作家齋藤くんの『BLUE MOON BLUE−月明かりの赤い花−』以来の、2度目のタイトルロール。
齋藤くんもまた、檀ちゃんをショーテーマである「赤い花」として、その毒部分を使った作品を書き上げていた。
この女に狂いたい。……そう思わせる存在の魔力を描く。
ドルチェ・ヴィータ@檀ちゃんは、最初無邪気に笑いながら登場する。いつか見た夢のように軽やかに、男たちを翻弄して駆け抜ける。
無邪気な美しい娘。
しかし、そこには毒が含まれている。美しさや笑い声に隠されて、ちらちらとしか見えないけれど。
いつまでも、彼女の涼やかな笑い声が耳に残る。
次に現れたときには、明確な毒が見える。
美しさが匂い立つ。
危険な香り、破滅の予感。
硬質なエロス。
すべては、彼女のために。
マスカレード、色彩の乱舞、闇と光のたむろする場所、神と魔の領域、人間たちの欲望、なにもかも。
狂ったように回る万華鏡の中、彼女だけが静止する。
美を堪能しました。
それこそが耽美ってもんでしょう。
ありがとうオギー、ありがとう檀ちゃん。
とてつもなく美しかった。
さて、このショーの準主役はうめちゃんだと思うんだが。
ドルチェ・ヴィータ@だんちゃんと対をなす、「少女」役。
プログラム買ってないんで、役名わかんないんだけど。通し役か、あるいは精神的な上での同じ役だよね?
ドルチェ・ヴィータが幻想的な、ぎりぎりのラインにいる美女なのに対し、うめちゃんの少女は現実的なこちら側の女の子。
タニちゃん水夫にナンパされたり、ケロたちギャングにかどわかされそーになったり(笑)、果ては船で遭難したりと人生トラブル続き。
現実にいたはずの生身の少女が、非現実との境を彷徨い、最後は向こう側に行ってしまう。たとえ肉体は戻ってきても、魂は境界線を渡ったと思う。
えーらいこっちゃ。
うめちゃんは美しいし、見せ場である海神@ワタルとの激しいダンスシーンは見応えあったけど。
わたし的に、彼女はちとミスキャストなんだがなー。
堕ちていく少女、にはあまりにそのー、潤いがないというか。
うめちゃん個人は好きなんだけど。『バビロン』の豹柄の女のような、毒のある妖精の方がガラに合っているなー、と。
うめちゃんがいちばん得意な役は、タニの演じた両性具有的美女だと思う……タニがいなかったら、うめで見たかったわ、あの役。
このショーはヒロイン作品であって、男役は脇役なんだなー、としみじみ思う。作品の中心に、男たちがいないのよ。
でもそんなことを忘れさせるくらい、美しいのだ、舞台が。
またしても文字数がない……つづく。
オギーらしい毒が薄まっているとはいえ、消滅しているわけではなく、あちらこちらにちらちらと存在している状態。
この程度の濃度がちょうどいいんだと思う。
痛いほどではないから。
よりエンタメ作品になったと思う。
オギーの毒部分と、エンタメ部分がサンドイッチ状態、エンタメ部分の方が多い配分。これは博多座だから? タニちゃんという「陽」の力を持ったキャラの作用? 大劇になればトウコちゃんという「陰」の力を持ったキャラのカラーが強くなる?
いつも思うことだがオギーの作品で感心するのは、キャラクタの使い方だ。
今回すばらしかったのは、タニちゃん。
はっきりいってタニちゃんは、オギー作品に合わない。
明るすぎる。幼すぎる。素直すぎる。
これは持ち味なので、本人の責任じゃない。持って生まれた天分ってやつだ。
この異分子を、オギーがどう料理するか。
ふつうのヅカ作家なら、キャラの持ち味なんか関係なく番手で役を振るのにね。そして自ら作品のレベルを下げるもんなんだけど(平気なのか、あきらめているのか、そもそも気づいてないのか? 自作を貶めることになるのに)。
オギーはただでは転ばないなあ。
タニちゃんをそのまま使ったのでは、作品が壊れる。レベルが低くなる。
作品を守るために、仕掛けをした。
『パッサージュ』のころ、ワタルくんは見事に耽美シーンには使ってもらえなかった。かっこいい使い方はしてもらえたけど、他はイロモノ扱い。あの巨体で女役で脚出してただ揺れながら銀橋を歩くだけ、とか、ひでー使われ方だった。
そのワタルくんをしのぐイロモノだよな、タニちゃん。
ワタルに耽美はできないけど、男っぽいかっこよさは表現できる人だ。
だから『ドルチェ・ヴィータ!』でもオギー世界を表現するパーツとしてのワタルは、男らしさ・かっこよさで統一されていた。
しかしタニには、それもない。
耽美もできないし、ハードさもない。
かわいい陽性のアイドル。……オギー世界といちばん遠い場所にいるこの個性を、どうすりゃいいんだよ?!
ええ、見事な処理の仕方でしたよ。
タニちゃんは、女として使われた。
男役のタニちゃんは、どうあがいてもオギー世界に相容れない。だから、女役にしてしまった。
性転換することで生まれる艶を毒に変えて、オギー世界に放り込んだ。
うまい。
タニが男役として使われているのは、オギーらしいシーンは一切なく、エンタメシーンのみだ。徹底している。
コメディチックなシーンなら、タニはタニのままでOK。華やかでかわいらしく、アイドルとしての天分が無理なく発揮される。
しかしオギー本領発揮の耽美シーンでは、タニは邪魔。いらない。なにをやっても健康的すぎるから。でも番手的に使わなくてはならない。
そこで、性転換、だよ。
女になったタニは、ものすっげー魅力的でした。
持って生まれた華とスタイルの良さが、あざやかに開花していた。
宙組ショーで女装したときはでかくてオカマくさかったのに、『ドルチェ・ヴィータ!』では違和感なし。
美しくエロティックで、蠱惑的な女として存在した。
こうして、タニちゃん問題(笑)は無事クリアした。
オギーうまい。
さて、このショーの主役はやはりなんといってもタイトルロールの檀ちゃんだと思う。
ドルチェ・ヴィータ@檀ちゃん。
甘く美しい毒。
ワタルくんはそれに巻き込まれる、観客の「視点」の位置。こう言っちゃなんだが、ワタルくんでなくてもいい配役。もちろん、ワタルくんだからあんなにかっこよくて素敵だったわけだけど。
檀ちゃんあっての作品だった。
今回の博多座公演ってのは、なんなのかしらねー。芝居にしろショーにしろ、檀ちゃん主役だよ。それどころか檀ちゃんがいなかったら企画から変わってたろうくらい、檀ちゃんが基盤になって作られてるよ。
伊達に専科入りして返り咲いたわけじゃないね。クリエイターに「彼女を主役になにか創造したい」と思わせる素材なんだもの。
檀れいという、毒を持った闇の聖女を得てはじめて、『ドルチェ・ヴィータ!』は成立した。
檀ちゃんは、純白の花嫁衣装よりは漆黒の喪服、無邪気な少女よりはすさんだ娼婦、幸福そうな恋人よりは寡黙な未亡人が似合う人。
外見だけなら聖女のようなたおやかな美しさを持っているのに。
その持ち味は闇と影を宿す。
この個性は、クリエイターを刺激するだろう。
闇の聖女で1本描きたくなるだろう。
おかげでタイトルロールだ。萌えと勢いのオタク作家齋藤くんの『BLUE MOON BLUE−月明かりの赤い花−』以来の、2度目のタイトルロール。
齋藤くんもまた、檀ちゃんをショーテーマである「赤い花」として、その毒部分を使った作品を書き上げていた。
この女に狂いたい。……そう思わせる存在の魔力を描く。
ドルチェ・ヴィータ@檀ちゃんは、最初無邪気に笑いながら登場する。いつか見た夢のように軽やかに、男たちを翻弄して駆け抜ける。
無邪気な美しい娘。
しかし、そこには毒が含まれている。美しさや笑い声に隠されて、ちらちらとしか見えないけれど。
いつまでも、彼女の涼やかな笑い声が耳に残る。
次に現れたときには、明確な毒が見える。
美しさが匂い立つ。
危険な香り、破滅の予感。
硬質なエロス。
すべては、彼女のために。
マスカレード、色彩の乱舞、闇と光のたむろする場所、神と魔の領域、人間たちの欲望、なにもかも。
狂ったように回る万華鏡の中、彼女だけが静止する。
美を堪能しました。
それこそが耽美ってもんでしょう。
ありがとうオギー、ありがとう檀ちゃん。
とてつもなく美しかった。
さて、このショーの準主役はうめちゃんだと思うんだが。
ドルチェ・ヴィータ@だんちゃんと対をなす、「少女」役。
プログラム買ってないんで、役名わかんないんだけど。通し役か、あるいは精神的な上での同じ役だよね?
ドルチェ・ヴィータが幻想的な、ぎりぎりのラインにいる美女なのに対し、うめちゃんの少女は現実的なこちら側の女の子。
タニちゃん水夫にナンパされたり、ケロたちギャングにかどわかされそーになったり(笑)、果ては船で遭難したりと人生トラブル続き。
現実にいたはずの生身の少女が、非現実との境を彷徨い、最後は向こう側に行ってしまう。たとえ肉体は戻ってきても、魂は境界線を渡ったと思う。
えーらいこっちゃ。
うめちゃんは美しいし、見せ場である海神@ワタルとの激しいダンスシーンは見応えあったけど。
わたし的に、彼女はちとミスキャストなんだがなー。
堕ちていく少女、にはあまりにそのー、潤いがないというか。
うめちゃん個人は好きなんだけど。『バビロン』の豹柄の女のような、毒のある妖精の方がガラに合っているなー、と。
うめちゃんがいちばん得意な役は、タニの演じた両性具有的美女だと思う……タニがいなかったら、うめで見たかったわ、あの役。
このショーはヒロイン作品であって、男役は脇役なんだなー、としみじみ思う。作品の中心に、男たちがいないのよ。
でもそんなことを忘れさせるくらい、美しいのだ、舞台が。
またしても文字数がない……つづく。
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