そういえば、最近イベント目白押しで、星組のショーと新人公演の感想を書いていなかったな。

 とゆーことで、ショー『バビロン』のこと。

 じつは、行って来ましたもう一度。
 やっぱりどーしても、もう一度オギーのショーが観たくてさ。
 手に入ったチケットは前楽、2階の1列目センター。ありがとうインターネット。
 さよならショー観て、盛大に泣いてきました。

 んで、オギー作の『バビロン』。
 2回目を観て、わたしがこのショーにさほどハマらないことを再確認。

 わたしが求めている「オギー」とはちがうから。
 わたしがオギーに求めるものは、「痛さ」と「絶望」なんだわ。『パッサージュ』やこの間観た『左眼の恋』、あれくらいの「むきだしの絶望」が欲しかった。

 どうして『バビロン』に痛みが少ないのかは、わかっている。主人公が、タータンだからだ。

 タータンには、土臭い力強さと、血の通った前向きさがある。
 それが悪いと言ってるんじゃないよ。それが、彼女の個性、持ち味。
 そして今回オギーは、タータンの持ち味を殺すことなく作品を描いた。そーゆーことだ。
 それは、正しい。
 これはタータンのさよなら公演だ。そこで趣味全開の「絶望」やら「破滅の耽美」なんぞをやらかされたら、ファンはたまったもんじゃない。
 半ばでタータンが力強く歌うよね。「自己肯定と未来への希望」の歌。……うわー、オギー作品とは思えない前向きっぷり。でもこれが「香寿たつき」だ。タータンらしさだ。
 オギー全開、ではないし、わたしの趣味でもないけれど、ちゃんと濃くて美しい作品になっている。
 オギー、いい仕事してんじゃん。

 『パッサージュ』はオギー全開、美しさにだまくらかされて油断して観ていると、絶望の奈落へ突き落とされたもんだったが、あれもまた、主役の個性に合わせてのことだった。
 あ、誤解しないでね。『パッサージュ』の主役はトドロキじゃないよ。
 主人公は、コム姫です。
 コム姫のもつ、「無邪気な毒」と「あやうい煌めき」があってこそ成り立った作品。
 トドは『パッサージュ』の主役にはなれない。何故なら彼もまた、タータンとはちょっとちがうにしろ、「地に足が着いた」個性を持つから。
 トドには「日本刀が持つ硬質な輝き」はあっても、オギー作品が求める「硝子の繊細な艶」は持たないんだよなー。
 だからコム姫主役、トドはその「無機質な美しさ」に焦点をあてた使われ方をした。
 適材適所。すばらしい。

 『バビロン』で唯一オギーらしいのが、第三景「浮遊する摩天楼」……俗に言う「白い鳩」のシーン。
 オギーはいちばん要になるシーンに、タイトルをそのままつけるからなあ(笑)。今回も、サブタイトル(タイトルはタカラヅカであることの言い訳、サブタイトルこそがオギーにとっての本タイトルでしょう)まんまを、ここに持ってきたか。

 ここは、「痛い」です。オギー本来の持つ「痛さ」と「絶望」に満ちています。

 とゆーのもだ、ここの主役はタータンじゃないからなんだよな(笑)。

 このシーンの主役は、かよこちゃん。

 もしもかよこ主役で作っていいならば、『バビロン』はどうなっていたんだろう。
 オギー全開だったろうな。……考えただけでもこわい。
 ヅカのスター制度がなかったら……と、考えてしまう一瞬。いやせめて、これがタータンの退団公演ではなく、数ある公演のひとつなら。コム姫主役で『パッサージュ』を作ってしまったよーに、かよちゃん主役で作られたものを観てみたかった……。心の叫び。

 朝澄けいというのは、稀有な存在だ。
 クリエイターの心をくすぐる個性を持っている。
 コム姫がきよらかでありながら明確な毒を持つのに対し、かよこちゃんは「真っ白」だ。涼やかだ。
 絶対の、白。
 人間であれば、誰もが色を持つ。濁りを持つ。だが、朝澄けいはそれを持たない「純白」を表現できるという、とてつもない資質を持つ。
 かよこ本人がどんな人かは知らないし、関係ない。役者としての持ち味の話だ。
 これは、後天的に努力で手に入るもんじゃないでしょう。持って生まれるものだ。才能というやつだ。
 朝澄けいは朝澄けいに生まれた。これは誰にも覆せない、真似できないこと。

 そして、わたしたちは知っている。「絶対の、白」が存在しないことを。

 それは、ありえないもの。
 いずれ失われるもの。消えるもの。はかないもの。かなしいもの。

 だから、「絶対の、白」はかなしい。そこにあるだけで、かなしい。
 だから、「絶対の、白」は絶望なのだ。

 朝澄けいの存在は、ただそれだけで、「絶望」なんだ。
 なんて稀有な資質。

 オギーはそれを、見事に表現しきってくれた。
 オギー全開のこのシーンは、美しくてかなしくて、涙が出る。

 欲を言うならば、鳩の間で迷う青年が、タータンでなければよかった。
 彼女の持ち味は、チガウんだもんよー。そりゃ芸達者な人だから、よく演じてるけどさー。ナチュラルボーンなかよこ主役のシーンだから、「努力で演じている」人が真ん中にいるのは、作品と作家ファンには物足りないのだった……。

 ああでもこれは、タータンがどう、じゃなく、まず最初に「作品」ありき、で語っているだけなの。タータンが悪いと言っているのではないの。どうせわたしは、痛いオギーファンよ。

 オギーだなー、と思ったのはこのシーンと、強いて言えばプロローグだけ。
 わたし的にはかなり、肩すかしでした。

 それでも、美しかったよ。
 なんだオギー、タカラヅカっぽいものも作れるんじゃない(笑)。
 このショーは、一見ヅカのショーっぽくはないかもしれないけど、根っこはちゃんと「タカラヅカ」。
 「絶望」と「破滅」をテーマにしてないもん(笑)。
 つーか、『パッサージュ』みたいな「ヅカのショーのふりをした、絶望と破滅のススメ」みたいなもんばっか作ってたら、エンタメから遠くなるぞー。まあ、それもわたしは観てみたいけどな(ヅカとしてはまずいって)。

 とにかく、オギーの次の作品に期待。

 とゆーことで、さよならショーだったんだよね。
 これって、オギー演出だよね?
 わたしはそうだと思ったんだけど。

 とゆーのも、テープの使い方が、ものすごかったから。
 ゆうこちゃんのさよならバウ『LAST STEP』を彷彿としたよ。

 まず、稽古場に入る星組生たちの声を、テープで流す。「おはよーございまーす」とか、みんなてんで勝手に喋っている。
 それがあったあとに、ふつーのショーがはじまる。
 んで、クライマックス。
 とうこの歌う「ブルース・レクイエム」の、本来なら台詞が入るところ(シギさんの「いい子だったわ……」など、ボニー&クライドを語る部分)に、これまた星組生たちの「別れの挨拶」がテープで流れるんだわ。
 「おつかれさまー」「お先に失礼しまぁす」「どこそこへ寄って行こうよぉ」などとゆー、「日常」の姿。
 実際に「ある」、「別れ」の姿。
 そして、そのテープにかぶるように登場する、「退団者」たち。

 こ、これにはまいった。
 だだ泣き。

 これぞオギーだっっ。
 この「痛さ」。

 日常の「別れ」を、永遠の「別れ」に重ねやがるっ!!

 日常が無邪気であればあるほど、今のこの、「永遠の別れ」が痛いんじゃないかっ。

 わたしは『凍てついた明日』の大ファンだから、よりによってさよならショーのある公演を狙って行ったのは、期待していたからだ。
 もう一度、クライドに会えることを。
 実際、会えたさ。
 タータンがクライドとなって舞台に現れた瞬間、わたし、両手握ってたよ。
 両手を組み合わせていた。
 神様! って、叫んでた。
 「クライドのテーマ」を歌うタータンを観ながら、神様って、心の中でつぶやきつづけていた。
 ここでなんで神様なのかわかんないんだけどさ。なんで祈りのポーズしてんのかわかんないんだけどさ。わたしべつに、宗教関係ない人なんですが。
 でも、心がきしんで悲鳴あげてて、痛くて痛くて、もう神様にでもすがるしかないって感じ。
 なんで祈るとき両手を組むのか、わかったよ。そうでもしないと、耐えられないからだ。自分の手を握る自分の力に支えられたよ。
 クライドがいる。……それだけで、痛くて痛くて、しょうがなかった。涙が出るのは結果でしかない。わたしはたしかに泣いているけど、それはかなしいからじゃない。
 心が、動いているからだ。
 そして、とうこのジェレミーだよ……。もー、いっそ殺して、ってな苦しさ。痛さ。
 とうこの歌で、ガイチが踊る。閉塞された、かなしい踊り。『凍てついた明日』そのままの振り付け。ぐんちゃんのさよならバウでもあったね。

 『凍てついた明日』の再現ってだけで、息も絶え絶えだったのに。
 そこに、無邪気な「日常の別れ」のテープが流れるのよ。
 そして、「永遠の別れ」をするひとたちが、かなしいくらい美しい姿で、立っているのよ。

 ちょっと待て、この人殺しぃぃぃいい!!
 あんた、わたしを殺す気ですか。
 今まで何度もオギーには殺されかけたけど。
 またしても、殺されかけたよ。
 痛くて、痛くて。

 ああ、いいもん見せてもらったよ……。だからオギーはやめられない……。


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