わたしは高校生のときから、読書記録をつけている。当時はノートに鉛筆書き、そのうちボールペンや万年筆を使うようになり、次にワープロ使用、そして現在はもちろんパソコンで書いている。
 高校時代はとにかく、読むことと感想を書くことがたのしくて、今から思えばものすごい数を読み、また書いていた。おかげで卒業するときには表彰されたな、学校図書館の最多利用生徒のひとりとして。

 しかし、年々読書量は落ちた。
 今はもう、読書が趣味だなんて言えない程度だなあ。
 そして、読書記録も滞りがち。

 今ごろになって、年末に読んだ『血と砂』の記録が半端なままだったことに気づく。
 携帯用のハンドヘルドPC(ミニパソ、とわたしは勝手に呼んでいる)で書き殴ったままだわ。

 そう、『血と砂』。月バウの『血と砂』があまりにもすばらしかった(笑)ので、興味を持って読んだ。絶版しているうえに、最寄りの図書館にはなく、他自治体の図書館まで出向いて読んだ。
 いちおーほら、名作とか文豪とか呼ばれている作品だし。映画化されたりしてるわけだし。なにより、同じような立場の『凱旋門』だってすばらしかったのだから、きっとなにかしらたのしめる作品であるにちがいない。

 ははは。

 最悪、でした。この本。

 作者がどうとか、ストーリーがどうとか以前の問題で、わたしはつまずいた。
 訳文。

 この翻訳、さいてー。

 『レッド・ドラゴン』の翻訳を超えたわ。それまでは、わたしのなかで最悪といえばトマス・ハリスの『レッド・ドラゴン』だったんだけど。

 『レッド・ドラゴン』は、たんに文章がヘタだったの。「てにをは」が変だった。主語と述語、そして視点の混乱なんかあったりまえだったし。
 そうか。どんなに日本語ヘタでも、とりあえず読めたよなあ、『レッド・ドラゴン』。まだましだったんだなあ。
 ……そんなふうに、思わせてくれる。

 それくらい、わたし的には最悪だった、『血と砂』東京創元社版!

 これはもう、センスの問題。好き嫌い、生理的嫌悪感の問題。
 なかには、この訳文が「すばらしい! これほどの名文がこの世にあるだろうか、いやない!」と思う人も、あるかもしれない。
 だがわたしは、嫌いだ。

 舞台はスペイン。
 そして、主役は花形闘牛士。
 彼はスター。多くの人々が、彼をたたえ、彼にあこがれる。
 彼は若く才能にあふれ、富と名声を得、それによる高い自尊心をも持ち合わせている。おしゃれで粋な男でもある。けっこーいいかっこしいでもある。
 とにかく、男前で、かっこいいのだ。映画ではバレンチノがやっていたくらいだ。
 なのにそのクールぶってる傲慢系ハンサムは、こう言うのだ。

「ちょっと待っておくんなせえ、旦那さん方。あっしはいろいろと忙しいんでやんすよ」

 なんなのこれぇええ。号泣。

 なんでスペインの花形闘牛士が、べらんめえ喋りなの? 江戸の鳶みたいな喋り方なの?!
 「光の衣装」と呼ばれる、あの華やかな闘牛士の衣装や、19世紀の丈の長いオシャレなスーツ着て、なんで時代劇の町人喋りなの?

 訳者はかっこいいと思ってやったのかもしれない。
 訳者にとっての「かっこいい男」ってのは、時代劇の町人ヒーローなのかもしれない。
 「こんなにイカした表現をするなんて、おれだけだろ」と悦に入って書いたのかもしれない。「闘牛士のいなせさを、江戸の男の喋り方で表現するなんて、他に誰もいないよな。おれって天才!」と思って書いたのかも、しれない。

 そしてこれが、世間的にかっこいいのかどうかも、わたしは知らない。

 だが、わたしは大嫌いだ。
 イメージ台無し。

 訳者はへんなことしなくていいよ。ふつーに訳してくれよ。
 ふつーでいいんだよ。べつにわたし、へんなこと要求してないだろ?(泣)

 古いからか? とも思った。
 出版が1958年だから、この時代の翻訳小説はみんな時代劇調なのかもしれない、と。
 だが、同じくらいに出版された『凱旋門』はふつーの日本語だったぞ?!
 だからやはり、訳者の趣味じゃないのか??

 とにかく、最低最悪の翻訳だった。
 おかげで小説をたのしむなんて、できなかった。

 わたしゃ想像力に欠けるし、アタマもよくないから、文章がヘタレた小説は読めないのよ。脳内で補ってあげられないの。ふつーのものなら、読めるけど。
 多くはのぞまない。ふつーレベルの仕事をしてくれ。

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