名もなき民衆に、革命の鐘は鳴る(笑)。@スサノオ +チケット発売日。
2004年4月10日 タカラヅカ 雪組公演『スサノオ』2回目。
早いもんだねえ、もう1週間経つのか。
欲に負けて、ふらふらと大劇場へ。
いや、金がないからA席なんだけどな。
それでももう一度、冷静になって観てみたくて。
というのも、キムシン。
ええ、初日に観たときは、キムシンが恥ずかしくて、それでわたしのアタマはストップしていたからさ。
エンタメであることを忘れ、身の程を顧みず、自分の主義主張を声高にキャラクタに叫ばせることが目的となってしまった、恥ずかしいカンチガイ作品。
クリエイターが陥りやすい罠。つーか、ありがちすぎてすっげーかっこわるい失敗。
ひとごとながらそれが恥ずかしくて恥ずかしくて、冷静に舞台をたのしめなかった。
だから2回目の今回は、「そーゆーもんなんだ」ということを踏まえた上で、そちらに意識を取られすぎないよう注意して観た。
……えーと……。
あきらめていたから、あの身の置きどころのない恥ずかしさは軽減されたけれど、やっぱりコレ、どうかなあ……。
あれほど恥ずかしくテーマを叫び続けていたくせに、ラストのオチは曖昧なんだよね。
それならいっそ、全部台詞で叫ばせときゃいいのに。なんで肝心な部分だけ煙に巻いているの?
観客へ疑問や余韻を残しているというよりは、「あ、力尽きたんだな」という、作者の限界を感じてしまった。
途中がどうあれ、ラストをびしりと締めてくれたら、だまされるのになー。
この作品、何年かあとでも別のカンパニーででもいいから、書き直さないかな。
現在の社会情勢に対しての作者の叫びがうるさすぎるのをなんとかして、台詞のあるあらすじでしかない今の脚本を根本から練り直し、もう一度、「完成版」を見せてくれないかなぁ。
と思うほどにはやはり、魅力があると思うのよ。
ただの駄作なら、手を加えて再び、なんて思わない。
勢いに乗っているクリエイターが、その才能と傲りのままに書ききった作品ってのは、たとえ粗があろうと失敗作だろうと、他の地味な佳作にはない「華」がある。
作者の自己愛の強さや陶酔っぷりが、魅力になることってのが、あるのよー。
ふつーの人は、そーゆー恥ずかしい部分は隠すもんだから。日常を平穏無事に生きるために。
でもクリエイターたるもの、そーゆー恥ずかしい部分をさも自慢そーに垂れ流すのもヨシ!! その感覚のとんでもなさが、力になっているんだから!
てことで、この『スサノオ』を叩き台にした、まっとーなエンタメ作品を望む。
せめて『王家』ぐらいには、ストーリーのあるものを作ってくれ。
キムシン、演出はうまいもんなあ。
好きなんだけどなあ。
北京の民もそうだったけど、今回の大和の民も、「観客との一体化」がツボなのよ。
顔のない民衆、同じ服を着て同じ髪型をした名もなき民衆は、みんな無責任で、卑怯だ。
「名もなき民衆」であることへの、傲り。
どーせあたしは一般人だしぃ。
だって、みんなもやってるしぃ。
個人ではなく、姿のない「みんな」というくくりだから、いつも高みから見下ろしていられる。安全なところで、文句や批判だけを口にして、気楽でいられる。
弱くて善良であるという、免罪符を掲げて。
『鳳凰伝』にしろ『スサノオ』にしろ、「民衆」は同じスタンスで描かれているよね。
北京の民も、大和の民も、「個」の区別を否定した姿で現れ、「群」として暴走する。
そして彼らは舞台を飛び出し、観客席を走り回る。
彼らは、わたしたちなのだ。
わたしたち観客は、物語の中の「民」のひとりとしてその空間に存在している。
だからこそ、「名前」のある主人公たちの苦悩が、生き様が、胸に突き刺さってくるんだ。
とゆーのはねえ、うまいと思うのよ。ツボなのよ。
『鳳凰伝』は主人公たちが暴走気質だったんで、民衆の痛さよりテーマがどうこうより、ストーリーのアップダウンで力尽くでハッピーエンドにダイビングした。辻褄が合っているとかいないとか、キャラクタ気*がいばっかじゃん、だとかさえ、その流れの激しさで全部押し流した感じ。エンタメとして、ソレはアリだ。
しかし『スサノオ』は……。
キムシンの基本スタンスは変わっていないのに、物語の構築力は退化してるよ……しょぼん。
テーマを投げかけたのなら、最後まできちんと作ってくれ。表現してくれ。
初日よりも冷静に観てしまったからでしょう。
水くんの歌が、すっげーやばやばに聞こえた(笑)。
いやあ、わたしったら正直者。
“男の好みが同じ”デイジーちゃんが、「水くんの歌は、かなりアレですから」と口を濁すのに対し、
「えー? ぜんっぜん、気にならなかったよ! 水くんかっこいー」
と自信満々に返してしたのに。(もちろんデイジーちゃんは「ええ、私は水くん好きだから、あの歌でもぜんぜん気にならないんですけど!」と断言。ああ、友よ・笑)
やっだー、ほんとにアレだわ、水くんの歌!!
初日はあまりに素敵な水しぇんにめろめろで、歌のアレさがまったく耳に届いていなかった模様(笑)。
恥ずかしいのはわたしね。やーだー(笑)。
☆
ところで本日は、旧・三番街プレイガイド、現・阪急ターミナルプラザではじめてのチケット発売がありました。
すげえよ!
スタッフのみなさん、めっちゃ礼儀正しい。言葉丁寧、物腰やわらか。
はじめて、「客」として扱われたよ……。
三番街プレイガイドでの発売日にチケットを購入しようとすると、「客」扱いはしてもらえなかったからな。
命令形で怒鳴りつけられ、不機嫌な態度で応対され、「売ってやってるんだ、感謝しろ」という一貫した扱いをされていたからなー。
それにすっかり慣れていたけど、そーだよ、最初にあそこのカウンターを利用したときは、頭ごなしに叱られてびっくりしたもんだった……店員が客を叱る……命令する……まだわたしも若かったから、「ごめんなさい」を繰り返し、縮こまりながらチケットを買ったなあ。なにも悪いことはしてなかったんだが。
客扱いされないのがあたりまえだったから、この応対のちがいには心底おどろいた。
アンシャン・レジームの終焉ですわ皆様っ。
自由・平等・博愛。ああ、革命のベルが鳴る。
わたしたちが人間扱いされる日がやってきましたわ皆様っ。
……ええ、そして。
その丁寧で礼儀正しい親切なスタッフさんたちは、とーっても仕事が遅かったです……(笑)。
旧プレイガイドの方々は、接客態度に問題有りすぎだったけど、客にいばりちらしても仕方ないのかと思わせる程度には、仕事が速かった……。
一長一短?
いやいや、いくら仕事ができても、あの態度は客商売の態度じゃねーよ。
新スタッフも、仕事が速くなるのに比例して、過酷な発売日の労働に身も心も疲れ果て、いつしかあんなすさんだ対応をするようになっていくのかしら。
動向を見守る。
早いもんだねえ、もう1週間経つのか。
欲に負けて、ふらふらと大劇場へ。
いや、金がないからA席なんだけどな。
それでももう一度、冷静になって観てみたくて。
というのも、キムシン。
ええ、初日に観たときは、キムシンが恥ずかしくて、それでわたしのアタマはストップしていたからさ。
エンタメであることを忘れ、身の程を顧みず、自分の主義主張を声高にキャラクタに叫ばせることが目的となってしまった、恥ずかしいカンチガイ作品。
クリエイターが陥りやすい罠。つーか、ありがちすぎてすっげーかっこわるい失敗。
ひとごとながらそれが恥ずかしくて恥ずかしくて、冷静に舞台をたのしめなかった。
だから2回目の今回は、「そーゆーもんなんだ」ということを踏まえた上で、そちらに意識を取られすぎないよう注意して観た。
……えーと……。
あきらめていたから、あの身の置きどころのない恥ずかしさは軽減されたけれど、やっぱりコレ、どうかなあ……。
あれほど恥ずかしくテーマを叫び続けていたくせに、ラストのオチは曖昧なんだよね。
それならいっそ、全部台詞で叫ばせときゃいいのに。なんで肝心な部分だけ煙に巻いているの?
観客へ疑問や余韻を残しているというよりは、「あ、力尽きたんだな」という、作者の限界を感じてしまった。
途中がどうあれ、ラストをびしりと締めてくれたら、だまされるのになー。
この作品、何年かあとでも別のカンパニーででもいいから、書き直さないかな。
現在の社会情勢に対しての作者の叫びがうるさすぎるのをなんとかして、台詞のあるあらすじでしかない今の脚本を根本から練り直し、もう一度、「完成版」を見せてくれないかなぁ。
と思うほどにはやはり、魅力があると思うのよ。
ただの駄作なら、手を加えて再び、なんて思わない。
勢いに乗っているクリエイターが、その才能と傲りのままに書ききった作品ってのは、たとえ粗があろうと失敗作だろうと、他の地味な佳作にはない「華」がある。
作者の自己愛の強さや陶酔っぷりが、魅力になることってのが、あるのよー。
ふつーの人は、そーゆー恥ずかしい部分は隠すもんだから。日常を平穏無事に生きるために。
でもクリエイターたるもの、そーゆー恥ずかしい部分をさも自慢そーに垂れ流すのもヨシ!! その感覚のとんでもなさが、力になっているんだから!
てことで、この『スサノオ』を叩き台にした、まっとーなエンタメ作品を望む。
せめて『王家』ぐらいには、ストーリーのあるものを作ってくれ。
キムシン、演出はうまいもんなあ。
好きなんだけどなあ。
北京の民もそうだったけど、今回の大和の民も、「観客との一体化」がツボなのよ。
顔のない民衆、同じ服を着て同じ髪型をした名もなき民衆は、みんな無責任で、卑怯だ。
「名もなき民衆」であることへの、傲り。
どーせあたしは一般人だしぃ。
だって、みんなもやってるしぃ。
個人ではなく、姿のない「みんな」というくくりだから、いつも高みから見下ろしていられる。安全なところで、文句や批判だけを口にして、気楽でいられる。
弱くて善良であるという、免罪符を掲げて。
『鳳凰伝』にしろ『スサノオ』にしろ、「民衆」は同じスタンスで描かれているよね。
北京の民も、大和の民も、「個」の区別を否定した姿で現れ、「群」として暴走する。
そして彼らは舞台を飛び出し、観客席を走り回る。
彼らは、わたしたちなのだ。
わたしたち観客は、物語の中の「民」のひとりとしてその空間に存在している。
だからこそ、「名前」のある主人公たちの苦悩が、生き様が、胸に突き刺さってくるんだ。
とゆーのはねえ、うまいと思うのよ。ツボなのよ。
『鳳凰伝』は主人公たちが暴走気質だったんで、民衆の痛さよりテーマがどうこうより、ストーリーのアップダウンで力尽くでハッピーエンドにダイビングした。辻褄が合っているとかいないとか、キャラクタ気*がいばっかじゃん、だとかさえ、その流れの激しさで全部押し流した感じ。エンタメとして、ソレはアリだ。
しかし『スサノオ』は……。
キムシンの基本スタンスは変わっていないのに、物語の構築力は退化してるよ……しょぼん。
テーマを投げかけたのなら、最後まできちんと作ってくれ。表現してくれ。
初日よりも冷静に観てしまったからでしょう。
水くんの歌が、すっげーやばやばに聞こえた(笑)。
いやあ、わたしったら正直者。
“男の好みが同じ”デイジーちゃんが、「水くんの歌は、かなりアレですから」と口を濁すのに対し、
「えー? ぜんっぜん、気にならなかったよ! 水くんかっこいー」
と自信満々に返してしたのに。(もちろんデイジーちゃんは「ええ、私は水くん好きだから、あの歌でもぜんぜん気にならないんですけど!」と断言。ああ、友よ・笑)
やっだー、ほんとにアレだわ、水くんの歌!!
初日はあまりに素敵な水しぇんにめろめろで、歌のアレさがまったく耳に届いていなかった模様(笑)。
恥ずかしいのはわたしね。やーだー(笑)。
☆
ところで本日は、旧・三番街プレイガイド、現・阪急ターミナルプラザではじめてのチケット発売がありました。
すげえよ!
スタッフのみなさん、めっちゃ礼儀正しい。言葉丁寧、物腰やわらか。
はじめて、「客」として扱われたよ……。
三番街プレイガイドでの発売日にチケットを購入しようとすると、「客」扱いはしてもらえなかったからな。
命令形で怒鳴りつけられ、不機嫌な態度で応対され、「売ってやってるんだ、感謝しろ」という一貫した扱いをされていたからなー。
それにすっかり慣れていたけど、そーだよ、最初にあそこのカウンターを利用したときは、頭ごなしに叱られてびっくりしたもんだった……店員が客を叱る……命令する……まだわたしも若かったから、「ごめんなさい」を繰り返し、縮こまりながらチケットを買ったなあ。なにも悪いことはしてなかったんだが。
客扱いされないのがあたりまえだったから、この応対のちがいには心底おどろいた。
アンシャン・レジームの終焉ですわ皆様っ。
自由・平等・博愛。ああ、革命のベルが鳴る。
わたしたちが人間扱いされる日がやってきましたわ皆様っ。
……ええ、そして。
その丁寧で礼儀正しい親切なスタッフさんたちは、とーっても仕事が遅かったです……(笑)。
旧プレイガイドの方々は、接客態度に問題有りすぎだったけど、客にいばりちらしても仕方ないのかと思わせる程度には、仕事が速かった……。
一長一短?
いやいや、いくら仕事ができても、あの態度は客商売の態度じゃねーよ。
新スタッフも、仕事が速くなるのに比例して、過酷な発売日の労働に身も心も疲れ果て、いつしかあんなすさんだ対応をするようになっていくのかしら。
動向を見守る。
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