オギー・オギー・オギー@バビロン+前楽さよならショー
2002年12月24日 タカラヅカ そういえば、最近イベント目白押しで、星組のショーと新人公演の感想を書いていなかったな。
とゆーことで、ショー『バビロン』のこと。
じつは、行って来ましたもう一度。
やっぱりどーしても、もう一度オギーのショーが観たくてさ。
手に入ったチケットは前楽、2階の1列目センター。ありがとうインターネット。
さよならショー観て、盛大に泣いてきました。
んで、オギー作の『バビロン』。
2回目を観て、わたしがこのショーにさほどハマらないことを再確認。
わたしが求めている「オギー」とはちがうから。
わたしがオギーに求めるものは、「痛さ」と「絶望」なんだわ。『パッサージュ』やこの間観た『左眼の恋』、あれくらいの「むきだしの絶望」が欲しかった。
どうして『バビロン』に痛みが少ないのかは、わかっている。主人公が、タータンだからだ。
タータンには、土臭い力強さと、血の通った前向きさがある。
それが悪いと言ってるんじゃないよ。それが、彼女の個性、持ち味。
そして今回オギーは、タータンの持ち味を殺すことなく作品を描いた。そーゆーことだ。
それは、正しい。
これはタータンのさよなら公演だ。そこで趣味全開の「絶望」やら「破滅の耽美」なんぞをやらかされたら、ファンはたまったもんじゃない。
半ばでタータンが力強く歌うよね。「自己肯定と未来への希望」の歌。……うわー、オギー作品とは思えない前向きっぷり。でもこれが「香寿たつき」だ。タータンらしさだ。
オギー全開、ではないし、わたしの趣味でもないけれど、ちゃんと濃くて美しい作品になっている。
オギー、いい仕事してんじゃん。
『パッサージュ』はオギー全開、美しさにだまくらかされて油断して観ていると、絶望の奈落へ突き落とされたもんだったが、あれもまた、主役の個性に合わせてのことだった。
あ、誤解しないでね。『パッサージュ』の主役はトドロキじゃないよ。
主人公は、コム姫です。
コム姫のもつ、「無邪気な毒」と「あやうい煌めき」があってこそ成り立った作品。
トドは『パッサージュ』の主役にはなれない。何故なら彼もまた、タータンとはちょっとちがうにしろ、「地に足が着いた」個性を持つから。
トドには「日本刀が持つ硬質な輝き」はあっても、オギー作品が求める「硝子の繊細な艶」は持たないんだよなー。
だからコム姫主役、トドはその「無機質な美しさ」に焦点をあてた使われ方をした。
適材適所。すばらしい。
『バビロン』で唯一オギーらしいのが、第三景「浮遊する摩天楼」……俗に言う「白い鳩」のシーン。
オギーはいちばん要になるシーンに、タイトルをそのままつけるからなあ(笑)。今回も、サブタイトル(タイトルはタカラヅカであることの言い訳、サブタイトルこそがオギーにとっての本タイトルでしょう)まんまを、ここに持ってきたか。
ここは、「痛い」です。オギー本来の持つ「痛さ」と「絶望」に満ちています。
とゆーのもだ、ここの主役はタータンじゃないからなんだよな(笑)。
このシーンの主役は、かよこちゃん。
もしもかよこ主役で作っていいならば、『バビロン』はどうなっていたんだろう。
オギー全開だったろうな。……考えただけでもこわい。
ヅカのスター制度がなかったら……と、考えてしまう一瞬。いやせめて、これがタータンの退団公演ではなく、数ある公演のひとつなら。コム姫主役で『パッサージュ』を作ってしまったよーに、かよちゃん主役で作られたものを観てみたかった……。心の叫び。
朝澄けいというのは、稀有な存在だ。
クリエイターの心をくすぐる個性を持っている。
コム姫がきよらかでありながら明確な毒を持つのに対し、かよこちゃんは「真っ白」だ。涼やかだ。
絶対の、白。
人間であれば、誰もが色を持つ。濁りを持つ。だが、朝澄けいはそれを持たない「純白」を表現できるという、とてつもない資質を持つ。
かよこ本人がどんな人かは知らないし、関係ない。役者としての持ち味の話だ。
これは、後天的に努力で手に入るもんじゃないでしょう。持って生まれるものだ。才能というやつだ。
朝澄けいは朝澄けいに生まれた。これは誰にも覆せない、真似できないこと。
そして、わたしたちは知っている。「絶対の、白」が存在しないことを。
それは、ありえないもの。
いずれ失われるもの。消えるもの。はかないもの。かなしいもの。
だから、「絶対の、白」はかなしい。そこにあるだけで、かなしい。
だから、「絶対の、白」は絶望なのだ。
朝澄けいの存在は、ただそれだけで、「絶望」なんだ。
なんて稀有な資質。
オギーはそれを、見事に表現しきってくれた。
オギー全開のこのシーンは、美しくてかなしくて、涙が出る。
欲を言うならば、鳩の間で迷う青年が、タータンでなければよかった。
彼女の持ち味は、チガウんだもんよー。そりゃ芸達者な人だから、よく演じてるけどさー。ナチュラルボーンなかよこ主役のシーンだから、「努力で演じている」人が真ん中にいるのは、作品と作家ファンには物足りないのだった……。
ああでもこれは、タータンがどう、じゃなく、まず最初に「作品」ありき、で語っているだけなの。タータンが悪いと言っているのではないの。どうせわたしは、痛いオギーファンよ。
オギーだなー、と思ったのはこのシーンと、強いて言えばプロローグだけ。
わたし的にはかなり、肩すかしでした。
それでも、美しかったよ。
なんだオギー、タカラヅカっぽいものも作れるんじゃない(笑)。
このショーは、一見ヅカのショーっぽくはないかもしれないけど、根っこはちゃんと「タカラヅカ」。
「絶望」と「破滅」をテーマにしてないもん(笑)。
つーか、『パッサージュ』みたいな「ヅカのショーのふりをした、絶望と破滅のススメ」みたいなもんばっか作ってたら、エンタメから遠くなるぞー。まあ、それもわたしは観てみたいけどな(ヅカとしてはまずいって)。
とにかく、オギーの次の作品に期待。
とゆーことで、さよならショーだったんだよね。
これって、オギー演出だよね?
わたしはそうだと思ったんだけど。
とゆーのも、テープの使い方が、ものすごかったから。
ゆうこちゃんのさよならバウ『LAST STEP』を彷彿としたよ。
まず、稽古場に入る星組生たちの声を、テープで流す。「おはよーございまーす」とか、みんなてんで勝手に喋っている。
それがあったあとに、ふつーのショーがはじまる。
んで、クライマックス。
とうこの歌う「ブルース・レクイエム」の、本来なら台詞が入るところ(シギさんの「いい子だったわ……」など、ボニー&クライドを語る部分)に、これまた星組生たちの「別れの挨拶」がテープで流れるんだわ。
「おつかれさまー」「お先に失礼しまぁす」「どこそこへ寄って行こうよぉ」などとゆー、「日常」の姿。
実際に「ある」、「別れ」の姿。
そして、そのテープにかぶるように登場する、「退団者」たち。
こ、これにはまいった。
だだ泣き。
これぞオギーだっっ。
この「痛さ」。
日常の「別れ」を、永遠の「別れ」に重ねやがるっ!!
日常が無邪気であればあるほど、今のこの、「永遠の別れ」が痛いんじゃないかっ。
わたしは『凍てついた明日』の大ファンだから、よりによってさよならショーのある公演を狙って行ったのは、期待していたからだ。
もう一度、クライドに会えることを。
実際、会えたさ。
タータンがクライドとなって舞台に現れた瞬間、わたし、両手握ってたよ。
両手を組み合わせていた。
神様! って、叫んでた。
「クライドのテーマ」を歌うタータンを観ながら、神様って、心の中でつぶやきつづけていた。
ここでなんで神様なのかわかんないんだけどさ。なんで祈りのポーズしてんのかわかんないんだけどさ。わたしべつに、宗教関係ない人なんですが。
でも、心がきしんで悲鳴あげてて、痛くて痛くて、もう神様にでもすがるしかないって感じ。
なんで祈るとき両手を組むのか、わかったよ。そうでもしないと、耐えられないからだ。自分の手を握る自分の力に支えられたよ。
クライドがいる。……それだけで、痛くて痛くて、しょうがなかった。涙が出るのは結果でしかない。わたしはたしかに泣いているけど、それはかなしいからじゃない。
心が、動いているからだ。
そして、とうこのジェレミーだよ……。もー、いっそ殺して、ってな苦しさ。痛さ。
とうこの歌で、ガイチが踊る。閉塞された、かなしい踊り。『凍てついた明日』そのままの振り付け。ぐんちゃんのさよならバウでもあったね。
『凍てついた明日』の再現ってだけで、息も絶え絶えだったのに。
そこに、無邪気な「日常の別れ」のテープが流れるのよ。
そして、「永遠の別れ」をするひとたちが、かなしいくらい美しい姿で、立っているのよ。
ちょっと待て、この人殺しぃぃぃいい!!
あんた、わたしを殺す気ですか。
今まで何度もオギーには殺されかけたけど。
またしても、殺されかけたよ。
痛くて、痛くて。
ああ、いいもん見せてもらったよ……。だからオギーはやめられない……。
とゆーことで、ショー『バビロン』のこと。
じつは、行って来ましたもう一度。
やっぱりどーしても、もう一度オギーのショーが観たくてさ。
手に入ったチケットは前楽、2階の1列目センター。ありがとうインターネット。
さよならショー観て、盛大に泣いてきました。
んで、オギー作の『バビロン』。
2回目を観て、わたしがこのショーにさほどハマらないことを再確認。
わたしが求めている「オギー」とはちがうから。
わたしがオギーに求めるものは、「痛さ」と「絶望」なんだわ。『パッサージュ』やこの間観た『左眼の恋』、あれくらいの「むきだしの絶望」が欲しかった。
どうして『バビロン』に痛みが少ないのかは、わかっている。主人公が、タータンだからだ。
タータンには、土臭い力強さと、血の通った前向きさがある。
それが悪いと言ってるんじゃないよ。それが、彼女の個性、持ち味。
そして今回オギーは、タータンの持ち味を殺すことなく作品を描いた。そーゆーことだ。
それは、正しい。
これはタータンのさよなら公演だ。そこで趣味全開の「絶望」やら「破滅の耽美」なんぞをやらかされたら、ファンはたまったもんじゃない。
半ばでタータンが力強く歌うよね。「自己肯定と未来への希望」の歌。……うわー、オギー作品とは思えない前向きっぷり。でもこれが「香寿たつき」だ。タータンらしさだ。
オギー全開、ではないし、わたしの趣味でもないけれど、ちゃんと濃くて美しい作品になっている。
オギー、いい仕事してんじゃん。
『パッサージュ』はオギー全開、美しさにだまくらかされて油断して観ていると、絶望の奈落へ突き落とされたもんだったが、あれもまた、主役の個性に合わせてのことだった。
あ、誤解しないでね。『パッサージュ』の主役はトドロキじゃないよ。
主人公は、コム姫です。
コム姫のもつ、「無邪気な毒」と「あやうい煌めき」があってこそ成り立った作品。
トドは『パッサージュ』の主役にはなれない。何故なら彼もまた、タータンとはちょっとちがうにしろ、「地に足が着いた」個性を持つから。
トドには「日本刀が持つ硬質な輝き」はあっても、オギー作品が求める「硝子の繊細な艶」は持たないんだよなー。
だからコム姫主役、トドはその「無機質な美しさ」に焦点をあてた使われ方をした。
適材適所。すばらしい。
『バビロン』で唯一オギーらしいのが、第三景「浮遊する摩天楼」……俗に言う「白い鳩」のシーン。
オギーはいちばん要になるシーンに、タイトルをそのままつけるからなあ(笑)。今回も、サブタイトル(タイトルはタカラヅカであることの言い訳、サブタイトルこそがオギーにとっての本タイトルでしょう)まんまを、ここに持ってきたか。
ここは、「痛い」です。オギー本来の持つ「痛さ」と「絶望」に満ちています。
とゆーのもだ、ここの主役はタータンじゃないからなんだよな(笑)。
このシーンの主役は、かよこちゃん。
もしもかよこ主役で作っていいならば、『バビロン』はどうなっていたんだろう。
オギー全開だったろうな。……考えただけでもこわい。
ヅカのスター制度がなかったら……と、考えてしまう一瞬。いやせめて、これがタータンの退団公演ではなく、数ある公演のひとつなら。コム姫主役で『パッサージュ』を作ってしまったよーに、かよちゃん主役で作られたものを観てみたかった……。心の叫び。
朝澄けいというのは、稀有な存在だ。
クリエイターの心をくすぐる個性を持っている。
コム姫がきよらかでありながら明確な毒を持つのに対し、かよこちゃんは「真っ白」だ。涼やかだ。
絶対の、白。
人間であれば、誰もが色を持つ。濁りを持つ。だが、朝澄けいはそれを持たない「純白」を表現できるという、とてつもない資質を持つ。
かよこ本人がどんな人かは知らないし、関係ない。役者としての持ち味の話だ。
これは、後天的に努力で手に入るもんじゃないでしょう。持って生まれるものだ。才能というやつだ。
朝澄けいは朝澄けいに生まれた。これは誰にも覆せない、真似できないこと。
そして、わたしたちは知っている。「絶対の、白」が存在しないことを。
それは、ありえないもの。
いずれ失われるもの。消えるもの。はかないもの。かなしいもの。
だから、「絶対の、白」はかなしい。そこにあるだけで、かなしい。
だから、「絶対の、白」は絶望なのだ。
朝澄けいの存在は、ただそれだけで、「絶望」なんだ。
なんて稀有な資質。
オギーはそれを、見事に表現しきってくれた。
オギー全開のこのシーンは、美しくてかなしくて、涙が出る。
欲を言うならば、鳩の間で迷う青年が、タータンでなければよかった。
彼女の持ち味は、チガウんだもんよー。そりゃ芸達者な人だから、よく演じてるけどさー。ナチュラルボーンなかよこ主役のシーンだから、「努力で演じている」人が真ん中にいるのは、作品と作家ファンには物足りないのだった……。
ああでもこれは、タータンがどう、じゃなく、まず最初に「作品」ありき、で語っているだけなの。タータンが悪いと言っているのではないの。どうせわたしは、痛いオギーファンよ。
オギーだなー、と思ったのはこのシーンと、強いて言えばプロローグだけ。
わたし的にはかなり、肩すかしでした。
それでも、美しかったよ。
なんだオギー、タカラヅカっぽいものも作れるんじゃない(笑)。
このショーは、一見ヅカのショーっぽくはないかもしれないけど、根っこはちゃんと「タカラヅカ」。
「絶望」と「破滅」をテーマにしてないもん(笑)。
つーか、『パッサージュ』みたいな「ヅカのショーのふりをした、絶望と破滅のススメ」みたいなもんばっか作ってたら、エンタメから遠くなるぞー。まあ、それもわたしは観てみたいけどな(ヅカとしてはまずいって)。
とにかく、オギーの次の作品に期待。
とゆーことで、さよならショーだったんだよね。
これって、オギー演出だよね?
わたしはそうだと思ったんだけど。
とゆーのも、テープの使い方が、ものすごかったから。
ゆうこちゃんのさよならバウ『LAST STEP』を彷彿としたよ。
まず、稽古場に入る星組生たちの声を、テープで流す。「おはよーございまーす」とか、みんなてんで勝手に喋っている。
それがあったあとに、ふつーのショーがはじまる。
んで、クライマックス。
とうこの歌う「ブルース・レクイエム」の、本来なら台詞が入るところ(シギさんの「いい子だったわ……」など、ボニー&クライドを語る部分)に、これまた星組生たちの「別れの挨拶」がテープで流れるんだわ。
「おつかれさまー」「お先に失礼しまぁす」「どこそこへ寄って行こうよぉ」などとゆー、「日常」の姿。
実際に「ある」、「別れ」の姿。
そして、そのテープにかぶるように登場する、「退団者」たち。
こ、これにはまいった。
だだ泣き。
これぞオギーだっっ。
この「痛さ」。
日常の「別れ」を、永遠の「別れ」に重ねやがるっ!!
日常が無邪気であればあるほど、今のこの、「永遠の別れ」が痛いんじゃないかっ。
わたしは『凍てついた明日』の大ファンだから、よりによってさよならショーのある公演を狙って行ったのは、期待していたからだ。
もう一度、クライドに会えることを。
実際、会えたさ。
タータンがクライドとなって舞台に現れた瞬間、わたし、両手握ってたよ。
両手を組み合わせていた。
神様! って、叫んでた。
「クライドのテーマ」を歌うタータンを観ながら、神様って、心の中でつぶやきつづけていた。
ここでなんで神様なのかわかんないんだけどさ。なんで祈りのポーズしてんのかわかんないんだけどさ。わたしべつに、宗教関係ない人なんですが。
でも、心がきしんで悲鳴あげてて、痛くて痛くて、もう神様にでもすがるしかないって感じ。
なんで祈るとき両手を組むのか、わかったよ。そうでもしないと、耐えられないからだ。自分の手を握る自分の力に支えられたよ。
クライドがいる。……それだけで、痛くて痛くて、しょうがなかった。涙が出るのは結果でしかない。わたしはたしかに泣いているけど、それはかなしいからじゃない。
心が、動いているからだ。
そして、とうこのジェレミーだよ……。もー、いっそ殺して、ってな苦しさ。痛さ。
とうこの歌で、ガイチが踊る。閉塞された、かなしい踊り。『凍てついた明日』そのままの振り付け。ぐんちゃんのさよならバウでもあったね。
『凍てついた明日』の再現ってだけで、息も絶え絶えだったのに。
そこに、無邪気な「日常の別れ」のテープが流れるのよ。
そして、「永遠の別れ」をするひとたちが、かなしいくらい美しい姿で、立っているのよ。
ちょっと待て、この人殺しぃぃぃいい!!
あんた、わたしを殺す気ですか。
今まで何度もオギーには殺されかけたけど。
またしても、殺されかけたよ。
痛くて、痛くて。
ああ、いいもん見せてもらったよ……。だからオギーはやめられない……。
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