花組公演『La Esperanza(ラ・エスペランサ)−いつか叶う−』の感想。

 タンゴダンサーを目指す青年カルロス@寿美礼ちゃんは、画家志望の娘ミルバ@ふーちゃんと出会う。夢を追う者同士として意気投合したふたりは、それぞれコンテストで優勝したら一緒に「自由に生きるペンギン」を見に行く約束をした。
 しかし前途洋々だったはずのふたりの未来は絶たれ、ペンギンを見に行くこともできなかった。カルロスはホテルのボーイ、ミルバは遊園地で働きはじめた。夢を失っても前向きに生きていくふたりが、ペンギンを見に行く未来はあるのか?

 演出家は、正塚晴彦。
 ……正塚だってば。
 正塚のはずなのに。

 なんか、愉快なことに(笑)。

 正塚晴彦といえば、自分探し。主人公は後ろ向きでささくれていてかっこつけていて斜に構えていて、うだうだ悩んで同じところで足踏みする自分に陶酔しているのがお約束。
 主人公が斜め向いて生きてるから、物語の展開も重苦しいものが多い。
 たとえコメディであったとしても、基本スタンスは変わらない。
 正塚作品は追従を許さない独特のカラーがある。

 なのに。
 どーしたことだ、『La Esperanza』。

 ぜんぜん正塚らしくないんですけど?(笑)

 主人公カルロスが、ものすっげー軽やかだ。
 重さ命の正塚が、何故こんな軽い男を主人公に??

 カルロスの巻き込まれた事件自体はけっこー重い。
 兄@さおたのギャング抗争に巻き込まれ、平和な日常が一転、兄逮捕、ダンスパートナー・フラスキータ@あすかは流れ弾に当たってダンサー生命断絶、当然カルロスもダンス業界追放。
 夢に向かって真面目に生きていた青年がこんな目にあったら、ふつー人生はかなむって。絶望して曲がっちゃうって。

 今までの正塚作品の主人公なら、この事件をきっかけに暗いすさんだ男になって、裏社会で自堕落に生きていたりするのよ。
 まず影のある主人公が描かれて、あとから「彼の暗い過去」ってことでこの事件が語られるのが定番よね。

 ところがどっこい。
 カルロスはへこたれない。
 なにがあっても前向き、自然体。
 絶頂で摘み取られた夢も、パートナーへの罪悪感も、不本意なはずの新しい仕事も、みんな受け止め真面目に生きていく。

 どどどどうしたんだ正塚! 
 こんなのぜんぜん、正塚らしくないよっ?!

 カルロスだけじゃない。
 彼を取り巻く人々も、みんな軽やか。
 なにかしら問題は抱えているにしろ、悲劇ぶったり斜に構えたりせず、ナチュラルに人生に向かい合っていく。

 悪人ゼロ。みんないい人(笑)。

 
 いやあ、ウケました。この「正塚らしくなさ」に。

 そっか、新しいことがやってみたかったんだね、正塚せんせー。
 今までとまったくチガウ主人公で、チガウ物語を書いてみたかったんだねえ。

 狂言回しのゴールドバーグ@まやさんに、それをちゃんと台詞で言わせているよ。狙いはカルロスたちの「軽やかさ」にあるのだと。
 やたら深刻ぶって、重い重い話と苦悩だけを描けばそれで、「いい話」になるわけじゃない。悲劇だけがドラマチックなわけじゃない。明るくさりげないなかにある真実だって、同じように大切な輝きがあるはず。

 新しい作風に挑戦するにあたり、失敗したらシャレになんねー、と思ったのか、物語の構成自体は「これでもか正塚」のワンパターンで来た。
 スーツもの、すれ違う群衆たち、そのなかのメインキャラ、人生やら青春を歌うコーラス、「今まで5万回は観た」正塚定番の演出。
 なるほどなー、絵柄を変えなければ「いつもと同じ」と観客に誤解させることが可能だもんな。前回の大劇場作品『Romance de Paris』に似たシーンをことさら挿入したりしてさ。似てるのは表面だけだけど、その効果は大きいわ。観客を騙すことができる。
 大衆は柔軟性に乏しいから、あからさまに新しいものを突きつけると拒絶反応起こすから。「ほーら、いつもと同じだよー」と見せかけて、その奥で好き勝手なことをしている(笑)。知能犯だわ。

 本質部分は変わっていない。
 どんなに軽やかに笑ってやりすごしていても、カルロスは正塚作品らしい「心」を持っている。
 迷いなくゆるぎない生き方の中に、永遠の命題である「自分探し」が息づいている。

 
 まったくもって、おどろいた。ウケた。
 「一見ものすごーく正塚」な絵柄で、その実「ものすっげー正塚らしくない話」で、だけどやっぱり本質は「絶対正塚晴彦」な作品なんて。

 ついこの間、谷先生も「谷先生らしくない作品」を書いてたよねえ。
 どうしたんだ、みんな? なにかあったの? 新しい作風にチャレンジする、新しい自分を欲するよーななにかあったの?(笑)

 なんにせよ、わたしはとてもたのしんだ。

 『La Esperanza』、わたしはこの作品が好き。

 キャラクタのひとりひとりが好き。
 わたしも自由を求めるペンギンだから。

 
 でもな、正塚せんせー。
 声を大にして言いたい。

 コレ、大劇場向きの作品じゃないから。

 キャラクタの心を読まないとついていけないよーな芝居は、大劇向きじゃないって!
 小説みたいだよ、この話。行間読ませてナンボでしょ。
 行間読まない人には、ただのつまんない話だって!(笑)

 行間読まない人、よ。読めない人、じゃない。
 読まなくていいんだもん、ふつーは。大劇場作品にそんなもんいらないからね。
 必要じゃないから、あえて読まない。そのスタンスは正しいの。
 まちがってるのは、正塚の方。

 今まで見た中で、最高に大劇向きじゃなかった。ドラマシティですらない。バウホール一直線だわ。
 こんな作品を堂々と大劇場で上演しちゃダメだよー。わたしはたのしいけどさー(笑)。

 
 この作品の失敗は「そもそも大劇場向きでない」ということに限るのよねー。バウホールで上演していたら、なんの問題もなかったのに。
 それ以外の失敗部分は、狂言回しの存在だろうなぁ。いや、これもひょっとしたら、「大劇場だから」ってことで無理矢理付け加えて自爆したクチかもなー。
 そもそも小ホール向けの「行間を読む芝居」だったから、それをちょっとでもわかりやすくするために、作ったんだよねえ、あの狂言回し役って。
 大劇場だから、という努力はわかるけど、失敗してるし。
 誰が見てもいらないよねえ、アレ。
 いつも思うことだが正塚、まやさんのキャラと演技力に甘えきって、手を抜いているよねえ。外枠だけ作ってまやさんに丸投げしているというか。意義があやふやでもラインが甘くても、まやさんならなんとかしてくれるからいいや、ていう姿勢が透けて見えるっていうか。
 だからいつもいつも、まやさんの役は「余分」に見える。いなくてもいいのに、無理矢理いる。いらない役なのに、まやさんの力で存在感を持ってしまうので、作品自体のバランスが崩れる。
 まやさんがいい役者だからこそ、こんな使い方はしないで欲しいわ。
 

 大劇以外で再演してくんねーかなー、少人数で。
 それがこの作品の正しい姿だと思うよ。

       

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