正塚晴彦はもうダメなのかもしれない……。

 と、暗い気持ちになった、雪組公演観劇。

 わたしはずーっと、正塚ファンだったのよね。だから、どんなに駄作を見せられても、「次こそは」と思って気持ちを盛り上げていた。
 しかし。
 今回ふと、我に返ったよ。
 いったいわたし、いつからまともな正塚作品を見ていないんだろう?

 正塚作品で「よかった」と思えるモノは99年の『SAY IT AGAIN』までさかのぼらなければならなかった。
 00年の『デパートメント・ストア』も好きだけど、アレはショーだからあんな単純な筋立てでなんとかなってたけど、芝居だったら駄作だったかも。

 もう4年も「駄作」しか作ってないのか、この人。

 もうダメなのかな? 壊れちゃったの? 涙。

 というくらい、完全無欠な駄作っぷりを繰り広げてくれた『Romance de Paris』。

 タイトルからして、ダメダメ感漂ってるよね……。なんなの、このどーでもいいタイトル。やる気ナシ?
 まだ、『Don’t cry princess』というタイトルだったときには、希望もあったんだがな。せっかくの正塚らしいタイトルから、どーでもいいやる気のないタイトルに変更になったときに、危惧はしたよ。やばいんじゃないか、ってな。杞憂に終わって欲しかったんだが……。

 ヴァンサン@コム姫の経営するクラブは今大忙し。なんでも某国の将軍様が王女ナディア様@まーちゃん付きでご来店。某国とヴァンサンの父は長いおつきあいとか。
 ばたばたしているだけの、散漫な導入部分ののちに、よーやく本編。某国で先日ヴァンサンの店に来ていたあの将軍がクーデターを起こし、国王を脅迫するために王女ナディアを捕獲しようとしている、というのだ。
 ヴァンサンはどーゆーわけか、ナディアをかくまうことにした。ほんとに、どーゆーわけか。あの、命がけなんですけど? 政治で戦争で、ふつーの酒場のあんちゃんが「なんとなく」することじゃないですけど……。
 パパが死んだから、パパの意志を大切にしたいとかなんとか、たわごとをほざいておりますが、そのわりには肝心の「パパとヴァンサン」の関係はなんにも描かれておりません。
 さて、せっかくクーデターという大騒動が起こっているにもかかわらず、この大事件、主役たちとは関係ないところで問題なく解決してしまう。はあ?
 いちばんのクライマックスになるだろう、クーデター解決シーンはなく、平和なパリでヴァンサンが、将軍のスポンサーになっていた義兄のディディエ@いっぽくんをやりこめて、事件解決。はあ?
 ディディエとの対決がいちばん重要だというなら、何故それまでろくにディディエという人物について書き込みがないんだ? 「ヴァンサンとディディエ」の関係が描かれてないんだ?
 主役の動機が薄いまま、そしてメリハリもないまま終わったクーデター事件。
 すっかり忘れていたヒロイン・ナディアとヴァンサンはとってつけたようなデートをする。
 このデートが、長い長い。
 なんの事件もなく、ストーリーに関係もないシーンがだらだら続く。
 そして突然、ヴァンサンはナディアにキスをする。はあ?
 ヴァンサンはべつに、ナディアのことなんとも思ってなかったよねえ? クーデターの間中、それらしいシーンはなかったよねえ? 台詞もなかったよねえ?
 なのに何故、こんなストーリーが終わった後に、とってつけたようなラブシーンなの?
 そしてふたりは、どっかで見たような別れのシーンを迎える。END。

 とにかくえんえんえんえんえんえん、つづくモノローグ。
 モノローグで「解説」しないとなにも表現できないらしい。
 舞台として演劇としては、表現できないらしい。
 舞台で演劇なのに。

 
 ねえ。絶望していいですか? 作家、正塚晴彦に。

 
 『Love Insurance』『Practical Joke』『カナリア』『追憶のバルセロナ』と、すべてに言えることは「ストーリーの組み立てが間違っている」ということだ。
 物語を作り慣れていない人とかがよくやる失敗。
 主人公と物語が乖離している。
 主人公というのは、物語を回す人。動かす人。主人公が動かなければ、物語も動かない。
 作者の「言いたいこと」は、物語とは「別」なの。「言いたいこと」さえ言えばそれが「物語」になるわけじゃないの。
 「言いたいこと」は「物語」が正しく回ってはじめて、表現できるものなの。

 この作品、なにがしたかったの?

 王女ナディアとの恋愛?
 家族と自分?

 「自分探し」は正塚永遠のテーマだろうから、それはもう度外視するとして。
 上のふたつのテーマが中途半端に存在し、かつ、ストーリーで手を抜いたとしか思えない仕上がりになっている。

 どうしてこの物語、「クライマックス」がないの?
 盛り上がるシーンがないんですけど。
 同じテンションでだらだらと流れ、終わる。
 「出来事」の盛り上がりもなければ、「感情」の盛り上がりもない。

 クライマックスがない、ての、『追憶のバルセロナ』のときも書いたな(あのころはまだわたし、日記を書きはじめたところだから、とっても歯に衣着せて書いていたわねえ・笑)。
 『Practical Joke』もクライマックスがなかったな。『カナリア』は途中で物語が別の方向に行って、戻ってこなくなってたっけ。

 「クライマックスを書けない」っての、作家として致命的な欠陥じゃないか?

 もちろん、「モノローグでなにもかも説明する」ってのも、物語を作り慣れていない人とかがよくやる失敗。
 いちばん簡単だからだ。
 言葉にして解説するの。
 そりゃー、自分で言ってしまったらなんでもできるさ、その通りさ。でもそれじゃあ、なんのために「作品」なのよ?
 たとえばだ、「死にたいくらい絶望した」ことを表現するのに、直接的なことはなにも言わせずに会話やシーンで表現してみせるのが醍醐味ってもんだろ? それをただふつーに立っているだけの主人公に、「そのとき俺は死にたいくらい絶望した」ってモノローグのテープを流して終わり、かい。素人の書く小説みたいだよ、それは。
 プロの作品とは思えないよ……。

 駄作かあ。壊れてしまったのかあ。
 まあ、駄作ったって、壊れたっつったって、植田・谷ほどではないからマシ? せいぜい、ケイコ先生レベルの駄作? って、今さら新人作家と並列されるのって、どうよ。

 植田作品なんかだと、どーあがいてもただの駄作だけど、正塚作品はとりあえず、「ここをこうすれば、なんとかなるのに」って思えるあたりが、歯がゆいなあ。

 物語は、3つのことが同時進行している。
 クーデター。
 ヴァンサンとナディアの恋
 ヴァンサン家のお家騒動

 このうえにさらに、いつもの「自分探し」が加わっているわけだ。

 複数の物語を同時進行する能力がないのなら、ひとつにしぼれよ……。
 3つの物語を全部やろうとして、全滅。……なんて悲しい現実。

 3つの物語のうち、どれかひとつを大筋に据える。
 次に、キャラを立てる。
 そして、その大筋とキャラに、残りのふたつを適度に薄めて絡める。主流と傍流のはきちがえがないように、適度に。

 もちろん、今回の失敗の理由のひとつに、キャストの力不足もあったと思うさ……。
 いちばんの失敗は、いっぽくんだと思うけどね……ディディエという複雑で大人の演技が必要な役に、きらきらしてるけど明らかに実力不足な若手を配したことは、作品のレベルを大きく下げているよ。
 主役のコム姫も、正塚的「男の美学」を表現するにはまったく足りていなかったし。
 反対に、じゅりちゃんは完璧に役不足。なんというもったいない使い方をするんだ。ディディエは何故彼ではいけなかったんだ? もっとも、じゅりちゃんのやっていたラシッドという役も、他の人がやっていたらさらにとんでもなくわけわからん役に成り下がっていたかもしれんが。

 いろいろ考えちゃったよ。
 3つの物語のうち、どれを本筋にしたらどうなるか。

 つーことで、文字数が足りないので以下翌日欄。


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