通り過ぎたあなたを想う。@ジョゼと虎と魚たち
2004年1月29日 映画
またしても、医者からコンタクト禁止令が出た。
コンタクトレンズを入れられない、ということは、視界が悪い状態で生きるということ。眼鏡はコンタクトほど視力の矯正ができないからねえ。
つーことで、洋画は見られないな、邦画だ邦画。字幕を読まずに済む邦画を見るべ。
なににしようか。
てことで、『ジョゼと虎と魚たち』。
監督・犬童一心、出演・妻夫木聡、池脇千鶴。
公開からもうずいぶん経ったし、そろそろ空いているころだろうと思って出かけたんだけど、甘かったよ。
なんですか、この満員具合は。
上演1時間も前に行ったのに、手に入った整理券はかなり後ろの番号。そして実際、わたしの少し後に来た人たちは「お立ち見になりますが、よろしいですか?」だった。
はじまって見れば、もちろん満席、立ち見ぎっしりの盛況ぶり。映画館内、空気薄っ。
終わったあとも、次回の上演を待つ人(座席列だけでなく、立ち見列も)、でロビーはいっぱい。
梅田だからかな? いつも自転車で行くあの映画館なら、ここまで混むことはないんだろうな、田舎だから。
てゆーか、若者しかいないよ、映画館。
おばさん、肩身狭いわ。こーゆー映画は、若者のモノなんだろーなー、とも思うよ。
でもおばさんも、昔は若者だったから、こーゆー映画が好きなのさ。
ひとことで言うなら、恋の物語。
一昔前のフォークソングみたいな。
若いふたりが出会って恋に落ちて、若さゆえに恋におぼれ、若さゆえに傷ついて別れる。
振り返ると、その傷跡さえもが愛しいような、恥ずかしくてもどかしい、あたたかくてやさしい、せつない記憶。
ふつーの大学生・恒夫@妻夫木聡が出会った脚の不自由な少女ジョゼ@池脇千鶴。
古い感覚の老婆に育てられたジョゼは、現実社会を知らない。だっておばーちゃん、「足が不自由な孫」は「外聞が悪いから世間に知られてはいけない」と思いこみ、家に閉じこめて育てたんだもの。福祉制度も知らないしね。
とーぜんジョゼは学校にも行っていない。おばーちゃんがゴミ捨て場から拾ってくる本だけが、彼女の知識の泉。教科書もエロ本も主婦マンガも、純文学も同じように読み、吸収する柔軟な知性を持つジョゼ。
そんなジョゼに、恒夫は「外の世界」を教える。
光の届かない海の底にいたジョゼに、美しい地球を見せる。教える。
太陽を、空を、波を、砂浜を。
そして、恋を。セックスを。
幸福を。
生きる、ということを。
そして。
そして、別れを。
ジョゼはエキセントリックだし、身体障害者というネタを使ってはいるけれど、そこにあるのはふつーの恋物語。
たぶん、この世の誰もがあたりまえに経験するだろう、出会いと別れ。
だからこんなに、痛い。
せつない。
誰もが、「永遠」が存在しないことを知っている。
……知っている、よね?
でもさ、若いうちはソレ、意識にのぼってこないんだよね。目の前の現実がめまぐるしくて、活気に満ちているから。
永遠なんかないよ。
あなたはいつか彼を愛さなくなる、ぼくもまた、いつかあなたを愛さなくなる……サガンの小説にあるように。
だけど今、つないだ手が永遠であるって、信じたい。信じたいんだ。
渇望が、破片になってきらきら光る。
恒夫は漠然と有限であることを感じながら、ジョゼは事実として覚悟しながら。
明日には存在しないかもしれない束の間のしあわせが、いくつかの言葉をあえて飲み込んだうえでの微笑みが、波のように寄せては返し、きらめいて消える。
「ぼくが、逃げたからだ」−−これが、最後の台詞。
こんな台詞で終わる、美しくせつない物語。
ハッピーエンドでしょ? このラスト。
わたしはそう思っているよ。
コンタクトレンズを入れられない、ということは、視界が悪い状態で生きるということ。眼鏡はコンタクトほど視力の矯正ができないからねえ。
つーことで、洋画は見られないな、邦画だ邦画。字幕を読まずに済む邦画を見るべ。
なににしようか。
てことで、『ジョゼと虎と魚たち』。
監督・犬童一心、出演・妻夫木聡、池脇千鶴。
公開からもうずいぶん経ったし、そろそろ空いているころだろうと思って出かけたんだけど、甘かったよ。
なんですか、この満員具合は。
上演1時間も前に行ったのに、手に入った整理券はかなり後ろの番号。そして実際、わたしの少し後に来た人たちは「お立ち見になりますが、よろしいですか?」だった。
はじまって見れば、もちろん満席、立ち見ぎっしりの盛況ぶり。映画館内、空気薄っ。
終わったあとも、次回の上演を待つ人(座席列だけでなく、立ち見列も)、でロビーはいっぱい。
梅田だからかな? いつも自転車で行くあの映画館なら、ここまで混むことはないんだろうな、田舎だから。
てゆーか、若者しかいないよ、映画館。
おばさん、肩身狭いわ。こーゆー映画は、若者のモノなんだろーなー、とも思うよ。
でもおばさんも、昔は若者だったから、こーゆー映画が好きなのさ。
ひとことで言うなら、恋の物語。
一昔前のフォークソングみたいな。
若いふたりが出会って恋に落ちて、若さゆえに恋におぼれ、若さゆえに傷ついて別れる。
振り返ると、その傷跡さえもが愛しいような、恥ずかしくてもどかしい、あたたかくてやさしい、せつない記憶。
ふつーの大学生・恒夫@妻夫木聡が出会った脚の不自由な少女ジョゼ@池脇千鶴。
古い感覚の老婆に育てられたジョゼは、現実社会を知らない。だっておばーちゃん、「足が不自由な孫」は「外聞が悪いから世間に知られてはいけない」と思いこみ、家に閉じこめて育てたんだもの。福祉制度も知らないしね。
とーぜんジョゼは学校にも行っていない。おばーちゃんがゴミ捨て場から拾ってくる本だけが、彼女の知識の泉。教科書もエロ本も主婦マンガも、純文学も同じように読み、吸収する柔軟な知性を持つジョゼ。
そんなジョゼに、恒夫は「外の世界」を教える。
光の届かない海の底にいたジョゼに、美しい地球を見せる。教える。
太陽を、空を、波を、砂浜を。
そして、恋を。セックスを。
幸福を。
生きる、ということを。
そして。
そして、別れを。
ジョゼはエキセントリックだし、身体障害者というネタを使ってはいるけれど、そこにあるのはふつーの恋物語。
たぶん、この世の誰もがあたりまえに経験するだろう、出会いと別れ。
だからこんなに、痛い。
せつない。
誰もが、「永遠」が存在しないことを知っている。
……知っている、よね?
でもさ、若いうちはソレ、意識にのぼってこないんだよね。目の前の現実がめまぐるしくて、活気に満ちているから。
永遠なんかないよ。
あなたはいつか彼を愛さなくなる、ぼくもまた、いつかあなたを愛さなくなる……サガンの小説にあるように。
だけど今、つないだ手が永遠であるって、信じたい。信じたいんだ。
渇望が、破片になってきらきら光る。
恒夫は漠然と有限であることを感じながら、ジョゼは事実として覚悟しながら。
明日には存在しないかもしれない束の間のしあわせが、いくつかの言葉をあえて飲み込んだうえでの微笑みが、波のように寄せては返し、きらめいて消える。
「ぼくが、逃げたからだ」−−これが、最後の台詞。
こんな台詞で終わる、美しくせつない物語。
ハッピーエンドでしょ? このラスト。
わたしはそう思っているよ。
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