恒例の、淀川花火大会へ。

 いつの間にやら恒例。しかも面子は母とわたしと叔母。
 昔は他の人と行ってたんだが、最近はこのメンバーだ。なんて色気のない。

 6時に集合ね、って言ってたのに、叔母は4時に現れた。早すぎるよー。急き立てられて、5時過ぎに出発。早く行きすぎても、待つのが大変なだけじゃんよ。

 叔母はわたしの顔を見るたびに「膝は大丈夫なの?」と聞いてくる。
 わたしはそのたびに、そっかわたし膝悪かったんだったな、と思い出す。
 膝に違和感があるのも軽い痛みがあるのも日常だから、本人的にはすっかり忘れているんだ。痛くてあたりまえ、だから、気にならない。
 わたしは歩くのが好きだし、実際よく歩いている。現在のダイエット方法は踏み台昇降だしな。膝に悪いこといっぱいしてるわ。
 そーだ、わたし膝悪かったんだ。いつもちょっぴり痛いけど、そんなのいつものことだから忘れてた。
 本人が忘れているくらいなのに、何故叔母はいつも同じことを聞いてくるのか。
 ……叔母の前で一度、歩けなくなったからだ。
 いつだっけ、花見に行ったとき、突然膝が抜けたんだわ。
 わたしの意志とは関係なく、膝が機能しなくなって、ぺたんと坐り込んだ。たしか哲学の道でだ。あれにはわたしもおどろいた。
 叔母もおどろいただろう。その日わたしが足をひきずっていたのは知っていたろーけど、まさか突然歩けなくなるなんて。
 一緒にいた母は激怒するし。母は体調不良は本人の責任だという信念を持っているので、わたしが歩けなくなったことに対して怒っていた。「歩けないなら、ついて来なくてよかったのに」と。「ひとりがそんなふうだと、みんなが迷惑するわ」と。
 悪かったってば。たしかに体調最悪だったわ。仕事が佳境で、何日もまともに休んでいない状態だったんだ。だから参加するのを、一度は断ったよ。しかし、家族揃ってのお出掛けをとてもたのしみにしていた父が、当日の朝にわざわざわたしの家まで「一緒に行こうよ」って迎えに来たんだもの。腹をくくって、無理して出掛けたさ。
 そしたら途中から膝が痛み出して、片足を引きずることになった。普段ならわたしは、ふつーに歩けるんだけどな。
 で、ついに坐り込み。みんなもびっくりしただろーけど、わたしもおどろいた。せめて家までは保つと思ったんだ。
 そーゆー醜態を見せてしまったから、叔母はわたしの顔を見るたびに膝のコンディションを聞く。
 あの、ぜんぜん大丈夫です、叔母さん。わたし元気に歩いてるし、美容と健康のために階段で大汗かいて昇降運動なんぞしてます。チケットのために、毎週がんがん並んでます!(笑)

 そうして女3人で、LET’S 花火見物。北大阪最大規模の淀川花火大会へ。
 近いのは十三だけど、十三は混み方がえげつないので、あえて塚本へ。
 予定外の早い時間に出発したから、わたし完全にすっぴんです。だって6時出発だって信じてたんだもん。叔母は両親の家で6時まで待ってるんだと思ってたんだもん。
 なのに5時にはわたしの家の前に、準備を済ませた母と叔母が並んでて「さあ出発!」。待ってくれ、わたしまだ外に出ていい格好してない。外出のときでなきゃ、コンタクトレンズ入れてないのよう。
 鼻息の荒い彼らは、わたしにコンタクトを入れる時間しかくれなかったわ。

 人出は去年より多い。しかも、年々若者率が高くなる。わたしたち一行は、参加者の平均年齢を引き上げているよな。
 毎年参加の慣れで、いい場所をGET。ビールを開け、お弁当を食べ、時を待つ。

 たのしみはやはり、「今年の新作」だ。
 花火は進化している。毎年確実に。如実に。
 わたしは花火についてなんの知識もないシロウトだが、新作だけはわかる。
 見たことがないもの=「新作」だ(単純)。
 猫と魚、蝶が大進化。ハートだってさらに洗練されてきた。丸い花火の中で星(五角形のあの星)がちかちか瞬くやつなんか、すごい。ファンタジーだよ。たんぽぽの中で星が瞬いてるみたい。
 そして。

 花が、咲いた。
 デイジーみたいな、花弁の細い可憐な花。

「あ、お花だ」
 子どもの声があがる。
「お花だ」
「お花だ」

 花火。
 そーゆー名前だってことは、アタマではわかっている。
 だけどわたしも、心の中でつぶやいていた。子どもたちと一緒に。
「あ、お花だ」

 ほんとに、お花なんだもん。
 花火で、花を作る。
 花のようだから花火、ではなく、花火で花を作って夜空に咲かせる。
 なんか、言葉にするとみょーな感じだが、そうとしか言いようがない。
 花火の、花。

 よく考えついたよね。花火で花を作ろうなんて。

 とても、きれいだ。
 夜空に咲く花。
 一瞬だけたしかに咲いて、そして消える。

 人々は、花火を見るために集まる。
 いったいどれほどの人数だろう。行動は制限され、危険も増し、それぞれなにかしら不愉快な想いをしているだろう。暑さだったり混雑だったり場所取りだったり。
 行きはともかく、帰りの不快さ不便さは覚悟のうえだろう。
 それでも、人々は花火を見るために集まる。
 美しいものを見るために、やってくる。
 感動するために、やってくる。

 人々は、拍手をする。
 相手は花火だ、喝采をあびてもなにも感じない。河川敷何キロにも広がった人々の拍手が、花火師に届くわけでも見えるわけでもないだろう。
 だけど人々は拍手をする。
 感動するから。
 声を上げ、手を叩く。
 それはなにか見返りを求めた行動ではなく、純粋に心から出た行動だ。

 昨日かねすきさんは、「大変な想いまでして、花火なんか見たくない」と言った。
 花火ごときで、不快な想いを我慢したくない、と。
 たしかに、それはその通りだ。わたしも今日淀川に来る予定だったから、宝塚はスルーした。規模が段違いだから、まったく惜しくないさ。

 花火大会の不快さは、「過剰な混雑」がすべてだろう。
 混みすぎるから暑いし、空気悪いし、トラブルが発生するし、待たされるし、と、すべての引き金になっている。
 わたしも混雑はいやだ。つらい。
 だけど。

 わたしはやはり、花火を見るためにたくさんの人が集まるということもが、愛しいのだと思う。

 声があがるのよ。歓声だよ。
 素直な、魂の声だよ。
 拍手が起こるのよ。
 感動で身体が勝手に動くのよ。
 あちこちの話し声。感想。赤ちゃんの泣き声。見渡す限りの人波。遠く輝く屋台の明かり。はぐれた連れを探す人。両手いっぱいに食べ物のお皿を持って歩く人。女の子たちの色とりどりの浴衣。
 そして空には華。

 音が突き抜けるのがわかる。
 響いている。
 ガイチのことを思い出した。ガイチのコンサートで体験した、ゴム風船を抱きしめることによって、音を振動として身体で感じるってやつ。
 風船を買ってくればよかった。おなかを震わせるようなこの音は、どんなふうに抱きしめられるのだろう?

 純粋に美しいものを見て、こころもふるえた。
 行って良かったよ。ビバ恒例行事。

 帰りを想定して見る場所を決めていたので、帰りもとてもスムーズ。
 花火終了から30分後には電車の中(座席確保)、1時間後には帰宅してました。

 

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