少年が大人になるとき。@新人公演スサノオ
2004年4月20日 タカラヅカ とにもかくにも、雪組新人公演『スサノオ』。
すっげえ良かった。
感動した。
素直に。
はじめのうちは、せっかく新公だからいろんな人を見ようと思ってきょろきょろしていたんだけど、途中から腹を据えた。
スサノオを見よう。
タイトルロール、主人公スサノオ。
彼だけを見よう。
もちろんそれはわたしが、スサノオを演じるキムくんのファンだということもある。
しかし、それ以上にこの作品における、「主人公の重さ」は格別だということに、気づいたせいもあった。
わたし、本公演は3回観たんだよね。
1回目はテーマばかり叫び続けるキムシンの恥ずかしさに身もだえし、2回目は構成について考えて観た。
そして3回目で「主人公」というものについて考えた。
他の作品はどうあれ、この『スサノオ』という作品は、正しくタイトルロール、主役が主役の物語だ。
ひとり芝居でもいいくらいに、主役にかかる負担が大きい。
主役の出来云々で、ストレートに作品の質が左右される。
本来宝塚歌劇は団体芸であり、トップスターを中心に構成されるとはいえ、「作品より人重視」で、観客は勝手に自分のご贔屓を見ていれば良かった。だからこそ、多少作品がアレでも、ファンは劇場に通った。
しかしこの『スサノオ』という作品は、ほんっとーに、主人公ひとりを中心にすすむ。
主人公を見ずに、他の役をやっている自分のご贔屓さんを見ていると、物語から取り残される。
ストーリーにはついていけても、主人公の内面についていけなくなる。ストーリーよりテーマを中心に進む物語だからだ。
3回目の観劇で「おいおい、それってヅカとしてどうよ」と思いつつもスサノオひとりに焦点を当てて全編を観、達観した。
この作品は、主人公を見なければどーしよーもないのだ、と。
だから、新公でもスサノオだけを見た。
いかなる場合も、彼だけを追った。
視点固定の三人称小説を読むみたいに。
わたしは、スサノオ@キムだけを追った。
そして、彼と共に悩み、泣き、立ち上がり、絶望し、狂気の果てに希望を得た。
気持ちよかった。
舞台を観ている1時間半、わたしは別の人生を追体験していた。
スサノオという、愛すべき若者とともにあった。
最初、彼は少年だった。
うちのめされた少年。
大切な人に拒絶された、行き場のない男の子。
拒絶されたのは何故? 彼が愚かだから。
己れが愚かであるがゆえに愛する人を失ったという、その事実に、今、胸から血を流し続けている男の子。
少年スサノオと、その姉アマテラスは「男と女」について争った。
男と女?
姉と弟の口論は、そのまま「彼と彼女」のことに、わたしには思えた。
弟は、愛する姉に必要として欲しかった。男の方が尊い、と主張することで、女である姉に尊い自分を必要として欲しかった。
だが姉は拒絶した。
そのことに、弟は逆上する。「男をいらない女など、男の方でも願い下げだ!」……おれをいらないというあなたなんか、いらない!
逆上し、暴力をふるったところで、女の愛は得られないのに。
幼い彼は、彼女の心を得たくて暴れることしかできなかった。
そして彼女は、かなしく傷ついたまま、姿を隠した。
残されたのは男……いや、少年。幼い魂。
己れの愚かさで、大切な人を失ってしまった、慟哭するひとりの若者。
スサノオは荒ぶる神。「力」という才能を持って生まれた存在。
でも、その力ゆえに彼は、愛する姉を失った。ふるさとも追われた。
存在意義を否定され、すべてを失い、迷い続ける彼の前に現れたひとりの少女、イナダヒメ。
やみくもに「力」を否定していた……つまり、自分の存在を否定していたスサノオに、イナダヒメは答えの方向を指し示す。
イナダヒメ自身、「暴力」によって傷ついた存在だ。それでもなお、彼女は立ち上がり、泥の中から光るものを見つけ出す。闇の中に希望を見つける。
イナダヒメの指し示す方向に、スサノオは光を見る。
ただ自分を否定してうずくまっていた少年は、新たに一歩を踏み出す。
そのとき彼は、「男」の顔になる。
ヤマタノオロチの森へ足を踏み入れたとき、スサノオはすでに「男」の顔になっていた。
オペラグラス、キムくん固定だったわたしは、おどろいた。
顔がチガウ……。
あのかわいらしい美少年じゃ、ない。
大人の男だ……。
そっから先のスサノオの迷いも慟哭も狂気も、まちがいなく「主人公」である「青年」のものだった。
モラトリアムの少年が、幼い迷いを露呈しているのではなかった。
これほど大人びたキムくんを見たのは、はじめてだ。中日のディディエ役のときなんか、大人の男のはずなのに、子どもに見えたのにな。
イナダヒメと共にオロチを退治に行く、と決めるまでのシーン、あそこにスサノオというキャラクタのいちばん大きな変化を持ってくるとは思わなかった。
少年から、男へ。
エンタメの快感、カタルシス。
アマテラス@となみちゃんが、本役のガイチ以上に「女」としての姿と存在感を持っていたことも関係しているかもしれない。
姉への愛は、少年ゆえの愛。自己愛や母性なるものへの依存心を隠した愛。だからこそアマテラスはスサノオを突き放したのだろうと思える、そんな幼い愛。
そうやって行き場を失ったスサノオが、イナダヒメ@シナちゃんと出会い、「居場所」を見つけた。
自己否定から、肯定へ。
よかったね、スサノオ。イナダヒメと出会えてよかったね。救われたね。……そう、心から思える。
だからこそ、スサノオは変わる。少年から、男へ。
姉の愛を求めて暴れていた幼い愛から、大切なものを守る男の愛へ。
すでに「男」の顔をするよーになったスサノオだから、そのあとのシーンはひたすらかっこよく、またドラマティックだ。本役コムちゃんのセンシティヴな少年の迷いもそりゃ魅力的だが、キムくんの自我に目覚めた若者の迷いもまた魅力的さ。
力強く、スサノオは物語を駆け抜けていく。
本公演とはまったく別のスサノオだった。
その、圧倒的な魅力。
彼が空気を動かしているのがわかった。
正しくタイトルロールだ。彼が主役だ。物語の中心だ。
いやあ、すごかったよ。
出演者の挨拶は終わったのに、拍手が鳴りやまない。
まさかのカーテンコール。
気持ちのいい新人公演だった。
新公の感想によくある、出演者みんなががんばっていたから気持ちいい、じゃなく、ほんとーに、「舞台」として、「商業演劇」として、快感だった。
たのしかったよ。心から。
すっげえ良かった。
感動した。
素直に。
はじめのうちは、せっかく新公だからいろんな人を見ようと思ってきょろきょろしていたんだけど、途中から腹を据えた。
スサノオを見よう。
タイトルロール、主人公スサノオ。
彼だけを見よう。
もちろんそれはわたしが、スサノオを演じるキムくんのファンだということもある。
しかし、それ以上にこの作品における、「主人公の重さ」は格別だということに、気づいたせいもあった。
わたし、本公演は3回観たんだよね。
1回目はテーマばかり叫び続けるキムシンの恥ずかしさに身もだえし、2回目は構成について考えて観た。
そして3回目で「主人公」というものについて考えた。
他の作品はどうあれ、この『スサノオ』という作品は、正しくタイトルロール、主役が主役の物語だ。
ひとり芝居でもいいくらいに、主役にかかる負担が大きい。
主役の出来云々で、ストレートに作品の質が左右される。
本来宝塚歌劇は団体芸であり、トップスターを中心に構成されるとはいえ、「作品より人重視」で、観客は勝手に自分のご贔屓を見ていれば良かった。だからこそ、多少作品がアレでも、ファンは劇場に通った。
しかしこの『スサノオ』という作品は、ほんっとーに、主人公ひとりを中心にすすむ。
主人公を見ずに、他の役をやっている自分のご贔屓さんを見ていると、物語から取り残される。
ストーリーにはついていけても、主人公の内面についていけなくなる。ストーリーよりテーマを中心に進む物語だからだ。
3回目の観劇で「おいおい、それってヅカとしてどうよ」と思いつつもスサノオひとりに焦点を当てて全編を観、達観した。
この作品は、主人公を見なければどーしよーもないのだ、と。
だから、新公でもスサノオだけを見た。
いかなる場合も、彼だけを追った。
視点固定の三人称小説を読むみたいに。
わたしは、スサノオ@キムだけを追った。
そして、彼と共に悩み、泣き、立ち上がり、絶望し、狂気の果てに希望を得た。
気持ちよかった。
舞台を観ている1時間半、わたしは別の人生を追体験していた。
スサノオという、愛すべき若者とともにあった。
最初、彼は少年だった。
うちのめされた少年。
大切な人に拒絶された、行き場のない男の子。
拒絶されたのは何故? 彼が愚かだから。
己れが愚かであるがゆえに愛する人を失ったという、その事実に、今、胸から血を流し続けている男の子。
少年スサノオと、その姉アマテラスは「男と女」について争った。
男と女?
姉と弟の口論は、そのまま「彼と彼女」のことに、わたしには思えた。
弟は、愛する姉に必要として欲しかった。男の方が尊い、と主張することで、女である姉に尊い自分を必要として欲しかった。
だが姉は拒絶した。
そのことに、弟は逆上する。「男をいらない女など、男の方でも願い下げだ!」……おれをいらないというあなたなんか、いらない!
逆上し、暴力をふるったところで、女の愛は得られないのに。
幼い彼は、彼女の心を得たくて暴れることしかできなかった。
そして彼女は、かなしく傷ついたまま、姿を隠した。
残されたのは男……いや、少年。幼い魂。
己れの愚かさで、大切な人を失ってしまった、慟哭するひとりの若者。
スサノオは荒ぶる神。「力」という才能を持って生まれた存在。
でも、その力ゆえに彼は、愛する姉を失った。ふるさとも追われた。
存在意義を否定され、すべてを失い、迷い続ける彼の前に現れたひとりの少女、イナダヒメ。
やみくもに「力」を否定していた……つまり、自分の存在を否定していたスサノオに、イナダヒメは答えの方向を指し示す。
イナダヒメ自身、「暴力」によって傷ついた存在だ。それでもなお、彼女は立ち上がり、泥の中から光るものを見つけ出す。闇の中に希望を見つける。
イナダヒメの指し示す方向に、スサノオは光を見る。
ただ自分を否定してうずくまっていた少年は、新たに一歩を踏み出す。
そのとき彼は、「男」の顔になる。
ヤマタノオロチの森へ足を踏み入れたとき、スサノオはすでに「男」の顔になっていた。
オペラグラス、キムくん固定だったわたしは、おどろいた。
顔がチガウ……。
あのかわいらしい美少年じゃ、ない。
大人の男だ……。
そっから先のスサノオの迷いも慟哭も狂気も、まちがいなく「主人公」である「青年」のものだった。
モラトリアムの少年が、幼い迷いを露呈しているのではなかった。
これほど大人びたキムくんを見たのは、はじめてだ。中日のディディエ役のときなんか、大人の男のはずなのに、子どもに見えたのにな。
イナダヒメと共にオロチを退治に行く、と決めるまでのシーン、あそこにスサノオというキャラクタのいちばん大きな変化を持ってくるとは思わなかった。
少年から、男へ。
エンタメの快感、カタルシス。
アマテラス@となみちゃんが、本役のガイチ以上に「女」としての姿と存在感を持っていたことも関係しているかもしれない。
姉への愛は、少年ゆえの愛。自己愛や母性なるものへの依存心を隠した愛。だからこそアマテラスはスサノオを突き放したのだろうと思える、そんな幼い愛。
そうやって行き場を失ったスサノオが、イナダヒメ@シナちゃんと出会い、「居場所」を見つけた。
自己否定から、肯定へ。
よかったね、スサノオ。イナダヒメと出会えてよかったね。救われたね。……そう、心から思える。
だからこそ、スサノオは変わる。少年から、男へ。
姉の愛を求めて暴れていた幼い愛から、大切なものを守る男の愛へ。
すでに「男」の顔をするよーになったスサノオだから、そのあとのシーンはひたすらかっこよく、またドラマティックだ。本役コムちゃんのセンシティヴな少年の迷いもそりゃ魅力的だが、キムくんの自我に目覚めた若者の迷いもまた魅力的さ。
力強く、スサノオは物語を駆け抜けていく。
本公演とはまったく別のスサノオだった。
その、圧倒的な魅力。
彼が空気を動かしているのがわかった。
正しくタイトルロールだ。彼が主役だ。物語の中心だ。
いやあ、すごかったよ。
出演者の挨拶は終わったのに、拍手が鳴りやまない。
まさかのカーテンコール。
気持ちのいい新人公演だった。
新公の感想によくある、出演者みんなががんばっていたから気持ちいい、じゃなく、ほんとーに、「舞台」として、「商業演劇」として、快感だった。
たのしかったよ。心から。
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