弟に会うなり、文句を言われた。

「お姉は大罪を犯した。おかげでぼくは迷惑を被った」

 お姉、というのはわたしのことだ。弟はわたしをこう呼ぶ。そして弟の一人称は「ぼく」だ。何故か一度も「おれ」とは言わない。へんなところでおぼっちゃま。

 
 は? 大罪?
 愛用のマグカップを持ってもらい湯に行ったわたしは、顔を見るなりそう言われて首をひねった。
 いや、のどが渇いたからお茶が飲みたかったのよ。でもちょーどウチのポットが空でさ。一から沸くのを待つより、親の家にカップ一杯のお湯をもらいに行った方が早いだろーと思ったのよ。
 んで、茶こしにお茶っぱ入れて、それをマグカップの上に乗っけて、つっかけ引っかけて、すたすた公道を歩いて、親の家まで行ったのよ。

 ドアを開けるなり、「あーっ、言ってたら本人が来た」と言われ、なにごと? と顔を見た途端、弟に責められたのよ。

「お姉が、この世でもっとも尊い母上様の予定を狂わすと言う、ゆるしがたい大罪を犯したから、すべて悪い」

 仕事から帰って来たところなんだろう。弟はひとりで遅い夕食を取っていた。
 弟の横には母が坐っている。

「母の予定とは、地上に存在するあらゆるものより大切な、なんびとたりとも邪魔をすることはゆるされない尊いものだからな」

 弟はかなり怒っている。
 怒りながら、ごはんを食べている。

 あー、なるほど。

 わかりました。

「母、あんたにも言ってたの?(笑)」
「言っていたさ。ずーーーーっとな(怒)」

 はい。
 今日わたしは、つい先刻まで飲まず食わずでいました。
 理由はありません。
 もともと食事というものにルーズなので、理由もなく食べなかったりするんですわ。
 それが、母にバレましてね。

「なんでなにも食べてないの?!」
 と、叱られましたのさ。

 んで、ゆうべから20時間ほど飲まず食わずだったわたしに、大慌てでなにか食べさせようと、ごはんを作ってくれたんですわ。つっても、レトルトのパスタソースを温めて、パスタをゆでてくれただけだけどな。
 食欲がなくても、とりあえず他人が労して作ってくれたら、その厚意に報いるために箸を取ります。
 とくに食べたくもなかったんだが……母上様がわざわざ作ってくれたから、ありがたくいただきましたさ。

 でもそれによって、母は「予定が狂った」のだ。

 母は忙しい。
 いつもいつも忙しい。
 仕事と家事だけなら、それほど忙しくはないはずだが、彼女はその人生において「暇」だったことなどただの一度もない、とてつもなく忙しい人なのだ。
 秒刻みで生きている、たぶんこの世でもっとも忙しい人の時間を、わたしが不用意に奪ってしまった。
 わたしが自分でごはんを食べなかったから、母が作るはめになった。
 母は予定が狂った。
 わたしが自分でごはんを食べてさえいれば、しなくてよかったことで、時間を浪費した。

 それに対して母は、怒っていた。

 山からの帰り道でわたしに電話してきたとき「なんでなにも食べてないのっ?!」と叱りつけてからずーーーっと、家に帰ったときも、わざわざわたしのために作ったごはんを、わたしがありがたくいただいているときも、ずーーっとずーーっと、怒り続けていた。

「予定が狂った!」
 と。

 わたしのために時間を浪費したことを、えんえんえんえん、愚痴り続けていたんだわ。
 わたし相手にも、顔を合わせている間中、絶えることなく言っていたんだが。

 どうやら、帰宅した弟相手にも、同じように愚痴りつづけていたらしい。

「朝起きたところからはじまって、現在にたどり着くまでずっとだぞ」
 と、弟。

 朝?

 わたしのためにごはんを作ってくれたのは、今日の夕方だ。なのに母の愚痴は今日の朝のことからはじまる。朝の段階では、別の家に暮らしているわたしとはまったく関係ないはずなんだが。

 朝、忙しい母は「今日はこうしましょう」と自分で1日のイメージを作る。
 朝、母はいろいろ夢を見る。今日はこんな日。今日はあれをするの。これもするの。そしてこんなふうになるの。
 朝の希望。きらきらきら。

 なのに。
 アホウな娘のために、予定が狂った。
 朝、あんなに夢を見たのに。
 あれもしましょう、これもしましょう。こんな日になるはず。
 そう思っていたのに。
 ああ、夢を見たわたしの朝のひととき。
 朝のわたしが希望に満ち、無邪気だったことから語らなければ。アホウな娘の仕打ちの非道さは伝わらないわ!
 ……てなもんで、まず、母の朝の話からはじまるわけなんだわー。

 朝の話を聞かされて、昼間の趣味の山登りの話を聞かされて、夕方機嫌良く帰ってきたら、なんと娘が食事もせずにいるという! オーマイガッ! すぐになにか食べさせなければ! なんて非常識な娘なの、いいトシをして!! という話を聞かされ。

 弟は、仕事から帰ってからずーーーっと、母の愚痴を聞かされつづけていたらしい。

 た、大変だな。
 朝から今日一日ぶんの母の日記を愚痴モードで聞かされたのか……そりゃ怒るわ。

「母の大切な時間を浪費させるなんて、絶対にやってはならないことだ、法律でも決まっている!」
 弟はぷんぷん。
 ごめんてば。
 まさかあんた相手にも、壮大な自分語り……じゃねーや、「アホウな娘のために、大切な時間を30分ほど浪費させられた」ことを嘆いていたなんて、思わなかったからさー。
 しかも朝の話からか……わたしには朝の話はしてなかったから、弟の方が話が壮大になっている分、気の毒だ。

 でもわたし、母にはひとことも言い返してないよ。
 「ごはん作ってなんて、わたし頼んでない」なんてこと、言ってませんてば。
 母はわたしのことを思って、自発的に作ってくれたんだもん。ありがたいことです。
 そして、食べている間中、ずーーーっと責められつづけていましたさ、「予定が狂った。時間を浪費した」と。

 いやあ、元気です、マイ・マミー。

 母がなんでそんなに忙しいのか、わたしは理解する気がないので、子どものころからずっとスルーしてきた。
 下手に「なんで忙しいの?」なんてことを聞こうものなら、それこそ何時間も「いかにわたしが忙しいか!」を語られてしまうからだ。
 何時間も語る暇があるなら、もっと有意義に時間を使えばいいのに……とは思うんだが。こわくて言えない(笑)。

 とにかく母は忙しい。
 そんな母の時間を奪うことは、万死に値するのだ。
 そして今日のわたしは、大罪を犯した。

 弟は被害者。
 彼は最近、母と人間らしい会話することをあきらめている節があるのだが、今日またそれに拍車がかかったかもしれん。

 母は「息子がろくに口をきいてくれない」と嘆くが、それはまー、自然の摂理のひとつじゃないかと。
 それこそ、母の時間を浪費することはこの世でもっとも許されない大罪、という摂理と同じくらいには。

 緑野家は今日も平和ナリ。

  

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