母は言う。
「アンタとアタシはそっくりだ。アンタの考えていることはアタシの考えていることで、アンタが言っていることはアタシが言っていることで、あまりに同じすぎてときどき気持ち悪くなる」

 わたしと母は似ている。
 顔だけでなく、性格も。

 それは認める。

 しかしわたしは、母と同じでは決してない。

 わたしは母を尊敬しているし愛しているが、その反面、ひどく反感を持っているし、否定している。
 わたしたちは似ているけれど、似ていない。似ていないけれど、似ている。

 彼女はわたしの禁忌だ。

   
 てなことをつらつら考えつつも眺めておりました、スパークヒップス公演『マルゴ〜王妃にして王女〜』
 作・演出・荻田浩一、出演・沢樹くるみ、岩田翼、香坂千晶。
 ややこしい時代、ややこしい人々。ヒロイン・マルゴ@くるみちゃんを中心に、その母@香坂千晶、3人のアンリ@岩田翼の人生が交錯する。
 激動の時代が縦軸にあり、それにマルゴと母、マルゴを愛した3人の男たちが絡むわけだ。

 時代と出来事、そして母と男たちを語りながら絡まりながら、浮き上がってくるのは結局ひとりの女。ヒロイン・マルゴ。……そしてある意味マルゴですらない、なにか。

 3人の役者がずーっと舞台にいる音楽もなにもないストレートプレイなんだが、だんだんわたしは一人芝居を見ている気になっていた。
 たしかにそこには3人いるし、そのうち男はひとりで何人もの役を演じているし、で、舞台上だけでいえば、結構な数の登場人物がいたわけなんだが。

 それでも、一人芝居を観ている気がした。

 浮かび上がってくるのが、ひとりの姿だからだ。

 そのひとつの魂を描くためだけに他の役者がおり、他のキャラクタがいる。
 マルゴことマルグリッド・ド・ヴァロワ、カトリーヌ・ド・メディシス、アンリ・ド・ブルボン、アンリ3世、ギーズ公アンリ。彼らを通して見えてくるのは……。

 人はなにゆえに人と関わるのか。
 とりあえず、母と娘の葛藤というカタチで指し示された作品だったからわたしはぼーっとうちのマミーのことなんぞを思い出しながら観ていたが。
 母と娘というのはわかりやすい例題であるにすぎない。
 基本は、人と人。
 人は人と関わることで、自分自身を見る。

 どんな人でも、その人はあなたの鏡だ。わたしの鏡だ。
 人は、相手を通してしか自分を見ることができない。

 投げかける言葉、感情の起伏、立場、立ち位置、距離と感覚。
 相手によって、浮かびあがる自分という魂のかたち。

 鏡としての意味を他のなにより痛烈に持つ母という存在は、たしかにわたしの禁忌である。
 だが、母以外のすべてのものもまた、本当はわたしの禁忌であるのだ。

 とまあ、そーゆー痛さですわな。『マルゴ〜王妃にして王女〜』は。わたしにしてみりゃ。

 
 しかし、もっと別の劇場でやってくれよ、スパークヒップス。
 ヅカ以外のオギー作品ってば、どいつもこいつも寝転がり率高すぎ。舞台の床を転がって演技するなら、床が見える劇場でやってよ。1列目の人以外見えないよーな箱でやらないでよー。
 いつものことだが、舞台がよく見えずにストレスを感じた。役者が寝転がるたび、あるいはしゃがむたびに見えなくなるもんだから、前の席の人から順番に首を動かすのよ。人の頭越しにちょっとでも見えないかと。で、波のように観客全部が首を振るわけだ。疲れる。
 舞台稽古とかでは気づかないんだろうな、前に人がいないから。それとも、1列目以外の人は見えなくてもいいや、と開き直ってやってるのかなあ。

       

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