好きだった彼が女になっても、変わらずに愛し続けられますか?

 タカラヅカが特異である最大の要因が、「男役」というものの存在だ。
 女性が演じる男性。「舞台」という「嘘」を共有する世界においての「男性」。
 現実がどうあれ、そこにいる瞬間、その人はまちがいなく男性なのだ。

 他の世界ではありえない。
 タレントやアイドルを好きになっても、その人が芸能界を引退することはあっても、肉体的に亡くなることがあったりしても、存在自体が「消滅」することだけはない。その人はたしかに生きて生活しているのに、その存在はすでにない……なんてことは、ありえない。
 タカラヅカの男役は、退団と共に消滅する。
 「男性」としてのその人はいなくなってしまう。

 ヴァーチャルだと割り切りながらも、心の一部分で真剣に恋していた理想の男性が、肉体だけをこの世に残し、魂が消えてしまうんだ。

 記憶喪失の青年と知り合い、真摯に愛し合っていたのに、あるとき彼の記憶が戻り、それと同時に彼は記憶を失っていた間の記憶を失ってしまった。
 元の記憶を取り戻した彼はもう、わたしの愛したあの人じゃない。変わらぬ姿で彼はそこにいるのに、わたしの愛したあの人ではないんだ。

 アンドロイドだと知りながら、わたしはあの人を愛した。真剣に愛し合ったのに、トラブルにより彼は破棄され、代わりに同じ型の新しいアンドロイドが支給された。なにひとつ変わらない同じロットの製品だけど、同じ姿をしているけれど、同じ声同じ表情でわたしを呼ぶけれど、彼はわたしの愛した彼ではないんだ。

 てなもんだよな。

 せつなくて、いいよなー。ほろり。

 タカラヅカは夢の世界。夢はどこかしら、せつないものを孕んでいる。
 いつかくる「永遠の別れ」を知りながら、懸命に今を生きる。愛する。人間という愛しくも愚かな生き物特有のちから。

 そのせつない愛しさを噛みしめてきましたともさ、成瀬こうきトークショー in 東京オペラシティ。

 2年前、この日記を書き始めたばかりのころ、わたしの愛したノーブルな紳士は夢の花園を卒業していった。
 大好きだったよ。彼の気品、そして端正さ。彼という存在を通し、わたしが今ここで女という性に生まれることができてよかったと思わせてくれる、そんな男性だった。
 心をときめかせながら、舞台に立つ彼を見つめたさ。

 その、わたしの愛した彼が、「女性」として、そこにいた。

 …………えーっと。
 醍醐味だよなあ……タカラヅカの。
 他では味わえないよなあ。好きな男が女になってしまった、なんて体験。

 もともとわたしは舞台の上のナルセくんしか知らないので、舞台を降りた彼がどんな人だったのかは知りません。お茶会とかも参加したことないしな。
 男役でなくなったからといって、たぶんトーク自体は変わっていないだろうと思う。
 それでも、目の前にいる人は、もうあのころの彼ではないのだなあとしみじみ思った。

 考えてみれば、わたしは好きな男役の卒業後の生の姿を見るのは、これがはじめてだったんだ。

 舞台を観に行ったりはしたよ。「女優」としてがんばっている姿を応援しに行ったりはしたさ。
 でも、素顔のトークショーははじめてだ。

 だもんでとーっても、興味深い。
 ステージの上の彼(彼女)が、というより、自分自身の心が。

 せつなさが快感……。
 過ぎ去ってしまった時、還らない美しいものを、傷みごと愛しているこの感じが……た、たのしいかも……。

 
 わたしはもともと気が多く、またしつこいので、一度好きになった人はずっと好き。
 性別が変わったって、好きなままだよ(笑)。

 だからナルセのことだってずっと好き。
 男役じゃなくても好き。

 それがわかっているから、余計に痛む胸を安心してあやしていられるというか。

 花は散るから美しい。
 終わりがあるからこそ、今を大切だと思える。
 咲いては散り春はめぐり陽はまた昇る。

 同じ花は咲かなくても、わたしは春を愛しいと思う。

          ☆

 そーいや去年はたしか、コミケのあと幕張までゆうひくんのトークショーに駆けつけたんだよねえ。
 今回もまた、コミケ3日目のあとダッシュでナルセくんのトークショー。スケジュールきつすぎだっての(笑)。

        

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